第6話 宮廷の庭園 真相
鋤が土を噛む音は、思ったよりも重かった。
夜の庭園に、男たちの荒い息と、灯りの油が爆ぜる音だけが響く。
一尺、二尺、三尺。
掘るほどに土は黒く、湿り、饐えた匂いを放ちはじめた。
職人たちの顔から、次第に軽口が消えていく。
一刻近く経った頃だろうか。
穴はもう、大人が二人ほど立って入れるほどの深さになっていた。
「──殿下」
穴の底から、押し殺した声が上がった。
「……何か、出ました」
私は駆け寄って、縁から身を乗り出した。
水明様の腕が音もなく私の帯を掴む。落ちるな、ということらしい。
灯りが底を照らす。
湿った黒土の中に、何かが横たわっていた。
人骨だ。
仰向けではない。膝を折り、両腕を胸の前に抱え込むようにして、体を丸めている。
何かから身を守ろうとした姿勢のまま、時間が止まったような形。
茶褐色に変色していることから、かなりの死後かなりの年月が経過していることが窺える。
だが、露出した人骨の全体よりも、私の視線を惹きつけて離さなかった部分があった。
それは──。
「……肋骨」
私は息を呑んだ。
骨格の中で、胸の部分だけが黒く沈んでいた。墨をこぼしたのではない。骨そのものが内側から変質した、あの独特の艶。
「霊骨です」
引き上げられた骨は、莚の上に丁重に並べられた。
職人たちは誰も口をきかず、ただ手を合わせて後ろへ下がる。
記憶を読もう。
私は膝をつき、袖をまくった。
「キカリ」
水明様の声に、私は首を振った。
「触らないと分かりません」
指先を、黒い肋骨に触れさせる。
瞬間──真っ暗だった。
闇。土の重さ。胸を押し潰す圧。
口を開けても入ってくるのは空気ではなく砂で、爪が剥がれるほど掻いても掻いても、上は遠い。指先に血が滲み、尋常ではないほどの恐怖に溺れ、泣き叫ぶ力も消えてなくなる。
『助けて』
『見つけて』
『苦しい──』
「っ、」
私は勢いよく手を離した。
心臓が跳ねている。喉の奥に、存在しないはずの砂の味が残っていた。
肩に、大きな手が置かれる。硬い、しかし温かな手。
振り向くと、水明様が片膝をついて私を覗き込んでいた。冷たいはずのその目に、隠しきれない色がある。
「……無理をするな」
「無理はしてません」
私は袖で口元を拭って、立ち上がった。
震える指を握り込んで、隠す。
強がる私。しかし虚勢を張っていることはわかっているはずなのに、水明様はそれ以上追及せず、私の背中を擦った。
「霊骨はなんと言っている」
「助けて、見つけて、苦しい。それだけです──でも見えたものがあります」
「見えた?」
「暗闇。土。押し潰される感覚……この子は、埋められたんじゃない」
私は骨を見下ろした。丸めた背中。
抱え込んだ腕。
「埋まったんです。生きたまま」
水明様の眉根が寄る。
「殺されたのではないと?」
「殺意の記憶がありません。恨みも、憎しみもない。あるのは、ただ怖かったという感情だけ。──水明様」
私は顔を上げた。
「書庫へ行きましょう」
◇
宮廷の書庫は、とうに閉館していた。
だが皇太子が来れば話は別だ。叩き起こされた書庫番が寝間着の上に羽織をかけたまま飛んできて、震える手で錠を外した。
「よ、夜分に……あの、何をお探しで……」
「天災の記録だ」
水明様が短く答えると、書庫番は目を白黒させた。
無理もない。真夜中に皇太子と婚約者が押しかけてきて、探すのが天災の記録である。私が書庫番なら、同じような反応をしたことだろう。
ガチャ。水明様が扉を開けた瞬間、私は彼をおいて中に入る。
黴と紙と膠の匂いが鼻をつく。灯りを掲げ、書架の背表紙を追いながら、歴史文献の区画へまっすぐ向かう。
「水明様。皇京の地誌と、災異──地震の記録。古い順に探してください──あるはずです。この国は昔から、天変地異を克明に書き残す国ですから」
「なぜ地震だ」
「他者からの殺意も、自らの絶望も感じられなかったからです」
私は書架を指でなぞりながら答えた。
「他者から殺されたわけではない。自ら命を絶ったわけでもない。これらの条件を満たす生き埋めの原因は、天災以外に存在しないでしょう」
水明様が、わずかに息を呑む気配がした。
「……地震による、地割れか」
「正解です」
「地割れ、あるいは地滑りであれば、確かに記録が残っているはずだな」
「えぇ。人が死ぬほどの地震なら、必ず」
この国は千年以上昔の天災ですら記録が残っている。あるはずだ、必ず。
やがて、灯りの光が古びた木箱の並ぶ一角を照らした。私は背伸びをして、指を伸ばす。
……届かない。
目当ての一冊は、書架の最上段。爪先立ちになっても、全く届かない。
「……水明様」
「なんだ」
「肩車をしてください」
沈黙が落ちた。
「……なんだと?」
「私では届きません。水明様が手を伸ばしても、恐らく指先を掠る程度の高さです。なので」
「いや、梯子などは──」
「梯子があるのは書庫から遠く離れた倉庫です。面倒でしょう」
水明様は数秒、天井を仰いだ。
それから溜息をひとつ落として、灯りを床に置き、片膝をついた。
「乗れ」
「言っておきますけど」
私は彼の肩に手をかけて、低く釘を刺す。
「変なところ触ったら、容赦しませんから」
「……俺を変態のように扱うな」
「超絶に顔のいい男は、須く油断ならないものですから」
「褒めているのか貶しているのか、どちらかにしろ」
ふわりと、体が持ち上がった。
視界が一気に高くなる。書架の天辺が目の前に来て、埃が舞い、灯りの光が本の背をなぞる。彼の肩は、思っていたよりずっと広くて、揺るぎがなかった。流石は妖刀を振るう男の背中。頼もしい。
……不覚にも、少しだけ、安心した。
「取れました」
私は一冊の帙を引き抜いた。
床に降り、灯りの下に広げる。虫食いだらけの紙面。褪せた墨。指で追うと、記述はすぐに見つかった。
──大地鳴動シ、竜棚一帯陥没ス。家屋二十余、地ニ呑マル。死者、数ヲ知ラズ。
「今から……四百年ほど昔の記録ですね」
描かれていた絵と地図。
その紙面で私は指を止めた。心臓が、静かに冷たくなっていく。
「庭園がある場所。ここが、丸ごと地面に呑まれてる」
「……あの骨は、その時の」
「ええ。逃げる間もなく落ちて、埋まって、そのまま誰にも掘り出されなかった。今日までずっと」
それがどれだけ苦しいことか。
断片的な記憶を読み、追体験することしかできない私には、想像することもできない。
あの声は、恨み言ではなかった。
呪いでもなかった。ただ、生き埋めになったあの瞬間から、時間が止まったままだったのだ。四百年、暗闇の底で、通りかかる誰かに手を伸ばし続けていた。
夜の庭園を歩いた者が倒れたのも、当然だ。
あの子の記憶が流れ込めば、苦しみを少しでも感じれば、人の魂は耐えられない。
土の重さと、砂の味と、開かない喉。心底求めた空気が得られない苦しみは、どれほどのものなのか。
「……可哀想に」
声が震えた。
水明様が、何も言わずに私の背に手を添える。
それから私は、もう一度紙面に目を落とした。
そして、ある一語で指が止まった。
「水明様。ここ」
「竜棚……この地の、古い名か」
「そうです。そして……そもそも土地に、天災が記録されていた」
私は顔を上げた。
「古い時代の人々は災害が起きた土地に、必ず印をつけたんです。竜。蛇。虎。──荒れ狂うもの、うねるもの、人を喰うものの字を当てて、地名にしました」
「それは、どうして」
「文字を残す以外に、子孫に伝える方法がなかったからです」
私は指で、褪せた「竜」の一字をなぞった。
「記録は焼ける。人は死ぬ。語り継ぐ口も、三代あれば忘れる。だから地名にした。ここは地が動く土地だ、住むなら覚悟しろ、と。何百年先の子孫が、名を呼ぶだけで思い出せるように」
「……」
「なのに」
私は書庫の窓に目をやった。
硝子越しに、宮廷の甍と、その向こうに広がる皇京の灯りが見える。
近代化の名の下に、日ごと膨れ上がっていく街。
「今の人間は、そんな名前を『縁起が悪い』と言って書き換えます。竜を消して、めでたい字を当てて、その上に平気で家を建てる──先祖が命がけで残した警告を、体裁が悪いという理由で消してるんです」
「キカリ」
「いずれ来ますよ」
私は静かに言った。
「四百年前と同じことが。竜の名を消した土地に、また竜が帰ってくる日が……その時、地面の下から助けを求める声は、あの子ひとりじゃ済まない」
書庫に、長い沈黙が落ちた。
やがて水明様は私の手から古びた帙を受け取り、丁寧に閉じた。
「……写しを取らせる。工部と、宮内省の造営掛に回す」
「聞き入れられますか。近代化に浮かれた連中が、四百年前の地名なんて」
「聞かせる」
彼は静かに言った。冷酷無比と噂される、その低い声で。
「俺は皇太子だ。地位というものは、こういう時のためにある」
……ああ、まったく。
この人は本当に、ずるい男だ。
◇
骨は、三日後に供養された。
陰陽殿の祭壇に丁重に安置され、僧が経を上げ、名も知れぬ乙女のために香が焚かれた。
私は最後にもう一度だけ、あの黒い肋骨に触れた。
──もう、暗くないですか。
返ってきたのは、言葉ではなかった。
ただ、ひどく穏やかな温度。長い息を吐き終えたような、静けさ。それきり、声は途切れた。
骨は皇京の外れの寺に手厚く埋葬され、掘り返された庭園の隅には、小さな地蔵が据えられた。
私が贅沢を三月分諦めて誂えたもので、水明に「代金は俺が持つ」と言われたが断った。これは、私が置きたかったのだ。
地蔵の前に一輪、椿を供える。
その夜から、庭園に声が響くことはなくなった。倒れる者も、二度と出なかった。




