第45話 GWの喧騒と、不穏な噂 9
地下鉄の駅から自宅マンションへと続く短い道のり。日が傾き始めたとはいえ、ゴールデンウィーク後半の街には、アスファルトが吸い込んだ休日の熱気と浮かれたノイズがまだ色濃く残っていた。
すれ違う家族連れやカップルが放つ過剰な香水、飲食店の排気口から漏れる油の匂い。それらをミントタブレットの残り香と、隣を歩く澄から漂う柔軟剤の匂いだけで防ぎながら、俺は重い足取りでマンションのエントランスを抜けた。
金属製の重いドアを開け、自室の玄関に足を踏み入れた瞬間、俺の身体を縛り付けていた見えない重圧がふっと解けた。
「ふう……」
ドアを閉めると同時に、外界の喧騒と淀んだ空気は分厚い扉の向こう側へと完全に遮断された。徹底的に換気され、俺の過敏な嗅覚を一切刺激しない、清潔なリネンを思わせる無機質で静寂な空間。俺の部屋でありながら、隣室に住む幼馴染の真白澄によって完璧に管理・調律された、俺にとっての究極の避難所だ。
「慧くん、今日はお疲れ様。すごく人が多くて、大変だったよね」
俺の隣で靴を脱いだ澄は、休日の過酷な人混みを歩き回ったはずなのに、少しも疲労の色を見せない。淀みのない完璧な笑顔のまま、俺の鞄と雅先輩から預かった品物が入ったトートバッグを丁寧にリビングのテーブルへと置いた。
「ああ。……お前がサポートしてくれなかったら、駅前で倒れてたかもしれない」
「大袈裟だなあ。ほら、ソファでゆっくり休んでて。今、飲み物用意するから」
俺は言われるがままに、リビングのソファへと深く身を沈めた。クッションに背中を預け、目を閉じて深く息を吸い込む。街で俺の鼻腔を殴りつけ続けていた、他人の見栄や嘘、生々しい高揚感の匂いはここには一滴も存在しない。ただひたすらに穏やかな空気が肺の奥まで満ちていき、擦り切れていた神経が少しずつ修復されていくのを感じた。
「はい、慧くん」
澄がローテーブルに置いたグラスからは、結露した水滴がわずかに光っていた。中に入っているのは、氷でキンキンに冷やしたものではなく、冷蔵庫から出して少しだけ常温に馴染ませた絶妙な温度の麦茶だ。火照った身体を冷やしつつも、胃に負担をかけないその完璧な心遣いに、俺は無防備に甘えてグラスを煽った。
「……生き返る」
「ふふ、よかった。……慧くん、そのお洋服、たくさん外の匂いがついちゃったよね。そのままにしておくと、お部屋の空気が濁っちゃうかもしれないから、お着替えしてくれるかな? すぐに私が洗っておくから」
澄は自分のエプロンを身につけながら、俺の着ているシャツとズボンを見つめた。
確かに、俺の服には今日一日で浴びた強烈なノイズがべったりと染み付いている。すれ違った無数の人々の香水や汗の匂い。駅前で偶然出くわした柚木のシトラスフローラルと、星野のベリー系のボディミスト。そして何より、老舗の香木店と和菓子屋で俺の鼻が捉えた、店主たちの「引け目」と「不自然な焦りの冷や汗」の匂い。
俺の嗅覚は、服の繊維の奥から立ち上るそれらの厄介な痕跡を、未だに受信し続けていた。
「悪いな。結構きつい匂いが混ざってると思うが」
「全然平気だよ。慧くんが明日も心地よく過ごせるように、お洋服を綺麗に洗うの、私好きだから。ちっとも苦じゃないよ」
俺は自室で肌触りの良い無香料のルームウェアに着替え、脱いだ服を澄に手渡した。
「ありがとう。……助かる」
澄は俺の服を受け取ると、嫌な顔一つせず、むしろ俺を不快なノイズから解放できることを心から喜ぶように微笑み、洗面所へと向かっていった。すぐに、洗濯機に水が注がれるかすかな音がリビングに響き始める。
俺は再びソファに身を預け、その静かな環境音に耳を傾けた。
あの洗濯機の中では今、俺の服に染み付いていた外界の過酷なノイズが、文字通り完全に洗い流されようとしている。休日の街の喧騒も、柚木や星野が振りまいていた不器用な強がりの匂いも。そして、老舗の店主たちから嗅ぎ取ってしまった、あの不自然な焦りの匂いすらも。
雅先輩の周囲に落ち始めている不穏な影について、俺の嗅覚は確かに気づいていた。先輩は一人で何か重圧を抱え込んでいるのかもしれない。だが、今日一日、過酷な外界のノイズに晒され続けた今の俺には、他人の家の複雑な事情にまで踏み込んで思考を巡らせる余力は、もう一滴も残されていなかった。今はただ、自分を守ってくれるこの安全な空間で、限界まですり減った神経を休ませることだけを考えたかった。迫り来るトラブルの予感も、澄が選んだ無香料の洗剤と柔らかな水流によって、俺の意識から一時的に切り離され、排水溝へと消え去っていく。
(……これでいい)
俺は心の中で静かに結論づけ、ミントタブレットのケースに触れることもなく、ただ深く息を吐いた。
「洗濯機、回してきたよ。明日の朝には、いつもの慧くんの匂いに戻ってるからね」
洗面所から戻ってきた澄が、俺の隣にちょこんと座った。彼女の体からは、外の過酷な環境を歩き回ったにもかかわらず、不快な汗の匂いや疲労の気配は微塵も感じられない。俺が世界で一番安心できる、かすかな朝露のような柔軟剤の穏やかな香りだけが、俺のパーソナルスペースを優しく包み込んでいた。
「ああ。……本当に、お前がいてくれてよかった」
俺が心からの本音をこぼすと、澄は淀みのない、純度百パーセントの善意だけが溢れる瞳で俺を見つめ返した。
「えへへ。慧くんがそう言ってくれるのが、私にとって一番嬉しいよ」
外の世界は、他人の見栄や嘘、そしてドロドロとした感情のノイズが渦巻く過酷な地獄だ。ゴールデンウィークが明ければ、またあの息の詰まるような教室での耐久戦が始まる。気候が温かくなり布地が減っていくこれからの季節は、他人の感情の淀みがよりダイレクトに俺の嗅覚を殴りつけてくるだろう。
だが、俺には帰る場所がある。極度の綺麗好きであるこの幼馴染が、俺のために徹底して清潔に保ち、完璧に調律してくれる究極のオアシス。そして、学校には雅先輩が提供してくれる「作法室」という絶対的な聖域がある。
この二つの安全地帯と、澄の献身的なサポートさえあれば。俺はどんな過酷な外界のダメージからも回復し、平穏に息をし続けることができるはずだ。
俺は、外界の厄介なトラブルへの思考を放棄したことに対するわずかな罪悪感すらも、この部屋の心地よい空気の中に溶かして消し去った。俺のすべてを理解し、俺が最も安らぐ環境を無償で提供してくれる幼馴染の透明な優しさに無防備なまでに甘えきりながら、俺はソファの背もたれに深く寄りかかり、静かな休日の終わりのまどろみへとただ深く身を委ねていった。




