第2話 橋の下の霊骨と悪霊
息が上がる。喉の奥が焼けるように痛い。
呼吸をする度に胸の奥に痛みが走り、走行距離が増すほどに両足の動きが鈍くなる。
重い。まるで自分の足ではないかのような感覚だった。
それでも私は、夜の街を駆ける。
革命から数年、皇京の街並みは目まぐるしく姿を変えている。
西洋風の煉瓦造りの建物が並ぶかと思えば、その裏には昔ながらの木造家屋が肩を寄せ合うように残っている。夜が九割を覆い尽くしたこの時間、ガス灯の届かぬ路地には、まだ古い時代の闇がわだかまっていた。
――みつけて。
声は、遠くから、けれど確かに私を呼んでいた。
骨の声を無視することは、私にはできない。
それが私の性分であり、この能力を授かった者の責務だとすら思っている。
骨詠の巫女――そう呼ばれる私にできることは、彼らの声を聞くことだけなのだから。
声を辿るうち、私は街外れの川縁へと出た。
石造りの橋が、痩せた月明かりに照らされて黒々と横たわっている。
その下、河原の暗がりに、それはあった。
「……ああ」
思わず、声が漏れた。
横たわっていたのは、白骨化した亡骸だった。
ぼろぼろに擦り切れた着物の残骸が、骨に絡みついている。
傍らには、欠けた茶碗と、破れた筵が一枚。
浮浪者だ。
橋の下で寝起きし、そのまま誰にも看取られることなく、ここで息絶えたのだろう。
革命は多くのものを変えた。
身分の壁を壊し、新しい制度を作り、国を近代化へと押し進めた。
けれど、その激流に呑まれて零れ落ちた者たちのことを、新しい政府はまだ掬い上げきれていない。福祉という言葉すら、この国では生まれたばかりだ。
この骨は、その歪みが生んだ悲劇そのものだった。
私は膝をつき、その骨に目を凝らす。骨盤から大腿骨にかけての一部が、墨を流し込んだように黒く変色していた。
「霊骨……」
魂が、あるいは怨念が宿った骨。
ただの遺骸ではない。これはもう、陰陽殿の管轄だ。
私は立ち上がった。
まずは憲兵を呼ばなければ。それから陰陽殿に連絡を――
――歩沼へ。
足が、止まった。
掠れた声が、確かにそう告げた。
歩沼。都から北へ少し離れた場所にある、田畑と沼ばかりの寂れた土地。私も名前だけは知っている。
故郷なのだ、と直感した。
この人は、遠い故郷から都へ出てきて、そして帰れなくなったのだ。
革命の熱に浮かされ、あるいは食い詰めて、この街に流れ着いて――そのまま、橋の下で朽ちた。
帰りたかったのだ。せめて最後に眠る場所は、産まれ育った故郷で。
ただ、それだけの儚い願いを、この骨は抱えたまま。
「……そう。教えてくれてありがとう。必ず、あなたを――」
言葉は、最後まで続かなかった。
ズズズ。
黒く変色した骨から、どす黒い霧のようなものが噴き出したのだ。
それは瞬く間に膨れ上がり、人の形とも獣の形ともつかぬ影を成した。異形の怪物。闇夜に巣食う、哀れな魂の成れの果て。
ぎょろりと開いた眼窩が、私を捉える。
悪霊。
霊骨は、怨念や未練が強すぎると悪霊へと変ずる。そうなればもう、生前の人格など残らない。ただ人に仇なすだけの存在に堕ちる。
――知識としては知っていた。
だが、目の前でそれを見るのは初めてだった。
これが、ここまで、こんなにも、恐ろしいものだったなんて……。
「……っ」
逃げなければ。
頭ではそう分かっているのに、足が動かない。
膝が笑い、指先が震える。悪霊が伸ばした腕が、私の眼前に迫る。
私は思わず目を逸らした。
直後に襲い来る苦痛に堪えるように、ギュッと瞼を閉ざす。
胸に手を当て、身体を強張らせた──だが。
――斬。
鋭い、けれど不思議なほど静かな音が、河原に響いた。
風を凪、空気を裂き、悪しき怪物を屠る音。
恐る恐る目を開ける。すると、悪霊の腕が肘のあたりから断ち切られ、霧となって夜気に散っていくところだった。
何が起きた。
困惑し、悪霊を見つめる。
すると、直後。
「驚いた」
背後から、低い声がした。
「会話をしているのか。悪霊と」
振り返る。そこに立っていたのは、長身の男だった。
夜風に黒髪が揺れる。整いすぎた顔立ちは、まるで彫像のように現実味がない。氷のように冷たい双眸が、しかし今は、確かな驚きの色を宿して私を見下ろしていた。
その手には、抜き身の大太刀。
刀身に走る波の紋様が、月明かりを弾いて仄かに輝いている。
私はその顔を知っていた。
知らないはずがない。宮廷に勤める者であれば、いや、この国に生きる者であれば、誰もが彼を知っている。
「宵闇帝……水明、殿下……?」
皇位継承権第一位。この国を統治する帝の実子であり、長男。
皇太子。陰陽殿の総統。冷酷無比の悪霊狩り──宵闇帝水明殿下の姿が、そこにはあった。
「どうして、こんなところに殿下が――」
「下がっていろ」
言葉を遮り、水明様は私の前に立った。
黒い軍服に包まれた広い背が、私と悪霊の間を隔てる。
悪霊が、失われた腕から新たな霧を噴き出しながら咆哮した。
夜の空気がびりびりと震える。だが水明様は、微動だにしない。
そして、次の瞬間。
彼の姿が、掻き消えた。
――否。動いたのだ。私の目が追いつけないほどの速さで。
銀の軌跡が、闇に一筋走った。
悪霊が真っ二つに断たれる。上半身と下半身が、断面から霧となって崩れ、夜の中へ溶けていく。断末魔すらなかった。それはあまりに鮮やかで、あまりに静かな一閃だった。
私は息をするのも忘れて、その光景に見惚れていた。
残心の姿勢のまま立つ水明様の横顔。刀身を伝う霧の残滓。夜風にはためく黒の外套。
――綺麗だ・
悪霊が断たれたというのに、私が抱いた感想はそれだけだった。
安堵は遅れてやってくる。だが、どうでも良かった。今はそれほどまでに、彼の全てに見惚れていた。
水明様は静かに刀を鞘へ納めると、白骨のもとへ歩み寄った。
黒く変色した骨を布に包み、丁寧に――そう、驚くほど丁寧に、まるで壊れ物を扱うように――懐へと収める。
冷酷無比と噂される男の所作とは、およそ思えなかった。
行動は、心は、温かい。
「あの、殿下。その骨は……」
「陰陽殿で預かる。祓ったとはいえ、このまま放置はできん」
「その方は歩沼へ帰りたがっていました」
水明様の手が、止まった。
彼はゆっくりと振り返り、私を見た。冷たい双眸の奥で、何かが小さく揺れる。
「……其方、名は」
「雪解キカリと申します。陰陽殿の、下官です」
「骨詠の巫女か」
「ご存じでしたか」
「噂には聞いていた。骨の声を聞く女官がいると。眉唾だと思っていたが」
水明様は、しばらく無言で私を見つめていた。
値踏みするような、あるいは何かを確かめるような、そんな視線だった。
何を言われるのか。
気味が悪いと言われるだろうか。いや、骨の声が聞こえる自分よりも、悪霊を祓える殿下のほうがよほどバケモノだと思うのだけど……。
身構え、緊張し、待つ。
やがて、彼は口を開いた。
「雪解キカリ」
「は、はい」
「其方──俺の婚約者にならないか」
――時が、止まった。
河原を吹き抜ける夜風の音も、遠くの水音も、何もかもが遠のいていく。
私は、自分の耳がおかしくなったのだと思った。あるいは、悪霊の残滓に当てられて幻聴を聞いているのかと。
だが、目の前の男は、至って真剣な顔でそこに立っている。
何度目を擦っても、耳を触っても、頬を抓っても、現実は一向に変わらない。
「……は?」
絶句の果てに私の口から漏れたのは、およそ淑女らしからぬ、たった一音だった。




