第3話 難題全部クリアしてきやがった……
あの衝撃的な夜から、数日が経った。
陰陽殿の執務室で、私は書類の山を前に何度目とも知れない溜息を吐いていた。
窓から差し込む午後の光が、埃を浮かび上がらせている。
予算削減の煽りで職員も減り、この広い執務室にいるのは私とヤスメの二人きり。
だからこそ、私の溜息はやけに響いた。
「……はぁ」
「キカリ、それ今日で十七回目」
「数えないでよ」
「数えたくなくても数えちゃうんだよ、こんな静かな部屋で。何、どうしたの。誰かに骨壊された?」
「そんなことされたら私、その人の骨を標本にするわ」
「やりそ~」
ヤスメは笑いながらも、その目には確かな心配の色があった。
相変わらず隈は分厚いが、彼女は誰よりも人の機微に聡い。
けれど、事情は話せない。
皇太子殿下から求婚されました、などと口にした瞬間、この宮廷は蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
私の日々の目標は平穏に。これを乱すわけにはいかない。
「なんでもない。ちょっと寝不足なだけ」
「ふーん」
ヤスメは筆を置き、頬杖をついてこちらを見た。
それから、実にあっさりと言い放った。
「気になる人でもできた?」
筆を取り落とした。
墨が書類の端に飛び、黒い染みを作る。
やってしまった。私は慌ててそれを拭いながら、努めて平静を装った。
「……どうしてそうなるの」
「あ、当たりだ」
「当たってない!」
「その反応、絶対当たってる。的中しているほど人は慌てて否定するものなんだよ」
ヤスメの直感は、時に陰陽殿の呪符よりよほど当たる。私は諦めて小さく肩を落とした。
「……当たらずと雖も遠からず、といったところ」
「おっ」
「でも、恋じゃない。断じて違う。あれは、そう――厄介事」
「厄介事に胸を痛める女がいるかね」
「胸じゃない。頭を痛めてるの」
実際、そうだった。
私が思い悩んでいるのは恋煩いなどではなく、もっと現実的で、もっと切実な問題だ。
私の平穏が乱される厄介ごとに他ならない。
全く……ここまで心が乱されるなんて、私らしくもない。
自認とは異なる自身の状態にもどかしさを覚えつつ――あの夜のことを、私は思い出す。
■
「俺の婚約者にならないか」
河原で告げられたその言葉に、私は当然、首を横に振った。
驚きに声が出ず、数拍の間を空けて。
「お断りいたします」
皇太子相手に、下官の身で即答した女は、この国の歴史上私くらいのものかもしれない。そもそも求婚された経験がある下官ですら、私以外にいないだろう。無論、愛人などは除いて。
受ければ恩恵を受けられることはわかっている。彼は皇太子だ。この国でも頂点に位置するほどの力を持つ御方。生活には困らず、それどころか、平民が夢見る華やかな生活を送ることができるだろう。
だが、こればかりは譲れなかった。
「理由は」
「私は下官であり、平民の身分。皇太子殿下ともあろう御方の寵愛を受ける資格はございません」
「些末なものだ。身分など、時代と共に変わる」
「……私は結婚の条件を掲げております。五つの骨をお持ちくださった方に嫁ぐと」
「骨だと?」
私は、あの五つの名を挙げた。
大氷輪竜骨、火柱王號骨、大地森禅骨、水月絶海骨、闇帝光雷骨。
どれも、御伽噺の中にしか存在しない伝説の骨。皇太子だろうと帝だろうと、集められるはずがない。
さぁ、諦めてください。助けてくれたことは感謝しますが、それとこれとは話が別です。
条件を聞いた水明様は、しばらく無言だった。
それから、ひどく静かに言った。
「なるほど。承知した」
■
最後の一言が、今も私の胸に引っかかっている。
承知した、って何。無理だと言わなかった。馬鹿にするなとも言わなかった。
ただ、承知した、と。怖い。
――嫌な予感がする。
相手は皇太子だ。
この国で最も高い権力を持つ者の一人。
その気になれば、私の意思など踏み潰して、無理やり婚姻を結ばせることだってできる。
でも……きっとあの方は、そんなことはしない。
骨を丁寧に布に包んだあの手つきを見れば、それくらいは分かる。
――けれど、権力者を信用してはいけない。
それは、革命の混乱期を生きてきた者なら誰もが骨身に沁みて知っていることだ。
「キカリ、鳩」
「え?」
ヤスメの声に顔を上げると、開け放った窓から、一羽の白い鳩がぱたぱたと舞い込んできた。
それは真っ直ぐに私の机へ降り立ち、脚に括りつけた小さな筒を差し出すように、こちらへ首を傾げる。
嫌な予感が、確信に変わった。
震える指で筒を外し、中の紙片を広げる。そこには、流麗な墨字でこう記されていた。
『満月が昇る頃、宮廷西側の塔に』
差出人の名はない。
だが、この筆跡の持ち主が誰かなど、考えるまでもなかった。
……あの人しかいない。
「何それ、恋文?」
「……果たし状。人生のね」
「え?」
私は紙片を握りしめ、立ち上がった。
行きたくない。心底、行きたくない。けれど、行かないという選択肢は最初から存在しない。相手は皇太子なのだ。無視すれば……どうなることやら。
「腹を括るしかない、か」
◇
その夜の満月は不気味なほど明るかった。
宮廷西側の塔は、使われなくなって久しい古い建物だ。かつては物見の役目を担っていたというが、今は蔦が絡み、石段には苔が生している。
霊が出る。怨念が宿っている。そんな噂が漂う建造物を清掃するものなどない。
だが、一部の者は『月が綺麗に見える』という理由で、時折立ち入ることがあるらしい。
螺旋階段を登り切り、扉を押し開けると――彼はそこにいた。
月光を背にして立つ、黒い軍服の皇太子。宵闇帝水明。
そして、その足元には──。
「……これは」
五つの木箱が、整然と並べられていた。
まさか……。
私が絶句する中、水明様は無言で、一つずつ、その蓋を開けていく。
一つ目。半透明の氷のような光沢を放つ、巨大な竜の顎骨。
二つ目。触れずとも熱が伝わってくるような、赤く燃えるような椎骨。
三つ目。木の根と骨の境目が曖昧な、樹木そのもののような肋骨。
四つ目。深海の底のような蒼を湛え、水面のように揺らめく指骨。
五つ目。表面に雷光が走り続けている、黒曜石のごとき頭蓋。
大氷輪竜骨。火柱王號骨。大地森禅骨。水月絶海骨。闇帝光雷骨。
私は、言葉を失った。
――偽物だ。そう思った。そう思いたかった。
精巧な模造品を作らせて、私を欺こうとしているのだ。かぐや姫の物語にも、そんなことをする愚か者がいた。時代は変わっても人は変わらない。権力者ならそれくらいのことはする。
そう、考えたかったのだけど──。
私は震える足で一歩前へ出て、それらの骨に耳を澄ませた。
――寒イ。寒イ。千年、氷ノ底デ。
――熱イ。焼ケル。山ガ、山ガ吼エル。
――静カニ。静カニ。根ハ深ク、深ク。
――遠イ。海ハ遠イ。月ヲ、月ヲ見タイ。
――堕チル。雷ハ堕チル。天カラ、地ヘ。
五つの声が、私の中でうねりを上げた。
どれも古く、どれも重く、どれも――偽りようのない、本物の霊骨の声だった。
「……信じ、られない」
膝から力が抜けそうになるのを、必死で堪えた。
実在しないはずの骨が、五つ。
それが今、目の前に並んでいる。
驚かないわけがない。だってこの方はたった数日で、御伽噺を現実に引きずり出してきたのだ。
「五つの難題を全て揃えた」
水明様が静かに言った。
「これで、其方は俺のものだな」
その声には、隠しきれない満足の色があった。
獲物を仕留めた獣のような、あるいは難問を解き明かした学者のような。
私は、必死で虚勢を張った。
せめてもの仕返しに、精一杯の皮肉を込めて。
「……そんなに、私のことがお好きなのですか」
この方が顔を赤らめでもすれば、少しは溜飲が下がる。そう思った。
だが、水明様の返答は、想像のどれとも違っていた。
「いや」
彼は、月を見上げたまま言った。
「其方に恋心は抱いていない」
――は。
私は、二度目の絶句を味わうことになった。




