第1話 山奥の屋敷
蝉の声が、異様なほど遠くに聞こえていた。
とおるは車のハンドルを握りながら、何度目か分からないため息をついた。
仕事を辞めたわけではない。
逃げ出したわけでもない。
ただ、三か月間の休暇を取った。
それだけだった。
それなのに、胸の奥には奇妙な罪悪感があった。
「……三か月も休んで、大丈夫なのかよ」
独り言が車内に響く。
六年間。
まともに休んだ記憶がなかった。
休日でも現場から電話が来れば出た。
夜中にトラブルがあれば現場へ向かった。
工程が遅れれば自分の責任だと思った。
誰かが困っていれば、自分が何とかしなければならないと思った。
そんな生活を続けているうちに、ある朝、ベッドから起き上がれなくなった。
病院では、休養するように言われた。
その少し後に、彼女から別れを告げられた。
理由は簡単だった。
「もう、あなたと一緒にいても楽しくない」
責めることはできなかった。
自分自身でも、最近の自分が嫌いだった。
何をしても疲れている。
何を言われても頭に入らない。
以前なら笑えたことにも、何も感じない。
だから、とおるは山へ行くことにした。
誰もいない場所で、一度、自分を空っぽにしてみたかった。
目的地は決めていない。
適当な山道を走り、適当な場所で車を停めた。
そこからザックを背負い、歩き始めた。
最初は気持ちがよかった。
木々の間から差し込む光。
湿った土の匂い。
遠くから聞こえる鳥の声。
仕事の電話が鳴らない。
工程表もない。
施工写真もない。
誰かに怒鳴られることもない。
「……静かだな」
それだけで、少しだけ胸が軽くなった。
しかし、一時間ほど歩いた頃だった。
道がなくなった。
「……あれ?」
とおるは周囲を見回した。
来た道を振り返る。
似たような木。
似たような岩。
似たような斜面。
方向感覚が分からなくなっていた。
「やばいな……」
スマートフォンを取り出した。
圏外。
地図アプリも役に立たない。
とおるは苦笑した。
「現場監督が山で迷子かよ……」
自分で言って、少しだけ笑った。
久しぶりだった。
自分のことで笑ったのは。
そのまま歩き続けた。
戻ろうと思った。
だが、霧が出てきた。
最初は薄かった。
それが、十数分もしないうちに、木々の向こうが白く霞むほど濃くなっていった。
「……帰れるかな」
不安が膨らみ始めた。
そのときだった。
霧の向こうに、
何かが見えた。
建物だった。
「……家?」
とおるは足を止めた。
近づくにつれ、その大きさが分かってきた。
最初は山小屋だと思った。
しかし違った。
巨大だった。
木々の間から見えているのは建物の一部に過ぎない。
石造りの壁。
古びた窓。
異様に高い塔。
そして、山の斜面に沿って伸びている巨大な建物。
「なんだ……これ」
こんな場所に建物があるなんて聞いたことがない。
とおるは慎重に近づいた。
門があった。
錆びている。
だが、完全には朽ちていない。
門の向こうには、長い石畳が続いていた。
その先に巨大な屋敷がある。
まるで、山そのものに建物を埋め込んだようだった。
「誰か住んでるのか?」
門を押してみる。
ギィィィ……。
重い音を立てて、門が開いた。
とおるは少し迷った。
しかし、このまま山の中を歩き続けるよりはいい。
そう判断した。
石畳を進む。
近づくほど、屋敷の巨大さが分かった。
正面玄関だけでも、普通の家なら二階建て住宅がすっぽり入りそうなほど大きい。
とおるは玄関の前に立った。
扉に手をかける。
すると――
内側から、扉が開いた。
「……え?」
とおるは固まった。
「誰かいるんですか?」
返事はない。
薄暗い玄関ホール。
奥には長い廊下が伸びている。
電気がついていた。
「電気……?」
こんな山奥なのに。
とおるが一歩中へ入った、そのとき。
「すみません!」
突然、背後から女性の声がした。
「うわっ!」
振り返る。
そこには、一人の女性が立っていた。
二十代半ばくらい。
リュックを背負い、少し泥のついた服を着ている。
長い髪が乱れていた。
「あ、ごめんなさい!」
女性も驚いて一歩下がった。
「人がいた……」
「あなたも?」
「はい……」
女性は胸に手を当てた。
「私、ゆうこっていいます」
「とおるです」
二人は少し距離を取ったまま、互いを見た。
「ここ……何なんでしょう?」
「分からないです」
とおるは答えた。
「俺も山で迷って、たまたま見つけました」
「私もです」
ゆうこは小さな声で言った。
「帰ろうと思って、さっき外に出たんですけど……」
「外に?」
「はい」
ゆうこの顔から、少しずつ笑顔が消えた。
「戻ってきちゃったんです」
「……戻ってきた?」
「歩いたんです。ずっと」
ゆうこは廊下の奥を見た。
「でも、気がついたら、この玄関にいました」
とおるは黙った。
偶然だと思った。
山で迷えば、同じ場所に戻ってくることくらいある。
そう考えた。
「もう一度、一緒に出てみましょう」
「……はい」
二人は玄関から外へ出た。
石畳を歩く。
門を抜ける。
霧の中へ入る。
とおるは振り返らなかった。
ただ、ひたすら前へ進んだ。
十分。
二十分。
三十分。
山道らしい場所に出た。
「ほら」
とおるは安心した。
「戻れますよ」
ゆうこも頷いた。
しかし、その直後。
二人は同時に立ち止まった。
目の前に、巨大な門があった。
錆びた鉄製の門。
その向こうには――
あの屋敷。
「……嘘」
ゆうこが呟いた。
とおるは言葉を失った。
確かに歩いた。
確かに別の方向へ進んだ。
なのに。
二人はまた、屋敷の前に立っていた。
霧の向こう。
巨大な屋敷の窓がいくつも並んでいる。
その中の一つ。
二階ほどの高さにある窓に、
誰かが立っていた。
「……あれ?」
ゆうこが指差した。
「人……?」
とおるも見た。
確かに、人影だった。
黒い影。
窓の向こうから、
こちらを見ている。
二人が見つめていると、
影がゆっくりと腕を上げた。
そして――
こちらへ向かって、
手を振った。
とおるの背中を、
冷たい汗が流れた。
その瞬間。
屋敷の奥から、
何かが落ちるような大きな音が響いた。
ドン――。
そして、誰も触れていないはずの玄関扉が、
ゆっくりと開いた。
ギィィィ……。
まるで、
二人を待っていたかのように。
とおるは息を呑んだ。
ゆうこが、小さな声で言った。
「……とおるさん」
「……何?」
「あの家……」
ゆうこは震える指で屋敷を指した。
「さっきより……大きくなってませんか?」
とおるは屋敷を見上げた。
そして初めて気づいた。
霧の向こう。
さっきはなかったはずの場所に、
新しい窓が一列、
増えていた。




