第46話 新緑の薄暑と、凛とした生徒会長 1
ゴールデンウィークが明け、息の詰まるような日常が再び幕を開けた。
五月中旬。初夏を思わせる強い陽射しがアスファルトを熱し、気温は連休前よりも一段と上がっていた。教室内ではブレザーを脱いで長袖シャツ一枚になる生徒が増えている。体温が上がりやすくなったことで、クラスメイトたちが無意識に放つ「見栄」や「焦り」といった感情のノイズが、より強く揮発して空気に溶け出していた。
唯一の救いは、柚木が俺の前で強烈なシトラスフローラルの香水の鎧を完全に脱ぎ捨ててくれたことだ。彼女の過剰なノイズが消えたおかげで、教室の空気は以前に比べれば幾分マシになっている。それでも、三十人以上がひしめき合う密室の過酷さは変わらない。俺は澄が俺のためだけに調律してくれた、かすかな朝露を思わせる柔軟剤の香りを襟元から深く吸い込み、どうにか放課後までの耐久戦をやり過ごした。
帰りのチャイムが鳴ると同時に鞄を掴み、俺は本棟の喧騒から逃げるように旧校舎へと向かう。
木造校舎のきしむ音を聞きながら、『香道部・作法室』の引き戸を開けた。
「――いらっしゃい、神崎くん。今日もお疲れ様」
部屋の中央で、雅先輩が背筋を真っ直ぐに伸ばして優雅な微笑みを向けてきた。空調によって温度と湿度が完璧に管理された作法室には、外の生ぬるい熱気は一切存在しない。
「失礼します、桜小路先輩。……これ、連休中に頼まれていた秋の文化祭用の香木と、日持ちするお茶菓子です」
俺がトートバッグから桐箱と紙箱を取り出して渡すと、先輩は「ありがとう。無事に手に入って助かったわ」と嬉しそうに目元を和ませた。
「今日は、沈香ですか。奥の方にすっきりとした清涼感がありますね」
「ええ、正解よ。少し汗ばむ陽気になってきたから、初夏に向けて前から仕込んでおいた、沈香ベースの新しい練香を焚いてみたの」
深みのある和の香りに爽やかな香草を合わせたような涼しげな香りが、一日中ノイズに晒されてすり減った神経を優しく撫でていく。定位置の畳に腰を下ろして深く息を吐き出すと、俺の身体を縛り付けていた見えない重圧がふっと解けた。
「慧くん、お疲れ様。今日のお茶は、少しだけぬるめにしておいたよ」
水屋から澄が現れ、完璧な笑顔で俺の前に湯呑みを置く。一口すすると、火照っていた身体に絶妙な温度の液体がじんわりと染み渡る。俺の体調と外の気温を計算し尽くした、究極の調律だ。
少し遅れて、星野も「こんにちはっ!」とやってきた。相変わらずベリー系の甘いボディミストを纏っているが、澄が小窓をわずかに開けて風を通し、サッと周囲を拭き清めることで、その匂いは俺のパーソナルスペースに届く前に綺麗に中和される。星野は澄の圧倒的なおもてなしに畏縮しながらも、雅先輩が用意してくれた色鮮やかな琥珀糖に目を輝かせていた。
俺は澄が淹れてくれたお茶を飲みながら、この嘘のない平穏な空間に深く安堵していた。この完璧に管理された作法室の環境さえ維持されるなら、それでいい。
だが、その平穏は、唐突に破られることになる。
――ガラッ!!
古い引き戸が、乱暴な音を立てて勢いよく開け放たれた。
「やっほー、みんな! ……って、のんびりお茶飲んでる場合じゃないかも!」
少し明るく染めた髪を揺らし、肩で息をしながら飛び込んできたのは、柚木だった。彼女の体温は本棟から走ってきたことで急激に上昇しており、シトラスフローラルの香水こそないものの、焦りと不安が入り混じった生々しい『冷や汗』の匂いが作法室の空気を一瞬にして掻き乱した。
「いらっしゃい、玲奈ちゃん。外、暑かったでしょ。はい、冷たいおしぼり」
澄が流れるような動作で柚木の前に立ち塞がり、冷たいおしぼりを手渡す。同時に、彼女が座ろうとした畳の周辺を無香料の除菌シートで徹底的に拭き清めた。
「あ、ありがと澄ちゃん……! でも、マジでヤバい話聞いちゃって……!」
冷たいおしぼりで首筋の汗を拭った柚木は、体温が少し落ち着いて匂いの揮発が収まったものの、その表情は依然としてこわばっていた。
「……何がヤバいんだ。騒がしいぞ、柚木」
俺が気怠げに声をかけると、柚木は俺の向かい側に座り込み、身を乗り出してきた。
「さっき、クラスの他の部活の女子から聞いたんだけどね。……生徒会が、文化部の部室の割り当てを根本的に見直すための『監査』を始めるらしいの」
「部室の監査?」
「うん。旧校舎の部室って数が限られてるから、一部の文化部で場所の取り合いになってるらしくて。で、一番設備が良くて広いのに、部員が数名しかいない『香道部』が、真っ先に没収のターゲットにされてるって噂になってるの!」
柚木の言葉が落ちた瞬間、作法室に重苦しい沈黙が走った。
「ええっ!?」
星野が琥珀糖を口に含んだまま、素頓狂な声を上げた。
「部室が没収って……じゃあ、お菓子、じゃなくて、雅な作法が学べなくなっちゃうんですか!?」
「そうだよ! あたしたち、入部したばっかりなのに、この作法室がなくなっちゃうかもしれないんだよ!」
柚木は切実な声で訴えかけた。彼女にとって、この作法室はクラスの同調圧力から逃れ、香水の鎧なしで深呼吸できる唯一の場所だ。それが奪われるかもしれないという危機感から、彼女の首筋からは激しい焦りの匂いが再び立ち上り始めていた。
俺はズボンのポケットに手を入れ、冷たいプラスチックケースの感触を指先でなぞった。
(……作法室が、没収のターゲットにされている)
それは柚木や星野以上に、俺にとっての死活問題だった。この温度と湿度が完璧に管理され、澄が徹底的に外の汚れを排除してくれる究極の聖域。ここが失われれば、俺は過酷な外界のノイズから身を守り、平穏に呼吸をする場所を完全に失うことになる。
「あら、ずいぶんと物騒な噂ね」
部屋の中央で、雅先輩が袖口で口元を隠しながら、優雅な微笑みを浮かべて口を開いた。
「でも、心配いらないわ。香道部は学校から正式に認められた部活動ですし、監査が来たとしても、堂々と対応すればいいだけのことよ」
大和撫子という言葉を体現するような、一切の余裕を崩さない凛とした声。その落ち着いた態度に、柚木も星野も少しだけ安堵したように肩の力を抜いた。
だが、俺の過敏な嗅覚は、雅先輩のその完璧な建前の奥にある微細な揺らぎを、無意識のうちに探ろうとしていた。
ゴールデンウィークの買い出しの際、老舗の店主たちが見せた不自然な気まずさと、極端に減った注文。そして、急に持ち上がった生徒会による作法室没収の監査。
俺の脳内で点と点が繋がり、一つの不穏な線を描き出そうとしていた。だが、俺はそこで意図的に思考を遮断した。
他人の家の厄介事に自ら踏み込めば、確実に泥沼の人間関係とドロドロとした感情のノイズに引きずり込まれる。あの帰りの電車の中で、俺はこれ以上の推論はしないと決めていたはずだ。
「慧くん、お茶、少し温かいものに替えるね」
隣に座る澄が、俺の空になった湯呑みをそっとお盆に乗せた。彼女の瞳には、難しい顔をしている俺をただ休ませてあげたいという、純度百パーセントの善意だけが溢れている。
「……ああ。頼む」
俺は深く息を吐き、思考の波を無理やり静めた。
生徒会の監査が本当に来るのかはまだわからない。今はただ、この完璧に調律された空間で、俺自身の平穏な呼吸を維持することだけを考えればいい。俺は澄が新しく淹れてくれるお茶の香りを待ちながら、静かに迫り来る見えないトラブルの足音を、ただ気怠げにやり過ごそうとしていた。




