第5話 宮廷庭園の謎の声
噂というものは、骨よりも早く土の中を這って広がるらしい。
朝、下官寮を出て宮廷の門をくぐった瞬間から、視線が刺さった。廊下の角を曲がるたび、扇の陰でひそひそと交わされる声が耳に届く。
「聞いた? あの雪解キカリが、ついに」
「殿下が落とされたそうよ。五つの難題を全部揃えて」
「氷の女官も、皇太子殿下にはかなわなかったのねぇ」
「落とされとらんわ!!!」
思わず廊下の真ん中で叫んでしまい、行き交う下官たちが一斉に足を止めた。
……しまった。
私は咳払いをひとつして、乱れてもいない襟元を整える。ここで慌てたら、それこそ噂に薪をくべるようなものだ。落ち着け、雪解キカリ。あなたは頭蓋骨の縫合線を見ただけで年齢を当てられる女でしょう。この程度の風評、鼻歌まじりで受け流しなさい。
そう自分に言い聞かせながら陰陽殿の詰所に入ると、すでに机に頬杖をついた同僚が、にやにやと私を待ち構えていた。
「おはよう、キカリ。今日も宮廷中の話題を独り占めね」
「そんな新しい玩具を見つけたような顔を私に向けている理由は?」
「自分が1番よくわかっているんじゃない?」
「それは……そうだけど」
他人事だからって面白がって……。
恨めしい目を向けるが、ヤスメは全く意に返さず。相変わらずの分厚い隈を目元に作り、しかし瞳をキラキラさせながら私に尋ねる。
「ねぇねぇ、なんで皇太子殿下の求婚を受けたの? 昨日まで『求婚してくる殿方は全員、私の骨格標本より退屈』って言ってた貴女が、一夜にして皇太子殿下の婚約者になった理由は?」
ここまで恋愛に興味のある子だったか?
思いつつ、私は机に鞄を置き、大きく息を吐いた。
「馬鹿げた難題を全部クリアされたの。それだけ」
そう。それだけだ。
求婚が絶えないのに嫌気がさして、私は五つの条件を突きつけた。存在するかどうかすら怪しい骨の珍品の要求。もちろん、達成できるとは思っていない。断るための難題だ。難題は一つだって、クリアできるわけがなかった。
なのにあの男は、五つ全部を、私の目の前に並べてみせた。
「揃えられたら結婚する、って自分で言った以上、約束は守るよ。私は言葉を違えない女なの」
「へえ」
「言っておくけど、惚れてないから」
私は指を一本立てて、はっきりと宣言した。
「一切。微塵も。骨の髄まで惚れてない」
ヤスメは数秒黙り、それから肩を震わせて笑い出した。
「ふふ、そうだねぇ……でも私、結婚から始まる恋も素敵だと思う」
書類を揃える手つきはあくまで優雅で、その横顔にはからかいの色がない。だから余計に、返す言葉に詰まった。
「……ヤスメは、ずるい」
「あらら、褒め言葉として受け取っておくね。さ、仕事仕事」
◇
昼。
私は宮廷を出て、門前通りの汁粉屋に行くつもりだった。給金の大半を骨格標本に注ぎ込んでいる身としては、月に一度の贅沢である。
が、渡り廊下に差しかかったところで、背後から低い声が降ってきた。
「キカリ」
振り返る。逆光の中に、黒衣の長身が立っていた。
宵闇帝水明。この国の皇太子にして、陰陽殿の総統。肩には常のごとく妖刀・霊月天領。すれ違う官吏たちが道の端に寄って頭を垂れる中、彼だけが悠然と歩いてくる。
……本当に、腹が立つくらい顔がいい。
「昼はまだか」
「これから外に出るところです」
「ならば付き合え。話がある」
「え」
断る隙もなく、私は執務室に連れ込まれた。
そして卓の上に運ばれてきた膳を見て、私は絶句した。
鯛の潮汁。白飯。青菜の胡麻和え。玉子焼き。焼き物は雲丹の乗った甘鯛。氷室から出したばかりらしい水菓子まで並んでいる。
あまりにも豪勢。あまりにも贅沢な昼食。
平民である私には到底相応しくないメニューに、私はわなわなと口元を震わせる。
「……あの、水明様。これ、何人分ですか」
「二人分だ」
「宮廷の下官の昼餉は、握り飯二つと沢庵ですけど」
「其方は俺の婚約者だろう」
しれっと言って、彼は箸を取った。
冷たい横顔のまま、玉子焼きの皿を私のほうへそっと寄せる。
──こういうところが、たちが悪い。
私は諦めて椅子に座った。
汁を一口すすると、あまりの出汁の深さに一瞬、思考が止まる……悔しい。美味しい。流石に手が込んでいる。
「本題だ」
水明様が卓に一枚の紙を滑らせた。
「三日前から、宮廷北の庭園で怪異が起きている」
手に取った紙面には、庭園の見取り図と、几帳面な字で並んだ日付。そして人名。
「夜な夜な、声が聞こえるという報告が上がっている。だが、聞いた者は翌日には、誰ひとり内容を覚えていない。残っているのは恐ろしい体験をしたという抽象的な記憶のみ。そして──」
「倒れた人がいる、ですね」
私は紙面に記載されている名前に視線を滑らせる。
人数は六人だ。
「五日で六人。全員、夜半に庭園を通りかかった者です……水明様、この人たち、倒れた後どうなりました?」
「半刻ほどで目を覚ました。外傷はない」
「熱は? 嘔吐は? 目が覚めた後、頭痛を訴えませんでしたか? 恐らくは何もないと思いますが」
水明様の眉がわずかに動いた。
「……なぜ分かる」
「気を失うのと、意識を奪われるのは違うんです。前者なら身体に理由が残る。でも六人全員に外傷も熱もないなら、霊の仕業です。これは身体の異常じゃない。魂のほうに直接触れられている」
私は箸を置いて、彼をまっすぐ見た。
「霊障です。それも、かなり強い」
しばしの沈黙のあと、水明様は口の端をわずかに上げた。
「面白い……やはり、其方といると退屈しないな」
「冷酷な皇太子様も、人を褒めるときがあるんですね」
「俺をなんだと思っている。褒めることくらいあるさ……今夜だ。子の刻、庭園に出る。──其方の耳が要る」
「はいはい。働かせていただきますよ、殿下」
あの骨代くらいは働かなくては。
私は告げ、玉子焼きを口に頬張った。
◇
夜。
庭園は昼とはまるで別の場所だった。
灯籠の火は落とされ、月明かりだけが石畳を白く濡らしている。池の水面は黒い硝子のようで、風もないのに、時折ぞわりと波打った。
私は水明様の半歩後ろを歩く。
彼の右手は、常に霊月天領の柄に触れている。長大な大太刀を、いつでも抜刀できるように。
「……聞こえます」
足を止めた。
最初は虫の音かと思った。でも違う。もっと細く、もっと湿った音だ。それは私の耳ではなく、耳の奥の骨を直接震わせて響いてくる。
私は──骨詠の巫女。
霊骨の声を聞く者。この耳が拾うのは、いつだって死者の言葉だ。
『……誰か』
息を呑む。
『誰か、見つけて』
女の声だった。若い。喉が渇いて掠れて、それでも懸命に、暗闇の底から手を伸ばすような声。
地獄の底から救いを求めるようなそれだった。
「キカリ」
水明様が私の名を呼ぶ。
だが私は答えず、声のするほうへ歩き出していた。
池を回り、藤棚の下をくぐり、庭園の隅──手入れの行き届かない椿の茂みの前で、足が止まる。
しゃがみ込んで、土に手をついた。冷たい。だが指先に伝わってくるのは、土の温度ではない何かだ。骨が呼んでいる。皮膚の下から、私の骨に向かって。
遠慮なしに、私の魂を掴んでくる。
なるほど。常人が意識を奪われるはずだ。
私じゃなかったら、このまま長い眠りに就くところだ。
「ここです」
けれど意識を失うことも、倒れることもなく、私は顔を上げた。
「ここに霊骨があります。深さは……一尺半か、二尺。まだ黒く変色しきってはいないけど、意思はしっかりある──この子、ずっと呼んでたんですよ。見つけてって」
「そうか……」
水明様の反応は、早かった。
「愛鐘」
闇の中から音もなく現れた眼鏡の男が、片膝をつく。
「工部の夜番を叩き起こせ。人夫十名、鋤と桶、それと灯り。すぐに用意しろ」
「承知いたしました」
男が闇に消えてすぐ、庭園には煌々と灯が灯り、屈強な男たちが列をなして現れた。
夜の宮廷が、たった一言でひっくり返る。
私は思わず、口元を押さえて笑ってしまった。
「……どうした?」
「いえ。皇太子殿下の地位って、本当にすごいんだなと思って」
ザクッ、ザクッ。
鋤が土に入る音が、静かな庭園に響き始める。
その音を聞きながら、私は土の下の彼女に、そっと心の中で語りかけた。
──もう少しだけ待ってて。今、迎えに行くから。




