第4話 求婚した理由
満月の光が、塔の上を白く塗り替えていた。
私は、目の前の男を凝視していた。今しがた耳にした言葉が、頭の中で何度も反響している。
――其方に恋心は抱いていない。
……いや、どういうこと? 言動と行動が一致していない。
恋をしていないのなら、好きでないのなら、彼は何故私に求婚をしているのか。
「……あの。恋していない、とはどういうことですか」
掠れた声で尋ねると、水明様はきょとんとした表情で言った。
「そのままの意味だが」
「意味が分かりません。ならばどうして、私に求婚を? 五つの骨まで揃えて……これ、相当な労力だったでしょう?」
「あまり皇太子という身分を嘗めないほうがいい。これくらい、伝手を使えば簡単なこと」
伝説の霊骨を簡単ですか……皇太子、半端ねぇ……。
水明様は、ようやく月から視線を外し、私を見た。
その双眸は、やはり冷たい。
けれど、あの夜と同じように、その奥には何かが揺れている。
私はまだ、その正体を知らない。
「俺が欲しいのは、其方の力だ」
「それは……」
無意識に、私は自分の耳に手を当てる。と、彗明様は頷いた。
「骨詠の巫女。霊骨の声を聞き、触れることでその記憶を読み取る――そうだな?」
私は無言で頷いた。
この力を正確に把握している者は、宮廷でも数えるほどしかいない。陰陽殿の記録には残っているが、近代化の名の下に打ち捨てられた古い書類だ。誰も読みはしない。中には、存在すら疑う者も多い。
「近頃、宮廷内で霊にまつわる事件が頻発している」
水明様は月夜の下、淡々と語り始めた。
「回廊で死者の声を聞いたという証言。誰もいないはずの部屋から物音がするという報せ……先月には、下官が一人、原因不明の錯乱を起こして池に身を投げた」
「そんな事件が」
「公にはされていない。宮廷の威信に関わるとして、上層部が握り潰した」
その言い方に、微かな苛立ちが滲んでいた。
「加えて、市井では悪霊使いによる犯罪が増えている」
「まだいたのですね……魂を弄ぶ、悪人共が」
霊骨を弄び、意図的に悪霊へと堕とし、使役する者たち。
かつては陰陽師の中でも忌み嫌われた邪法だ。平安の時代には殲滅作戦が行われたこともある。
とうの昔に滅ぼされたと思っていたのだけど……この不安定な情勢に乗じて、復活したのか。
「革命で身分制度が崩れ、古い秘伝の書物が散逸した。それを手にした者たちが、力を求めて手を出している……先週も、日本橋の質屋で一家四人が殺された。現場には霊骨が残されていた」
私は息を呑んだ。
そんな事件、新聞には一行も載っていない。
国の上層部は、一体どれだけの事実をもみ消しているのか……。
「陰陽殿は予算を削られ、人員も減った。悪霊を斬ることはできても、その骨が何を語っているのか、誰が、なぜ、それを悪霊に堕としたのか――それを知る術がない」
水明様は私を真っ直ぐに見据えた。
「其方の力があれば、骨そのものが証言者になる」
「……」
「死人に口無し、という言葉があるだろう」
「ええ」
「其方の前では、それは通用しない。其方の前では、彼らは真実を語る証人となる」
私は、ゆっくりと口を開いた。
「死人に口無しなんて台詞は、私の前では無意味……ええ、その通りです。彼らは私に対して、色々と語ってくれます。嘘偽りのない言葉を、全て」
水明様の口元が、わずかに緩んだ気がした。
「これらの事件を解決し、人々の安寧を守るために、其方の力が必要なのだ」
――ご立派なことで。
そう、内心で呟いた。実際、立派だと思う。
皇太子という地位にありながら、握り潰された事件を追い、市井の犯罪に心を砕く。並の権力者にできることではない。かつていた、夜な夜な遊び歩いていた皇太子とは大違いだ。
けれど。
私は、この方をじっと観察した。
言葉には、嘘はない。けれど何かが足りない。大義名分としては完璧すぎて、かえって不自然だ。人が本当に必死になるとき、そこには必ず、もっと個人的で、もっと生々しい理由がある。
私は常に一歩先を考える。
それが私の性分だ。
「殿下」
「なんだ」
「本当の理由は、別にあるのではありませんか」
風が塔の上を吹き抜けた。
水明様は、しばらく答えなかった。
長い沈黙の中、彼はただ、五つの木箱を見下ろしていた。
知りたい。
彼が心の内側に隠している、本当の理由を。
「……母の骨を、探している」
ポツリ。
その声は、これまでと同じように低く静かで――けれど、決定的に何かが違っていた。
「皇后陛下……ですか」
「ああ」
私も話は知っている。
数年前、先の皇后が事件に巻き込まれて崩御された。国を挙げての喪に服し、盛大な葬儀が執り行われた。
――そう、葬儀は、確かに執り行われた。
「まさか」
「察しがいいな」
水明様は自嘲するように笑った。
「棺は空だった。遺体は、ついに見つからなかった」
私は、言葉を失った。
「表向きには『御遺体は丁重に葬られた』とされている。国を安んずるための嘘だ……俺は、あの空の棺を見送った」
月光の下、皇太子の横顔があった。
冷酷無比と噂される男。悪霊を容赦なく斬り伏せる、氷の刃のような人。近寄りがたく、用がなければ誰も話しかけることのない、孤高の御人。
その人が今、母の骨の在り処を知らぬまま、何年も探し続けている。
大切な肉親を想い、偲び、月を見つめている。
「故に、其方が欲しかった」
水明様は、静かにそう言った。
「骨の声を聞ける者。骨の記憶を読める者……もし母の骨が見つかったとき、俺はあの人が最期に何を思ったのかを知りたい」
――ああ、と私は思った。
この人は、冷酷なんかじゃない。
むしろ逆だ。誰よりも他者を思い、誰よりも死者に心を寄せている。
だからこそ、その心を凍らせておかなければ、立っていられないのだ。
あの夜、白骨を布で包んだ手つきの丁寧さが、今になって腑に落ちた。
「……分かりました」
気が付いた時には、私はそう答えていた。
「条件を満たされたからには、仕方ありませんね。約束は約束です」
水明様が、驚いたようにこちらを見た。
「いいのか」
「私、自分で出した条件を反故にするような女ではありませんので」
――それに。
母の骨を探すというなら、放ってはおけない。困っている者を見過ごすなど、私の性に合わない。相手が皇太子だろうと、それは変わらない。
私は右手を差し出した。
「よろしくお願いいたします、殿下」
水明様は、しばし私の手を見つめていた。それから、ゆっくりと自らの手を重ねる。
剣を握り続けてきた、硬い手だった。けれど、優しさが伝わる手だ。
「――ああ。頼む」
握手を交わす。契約が結ばれた瞬間だった。
が、一つだけ、どうしても腑に落ちないことがある。
「あの、殿下」
「なんだ」
「協力者が欲しいだけなら、婚約という形をとる必要はなかったのでは? 単に、私を貴方の直属の部下や秘書にしてしまえば良かったのでは?」
水明様の動きが、ぴたりと止まった。
それから彼は、月を見上げ――深く、深く、溜息を吐いた。
「……最近は、縁談の話が多すぎる」
「は?」
「あちらの家、こちらの家、上官どもが日毎に釣書を持ってくる。断っても断っても増える。先週は一日に六件だ」
「……六件」
「婚約者がいれば、断る口実になる」
その顔には、これまでの冷厳さは微塵もなかった。
ただ純粋に、心底疲れ果てた男の表情がそこにあった。
嗚呼、なるほど。そういうことか。
私は、思わず同情してしまった。
百人の求婚を断り続けた私と、六件の釣書に押し潰されかけている皇太子。境遇は違えど、悩みの根は同じらしい。
「……皇太子殿下も、大変なのですね」
「その言葉、生涯忘れぬ」
疲労に項垂れるその姿は年齢相応に見えた。
こうして――私、雪解キカリは、この国の皇太子の契約婚約者となったのである。
そしてこの日を境に私は──様々な霊事件に関わり、巻き込まれていくことになる。




