プロローグ 塔の上の偽物夫婦
塔の上は、思いのほか静かだった。
夜風が首筋を撫でていく。
眼下に広がるのは、都である皇京の灯りだ。
上官たちの屋敷から漏れる明かり、下官たちの詰所に灯る蝋燭、それらが夜の帳の中でひとつひとつ小さく瞬いている。まるで地上は星々が散りばめられた夜空のよう。対して、頭上に広がる本物の空には、痩せた三日月が心もとなく浮かんでいた。
ただ、今の私にそれらを眺め楽しむ心の余裕はない。
何故なら──背中に感じる感触と体温が、私の冷静をゴリゴリと削っていくから。
「……あの、水明様」
「なんだ。我が伴侶よ」
「伴侶って……いやその、こんなことをする必要が本当にあるのですか」
私は振り返らずに問うた。
振り返れば、きっと私は今よりもっと動揺した顔をしてしまう。それだけは避けたかった。この御方に対して、これ以上の弱みを見せることは。
彼──宵闇帝彗明様の腕は、私の肩の少し下、腰のあたりに緩く回されている。
抱きしめているというより、そっと寄り添っているといったほうが正しいのかもしれない。圧迫感はない。それでも背中越しに伝わる彼の鼓動は、思いのほか速かった。彼の緊張が直に伝わってくる。
「当然だろう。俺の行動に意味のないものはない」
水明様の声は、いつものように低く落ち着いていた。
けれど、どこか言い聞かせるような響きがあった。
「地道な努力を怠れば、周囲にすぐ勘づかれる。俺と其方が、偽りの婚約者同士だと」
「それは、そうですが」
「宮廷というは恐ろしいところだ。剣より刃物より、噂話のほうがよほど人を斬る。加減も容赦もなく、残酷に。それが原因で自ら死を選んだものは数知れない」
その言い方は、いかにも水明様らしかった。
陰陽殿の総統として、幾多の悪霊を斬り伏せてきた男の口から出るにはいささか皮肉めいている。
「其方が求婚者に対して突きつけた五つの条件。存在すら怪しい骨を五つ揃えろと……俺はそれを、全て揃えた」
水明様の腕に、わずかに力がこもる。
「ならば黙って、俺に協力しろ。それが其方の俺に対する義務だ」
その声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。
まるで、長年欲しかった玩具をようやく手に入れた子どものような――そんな声音。
私は、思わず唇を尖らせた。
全く、とんでもない人が条件をクリアしてしまった……と。
全くの想定外だ。そもそもあれらの条件は、絶対に満たすことができないことを前提に設けた条件。日に日に人数を増していく求婚者を撲滅するための手段。クリアしてくる者がいるなんて、思いもよらなかったのだ。
悔しさに歯噛みする。
だけど、やられっぱなしは性に合わない。些細で小さな反撃かもしれないが、仕返しをさせてもらおう。
「楽しそうな割には、体に力が入っていますよ? 水明様」
「……何を言う。鍛え上げられた男の身体には常に力が入っているものだ」
「心なしか鼓動も速いような?」
「今日は悪霊を二体も屠ったからな。身体が戦いの状態から抜け出せていないだけだ」
「ふぅん?」
振り返って見上げれば、涼やかなはずの美貌が心なしか強張っている。
眉間に力が入り、口元は微笑んでいるようで、どこかぎこちない。氷の皇太子と恐れられる彼が、こんな顔をするなんて。
「ふふ」
水明様は喉の奥で小さく笑った。
「其方こそ、ぎこちないぞ」
「なっ……」
「其方の背は、先ほどからずっと石のように強張っている。俺が触れるたびに、びくりと肩が跳ねる」
「そ、それは……水明様が急に触れるからでしょう。乙女の扱い方がまるでなっていません」
「そうだな。それはすまない。何せ……俺が自ら触れようと思える乙女は、其方が初めてだから」
「……」
勿論、動揺は自覚している。自分に嘘はつけない。確かに私は平静を装いながら動揺している。
仕方ない。何せ私だって、こうして殿方と触れ合う経験は皆無なのだから。
五つの難題を課したのは、私自身だ。
何度でも言う。まさかこの冷酀非情、悪霊すら容赦なく斬り捨てる皇太子が、本当に全て揃えてくるとは思わなかった。
思えば、あれは無謀な賭けだったのかもしれない。
断るための難題のはずが、いつの間にか私自身が、その結末に振り回されている。
「……はぁ。まさか水明様がクリアしてくるとは思いませんでしたよ」
小さく零した独り言に、水明様は答えなかった。
ただ、三日月を見上げる横顔だけが、月明かりに照らされて妙に静かだった──と。
――たすけて。
耳の奥、いや、心の奥深くに直接響くような、掠れた声。
救いを求める──骨の声だ。現世を彷徨う魂の絶叫。
私にしか聞こえない──霊骨の悲鳴。
私は思わず息を呑んだ。
「……聞こえたのか」
水明様が、すぐに異変を察した。
伊達に長年、悪霊狩りをしてきたわけではない。互いを認知して僅か数日。付き合いの浅い私の些細な表情の変化にすら、彼は敏感だった。
「骨の声が……『助けて』と。近い、それも――ひどく苦しそうな」
「場所は」
「北の……いいえ、待ってください、東の方角。塔の下、渡り廊下のあたりかと」
水明様は、それ以上何も聞かなかった。
ただ代わりに──。
「すぐに向かうぞ」
短くそう言うと、彼は身を翻し、塔の螺旋階段を駆け下りていく。
夜風になびく黒髪と、腰に佩いた妖刀・霊月天領の鞘が、月明かりを弾いて鈍く光った。
「ま、待ってください、水明様!」
私も慌てて後を追う。
石段は急で、裾を乱しながら駆け下りる私の息は、あっという間に上がった。
それでも足を止めるわけにはいかない。骨の悲鳴は、待ってはくれないのだから。
水明様の背中を追いかけながら、ふと、場違いな思考が頭をよぎった。
――本当にどうして、こんなことになってしまったんだっけ。
偽装の婚約者。塔の上での抱擁。そして今、共に悪霊の気配を追う夜。
思えば、全ての始まりは、数日前のあの日だった。




