第1話 結婚の条件
朝の陰陽殿は、いつも通り閑散としていた。
かつては陰陽師たちが我が物顔で闊歩し、宮廷の要として重んじられていたというこの部署も、今や見る影もない。近代化の波に押され、予算は年々目減りし、廊下の灯りすら半分は消えたままだ。
それでも、霊にまつわる事件が絶えることはなく、私――雪解キカリは、今日もこの古びた建物の門をくぐる。
「雪解殿!」
声をかけられたのは、門をくぐってすぐのことだった。
振り返れば、見覚えのない――いや、正確には見覚えがあるようなないような。
そのくらいの印象しかない貴族の男が、大輪の花束と、目も眩むような宝石のネックレスを抱えて立っていた。
「私と結婚を前提に、清いお付き合いを願いたい!」
男の声は、朝の澄んだ空気に朗々と響いた。
周囲を歩いていた下官たちが、また始まった、というふうに視線だけをこちらに寄越し、そのまま素通りしていく。
もはや見慣れた光景なのだろう。
私自身、またか、とうんざりしているところだ。
けれど、仮にも相手は貴族。面倒な本音は隠さなくてはならない。相手のメンツを立てて上げなくては。
私は、花束にもネックレスにも目もくれず、にこりと微笑んだ。
「まあ、ありがたいお申し出ですけれど」
「では――」
「私、自由な鳥に憧れておりますので」
男が言い終わる前に、私はやんわりと、しかしきっぱりと言い切った。
籠に入れられた鳥のような結婚生活など、まっぴらごめんだ。ましてや、相手の家名も知らぬまま花束だけで愛を語られても、心の一つも動きはしない。
男は目に見えてしょげ返り、花束を抱えたまま去っていった。
ついでに言えば、これで何人目だったか、私自身ももう数えていない。
「はい、また一人討ち死に、っと」
建物の陰から、けらけらと笑いながら現れたのは、同僚の橘ヤスメだ。
分厚い隈が目立つ顔で、手には書類の束を抱えている。徹夜明けなのだろう、その顔色は死人よりも死人らしい。
「今日もバッサリだったね、キカリ」
「バッサリも何も、名前も知らない殿方に人生預けられるわけないでしょう」
「でもさぁ、相手は一応、貴族なわけだし。受けちゃえばいいのに。この際、誰でもいいじゃん」
ヤスメは欠伸を噛み殺しながら、軽い調子でそう言った。
彼女に他意はないのだろう。ただの世間話のつもりだ。けれど、私はその言葉に、思わず眉を寄せた。
「政権交代。革命が終わってから間もない不安定な情勢なんだし、玉の輿でも狙いなさいな」
「何処の馬の骨とも分からない男なんて、絶対にいや」
「あー、キカリってそういうとこあるよね。骨馬鹿だから」
「骨馬鹿で結構。少なくとも骨は嘘をつかないもの」
骨は、人と違って裏切らない。
触れれば、その骨が生きた記憶の欠片を、私だけに囁いてくれる。
人の言葉より、よほど誠実だ。彼らの中には元・人間もいるけれど。
――そこまで考えて、ふと、私は名案を思いついた。
「そうだ」
「なに、急に」
ヤスメが怪訝な顔をする中、私は宣言した。
「これからは、五つの骨を集めてくださった方に嫁ごうと思うの」
「五つの骨?」
「大氷輪竜骨、火柱王號骨、大地森禅骨、水月絶海骨、闇帝光雷骨。この五つよ」
いずれも、伝承の中にしか存在しないとされる霊獣の骨だ。
大氷輪竜は北の果ての伝説、火柱王號は南方の火山信仰に語られる幻獣、大地森禅は千年杉の化身、水月絶海は深海の主、闇帝光雷は雷雲の化身――どれも実在すら疑わしい、いわば御伽噺の中の存在。
この条件を満たせる者など、この世に存在するはずがない。
名付けて、かぐや姫作戦。無理難題を突き付ければ、そもそも求婚してくる者などいなくなる。
私って天才。思わず自画自賛した。
「……キカリ、それって」
「ええ。誰にも集められっこないでしょう? これで、しつこい求婚もようやく終わるはずよ」
名案に、私は満足げに頷いた。
ヤスメは何とも言えない顔で私を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
◇
その日のうちに、この条件は宮廷中に知れ渡った。
求婚を断られ続けた男たちは、揃って頭を抱えたという。
存在しない骨を五つ集めろなど、無理難題にもほどがある。私が名付けた通り『まるでかぐや姫の難題だ……』と告げた者もいたらしい。
誰もが、これで雪解キカリの求婚騒動は落着すると胸を撫で下ろしたことだろう。
私自身も、そう思っていた──あの日までは。
「はぁ……今日も疲れましたよっと」
仕事を終え、屋敷に帰り着く頃には、すっかり日も暮れていた。
私の部屋は、俗に言う「普通」からはほど遠い。壁一面には骨格標本が並び、棚には様々な動物の頭骨が丁寧に飾られている。
給金の大半をここに注ぎ込んでいることは、誰にも言えない秘密だ。
骨たちに囲まれたこの部屋こそ、私にとって何よりも安らげる場所だった。
革命の際に家を焼かれて家族を失い、天涯孤独。この悪趣味と言われても仕方のない部屋を咎める者は誰もいない。
ビバ、独身。
独り身最高。私はこの部屋に足を踏み入れる度に、パートナーのいない自由を謳歌するのだった。
「まずはソファでゆっくり、と」
私はソファに身を投げ出すようにして転がった。
柔らかな布地が背中を受け止める。天井を見上げれば、吊るされた小さな鳥の骨格標本が、灯りに照らされてゆらゆらと揺れていた。
これでようやく、平穏な日々が戻ってくる。
そう思うと、自然と口元が緩んだ。あの鬱陶しいことこの上ない求婚が消えると思うと、心が軽い。
――誰も、あんな骨を集められるはずがないのだから。
存在すら疑わしい伝説の珍品の数々。一つでも苦しいのに、それが五つ。無理だ。我ながら、酷い条件を出したものだと思う。ついでに、自分の性格の悪さも自覚した。
嗚呼……このまま眠ってしまいそう。
瞼が重くなり、うとうとと微睡みかけた、その時だった。
――みつけて。
どこからともなく、掠れた声が聞こえた。
途端に私は目を見開き、勢いよく身を起こした。
この声には覚えがある。生者ではなく、亡者の声──骨の声だ。しかし部屋中を見回しても、いつもの標本たちからは何の反応もない。
「……いや違う。今の声は、空から──」
声はもっと遠くから――いや、もっと近く、けれど届かない場所から聞こえたような気がした。
まるで、何かに閉じ込められているかのように。
行かないと。救えるのは──私だけなのだから。
着替えもせず、宮廷下官の制服のまま、私は屋敷を飛び出して声の主のもとへと駆けた。




