27. 抱えてきたもの
夕暮れの鐘が静かに鳴り響く頃。
薬屋の扉を叩く音がした。
リゼットは小さく息を吸い、扉を開ける。
そこには約束どおり、アルベルトが立っていた。
「待たせた。」
「いいえ。お待ちしていました。」
互いに微笑み合う。
朝に起こった騒ぎが嘘のように、薬屋には静かな空気が流れていた。
リゼットは店先の札を裏返し、扉へ鍵を掛ける。
「どうぞ。」
アルベルトは頷き、店の奥へ入った。
薬草の香りが漂う室内。
二人は昨日と同じ席へ向かい合って腰を下ろした。
けれど今日は、どちらも茶には手を伸ばさなかった。
静かな沈黙のあと、先に口を開いたのはアルベルトだった。
「朝の件だが。」
リゼットの肩が小さく震える。
「聞きたいことはある。」
そう前置きすると、アルベルトは静かに続けた。
「だが、その前に伝えたいことがある。」
「……伝えたいこと?」
「ああ。」
アルベルトはゆっくりと右手を持ち上げた。
その手を何度か握り、開く。
迷いのない動きだった。
「この腕は、もう完全に治っている。」
リゼットはその右腕を見つめた。
最初に出会ったあの日。
血を流し、痛みに耐えながら、それでも気丈に立っていた騎士。
何度薬を作っても、古傷だけは治らなかった。
それどころか、どの医師や薬師に診せても「もう治らない」と言われ続けてきた傷だった。
それが今は、何の痛みもなく動いている。
「昔なら長時間剣を振れば痺れが出ていた。今は一日中訓練をしても何ともない。」
アルベルトは穏やかに笑った。
「本当に……良かったです。」
リゼットの声は自然と震えていた。
「あの日、君が助けてくれなければ、俺は騎士を続けられなかったかもしれない。」
「そんな……。」
「命だけじゃない。」
アルベルトはゆっくり首を振る。
「騎士としての誇りも、未来も。」
「全部、君に救われた。」
薬屋に静寂が落ちる。
「ありがとう。」
その一言は静かだった。
けれど、何より重かった。
リゼットは俯き、小さく首を振る。
「……私は、その『ありがとう』を素直に受け取れません。」
「治ったのは、薬だけの力ではないからです。」
アルベルトは何も言わない。
ただ静かに続きを待っている。
昨日と同じように。
その姿に背中を押されるように、リゼットは息を吸った。
「私には……誰にも言えなかった秘密があります。」
「薬草には、それぞれ本来持っている力があります。」
「私は、その力をほんの少しだけ引き出すことができるのです。」
静かな部屋へ、その言葉だけが落ちた。
「幼い頃に目覚めた力です。」
「では、俺の腕も……。」
「はい。」
リゼットは小さく頷いた。
「普通の薬草だけでは、あれほど早く傷を癒やすことはできませんでした。」
「最初に傷の手当てをした時も、その後に古傷を治した時も……私は薬草の力を引き出しました。」
アルベルトは驚いた様子を見せなかった。
ただ静かに耳を傾けている。
「幼い頃から、この力は誰にも話してはいけないと言われて育ちました。」
「利用されるかもしれない。」
「恐れられるかもしれない。」
「薬師としてではなく、力だけを求められるかもしれない。」
幼い頃、何度も言い聞かされた言葉。
決して人前で使ってはいけない。
誰にも気づかれてはいけない。
その教えは、今も消えない恐怖となって胸の奥へ残っている。
「だから、誰にも言えませんでした。」
リゼットはそこで言葉を切った。
胸が苦しい。
けれど、本当に怖い秘密はまだ残っている。
薬草の力よりも。
ずっと誰にも知られたくなかったこと。
これを話せば、今までと同じように向き合ってもらえなくなるかもしれない。
アルベルトが自分へ向ける眼差しさえ、変わってしまうかもしれない。
唇を固く結び、それでもリゼットは震える声で続けた。
「……でも。」
「もう一つ、あります。」
アルベルトは静かに頷いた。
急かすことも、問い返すこともない。
ただ、まっすぐに続きを待っていた。
その姿が、リゼットへ最後の勇気をくれた。
「私は……向かい合った人の感情が、少しだけ分かるんです。」
薬屋内の空気が止まる。
「心を読めるわけではありません。」
「言葉が聞こえるわけでもありません。」
「ただ、嬉しい、悲しい、怒っている……そんな感情だけが胸へ伝わってくるんです。」
リゼットはゆっくり目を伏せた。
「幼い頃は、それが当たり前だと思っていました。」
「誰もが同じように、相手の気持ちを感じているのだと。」
けれど、違った。
「誰も気付かない怒り。」
「誰にも言えない悲しみ。」
「笑顔の裏に隠した苦しみ。」
「私に向けられた悪意。」
「全部、伝わってきてしまう。」
一つひとつ思い出すように言葉を紡ぐ。
「知らなくても幸せだったはずの気持ちまで、知ってしまうんです。」
「だから、人を信じることが怖くなりました。」
「優しく笑ってくれても、本当は違う気持ちだったらどうしよう。」
「そう思うたび、誰とも深く関われなくなりました。」
声が少し掠れる。
「だから私は、ずっと人との間に線を引いて生きてきました。」
「傷つかないように。」
「相手の知られたくない心に、踏み込まないように。」
静かな涙が頬を伝う。
「人を好きになることは……もっと怖かった。」
アルベルトの瞳が、わずかに揺れた。
「相手が自分の気持ちに気づくよりも先に、私だけが知ってしまう。」
「まだ言葉にもなっていない想いを、勝手に受け取ってしまう。」
「そんなの、ずるいでしょう?」




