8. 名前を呼ぶ前に
夕方の薬屋は、先ほどのことが嘘のように静かだった。
棚に並ぶ薬草から、乾いた葉の優しい香りが漂っている。
リゼットは帳簿を閉じると、ふと窓の外を見た。
「……来た。」
銀髪の青年が店先へ立つ。
右腕の包帯は前回よりも少し厚くなっていた。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
自然に交わした挨拶。
けれど、二人とも少しだけ落ち着かない。
診察台へ腰掛けたアルベルトの包帯をほどきながら、リゼットは口を開いた。
「……あの。」
「どうした。」
「一つ、お詫びしたいことがあります。」
アルベルトが首を傾げる。
「最初にお会いした時……。」
リゼットは少しだけ目を伏せた。
「騎士団長様とは知らず、とても失礼な話し方をしてしまいました。」
思い返すと少し恥ずかしい。
「申し訳ありませんでした。」
アルベルトは一瞬ぽかんとした。
そして、小さく笑う。
「謝るのは俺の方だ。」
「え?」
「あの日の俺は、初対面の相手に
『俺に構うな』としか言わなかった。
名乗りもしなかった。
……あれは大人げなかった。」
今度はリゼットが驚く番だった。
騎士団長が、こんなに素直に頭を下げるなんて思ってもみなかった。
「では。」
アルベルトが少しだけ照れたように言う。
「改めて。」
背筋を伸ばした。
「王都騎士団団長、アルベルト・フォン・ヴァイスだ。
よろしく頼む。」
リゼットも思わず姿勢を正す。
「薬師のリゼットです。
こちらこそ、よろしくお願いします。」
二人は顔を見合わせる。
どちらからともなく、小さく笑った。
ようやく本当の意味での"初対面"を終えた気がした。
少し間が空いてから、アルベルトが言う。
「一つ、いいだろうか。」
「はい。」
「これからは……。」
少しだけ言いづらそうに目を逸らす。
「リゼット、と呼んでも?」
その瞬間だった。
胸へ、ふわりと温かい感情が流れ込んでくる。
(……え。)
優しい。
照れくさい。
嬉しい。
そして。
もっと近付きたい。
思わず手が止まった。
(この気持ち……。)
患者としての感謝だけじゃない。
まだ恋と呼ぶには小さい。
でも確かに、こちらへ向かっている温かな想い。
リゼットは戸惑う。
(困ったな……。)
私は人の気持ちを知ってしまう。
だからこそ、簡単に応えられない。
自分の気持ちが追いついていないのに、相手だけが少し先へ進んでいることも分かってしまうから。
アルベルトはその沈黙を勘違いした。
「嫌なら構わない。」
「いえ……!」
思わず声が出る。
「嫌ではありません。
私も……。」
少しだけ笑う。
「私も、アルベルト様、と呼んでもいいですか?」
今度はアルベルトが照れた。
「ああ。」
その返事だけで、胸の温かさが少し大きくなる。
(……本当に分かりやすい人。)
リゼットは苦笑した。
手当てを続けながら、古傷へそっと触れる。
傷跡は思っていたより深い。
長い年月をかけて固まり、筋肉まで引きつれている。
「……。」
普通なら。
もう治らない、と言われても不思議ではない。
でも。
リゼットには誰にも言えない秘密があった。
薬草の力を、ほんの少しだけ引き出せる。
ほんの少しだけ。
それでも。
(もしかしたら。)
時間は掛かる。
何か月、あるいは一年。
それでも続ければ。
この腕は、
もっと動くようになるかもしれない。
リゼットは心の中で静かに決めた。
(治そう。)
騎士団長だからではない。
特別な人だからでもない。
目の前にいる患者さんに、もう一度思い切り剣を振れるようになってほしい。
ただ、それだけだった。
「アルベルト様、」
「ん?」
「これからもしばらく通っていただけますか?
この傷だけではなく……古傷も診たいんです。」
アルベルトは少し驚いた表情を浮かべる。
「古傷も?」
「はい。」
「時間は掛かります。」
「でも。」
リゼットは穏やかに微笑んだ。
「諦めたくありません。」
その言葉に、アルベルトはしばらく何も言えなかった。
長い間、誰も"治るかもしれない"とは言わなかった。
だから。
その一言が、胸の奥深くまで染み込んでいく。
「……頼む。」
短い返事だった。
けれどその声は、今までで一番柔らかかった。
この日からアルベルトには、薬屋へ通う"理由"ができた。
腕を治すため。
そう自分に言い聞かせながら。
そしてリゼットもまた、薬草を調合するたびに静かに願う。
ーこの人が、もう一度心から剣を振れる日が来ますように。
―――――――
そしてその夜――。
騎士団が捕らえた男は牢の中で、不気味な笑みを浮かべていた。
「もう遅い。
"先生"は、もうあの娘を見つけている。」
その言葉が、やがて二人を王国を揺るがす陰謀へと巻き込んでいくことになる。




