第47話 新緑の薄暑と、凛とした生徒会長 2
柚木が持ち込んだ「作法室没収」という不穏な噂が旧校舎を駆け抜けてから、数日が経過した放課後。
旧校舎の最も奥まった場所にある作法室は、今日も空調によって完璧な温度と湿度が保たれていた。部屋の中央で、雅先輩が背筋を真っ直ぐに伸ばして優雅な微笑みを向けている。今日焚かれているのは、すっきりとした清涼感のある沈香だ。俺の向かい側には、柚木と星野が大人しく正座している。彼女たちが持ち込むわずかな外の匂いも、澄の徹底した換気と清掃によって俺のパーソナルスペースには一切届かない。
過酷な外界から逃れ、俺にとっての究極の避難所は変わらず平穏な時間を刻んでいるように見えた。
だが、その静寂は、整然と響いた三回のノック音によって破られることになる。
「――失礼いたします。生徒会ですが、よろしいでしょうか」
凛とした、よく通る女子生徒の声。古い引き戸が静かに、だが迷いのない動作で開け放たれた。
「あら。いらっしゃい、一条さん」
雅先輩が、一切の動揺を見せずに優雅な微笑みを向けた。
入り口に立っていたのは、一糸乱れぬ着こなしで制服を纏った女子生徒だった。艶やかな黒髪を綺麗に切り揃え、背筋をピンと伸ばした彼女は、この高校の生徒会長、一条凛だ。その後ろには、冷徹な目つきで分厚いバインダーを抱えた男子生徒――副会長の高科蓮が影のように控えている。
一条会長が一歩、作法室の畳へと足を踏み入れた瞬間。俺の過敏な嗅覚は、彼女が纏っている匂いの情報を正確に捉えていた。
(……隙のない匂いだ)
彼女から放たれるのは、冷たくて凛としたシトラス系と、わずかなミントが混ざった香水だった。柚木がかつて自分を守るために被っていたような、過剰で不器用な分厚い香料の鎧ではない。一条会長の匂いは、まるで研ぎ澄まされた刃のように鋭く、彼女の『完璧主義』と『規律』をそのまま液体にして纏ったかのような、一切の揺らぎがない香りだ。
その後ろに立つ高科副会長からは、アイロンが効いたシャツの糊の匂いと、新しい紙の無機質な匂いが漂っている。男子特有の汗や下心といった生々しい成分は、一滴も含まれていない。徹底して感情を排除した、実務家の匂いだった。
「突然の訪問、お許しください、桜小路さん。本日は、生徒会として正式な通達に参りました」
一条会長は、雅先輩を真っ直ぐに見据えて、張り詰めた固い敬語で告げた。同じ丁寧な言葉遣いでも、雅先輩の柔らかく余裕のある口調とは対極にある。
「会長、副会長、お疲れ様です。どうぞ、お掛けになってください。今、冷たいおしぼりとお茶をご用意しますね」
俺の隣に座っていた澄が、ふんわりとした淀みのない笑顔で立ち上がった。彼女にとって、相手が生徒会であろうと、もてなすべき『お客さん』であることに変わりはない。
「お気遣い痛み入ります。ですが、長居はいたしませんので、お茶は結構です」
一条会長は澄の申し出を冷たく、しかし礼儀正しく固辞した。澄は「そうですか」と小首を傾げたが、それでも無香料の除菌シートを取り出し、一条会長と高科副会長が立つ周辺の畳をサッと拭き清めることは忘れなかった。
「それで、通達とは何かしら」
雅先輩が手元の香炉の灰を優雅に整えながら促すと、一条会長の横で、高科副会長がバインダーを開いた。
「旧校舎における、文化部部室の利用状況に関する監査です」
高科が、感情の起伏を一切感じさせない冷徹な声で読み上げる。
「現在、本校では部室の数が不足しており、一部の文化部から『不公平である』との声が寄せられています。そのため、生徒会主導で各部活動の活動実績、部員数、そして予算の透明性を精査することになりました」
「監査、ですか。香道部は学校から正式に認可を受けている部活動ですけれど」
「ええ、承知しております。ですが、問題はその『実態』です」
一条会長が、高科の言葉を引き継ぐように一歩前に出た。
「桜小路さん。この作法室は、旧校舎の和室の中で最も広く、空調設備も最も整っています。しかし、香道部の部員数は、先日新入部員が加わったとはいえ、数名しかおりません」
一条会長の視線が、部屋の隅に座る柚木と星野、そして俺と澄を順番に射抜いた。柚木と星野は、生徒会長の威圧感に気圧されて肩をビクッと跳ねさせた。
「少数精鋭で活動すること自体は否定しません。しかし、この広い和室を数名で占有し、さらには個人の資金力で高級な茶菓子を持ち込んでお茶会を開いているだけの状態は、他の真面目に活動している文化部から見て、決して『公平』とは言えません」
ぐうの音も出ない正論だった。一条会長の言葉には、感情論ではない、学校の規律を正すという明確な大義名分がある。彼女の冷たいシトラスとミントの香りが、その正論を刃のように鋭く研ぎ澄ませていた。
「……なるほど。わたくしたちが、不当にこの部屋を占拠しているとおっしゃるのね」
雅先輩は袖口で口元を隠しながら、依然として余裕の笑みを崩さない。
「不当とまでは申しません。ですが、部員数と活動実態に見合っていないのは事実です。一週間後、生徒会役員による本監査を実施いたします。その結果次第では、この作法室を、和室を必要としている他の文化部へ明け渡すか、あるいは複数の部活動で共有していただくことになります」
一条会長の宣告が、作法室に重苦しい沈黙を落とした。柚木が青ざめた顔で星野と視線を交わし、短く息を呑む音が聞こえる。
俺は気怠げに頬杖をつきながら、一条会長の放つ匂いへと静かに意識を向けていた。
彼女の主張は完璧だ。言葉にも、態度にも、纏っている香水にも、一切の隙がない。だが、俺の過敏な嗅覚は、その強固な武装の奥底に隠された、ごくわずかな『淀み』を捉え始めていた。
(……この匂いは)
完璧なシトラスとミントの香水の裏側。それは、極度のプレッシャーによる神経質な冷や汗の匂いと、もう一つ――化学的な、苦味のある粉薬のような匂いだった。
一条会長の胃の腑からかすかに立ち上ってくる、微量だが確かな『胃薬』の匂い。
俺はズボンのポケットに手を入れた。ミントタブレットのケースの感触を指先で確かめる。だが、まだケースの蓋を弾き開けることはしなかった。
一条凛という生徒会長が、単なる正義感と公平性のためだけに動いているのなら、なぜそんなに胃を痛めているのか。そして、雅先輩を真っ直ぐに見据える彼女の心拍数が、なぜこれほどまでに不自然に高まっているのか。
生徒会が掲げる大義名分の裏には、確実に何らかの別の感情が隠されている。
俺は澄が俺のために用意してくれた完璧な温度の麦茶を一口含み、この張り詰めた生徒会長が隠し持っている『裏の動機』をどう引きずり出すべきか、静かに思考を巡らせた。




