25. 次に会えたなら
夕刻。
昼間の熱気を残した風が、市場の通りをゆっくりと吹き抜けていた。
店じまいを始める商人たちの声が響き、軒先に吊るされた布が、風を受けて小さく揺れている。
リゼットは最後の薬草を籠へ収めると、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
今日はいつもより多く仕入れてしまった。
薬草の束だけでなく、乾燥させた木の実や小瓶も入っているため、籠はずしりと重い。
持ち上げようと腰を屈めた、その時だった。
「それは俺が持つ。」
聞き慣れた低い声が、すぐ後ろから落ちてきた。
振り返るより早く、重かった籠がふっと持ち上がる。
「アルベルト様。」
「待たせたか?」
「いいえ。今、ちょうど終わったところです。」
朝に交わした約束どおり、アルベルトは迎えに来てくれた。
一日の任務を終えたばかりなのだろう。
隊服の襟元は少しだけ緩められ、銀色の髪が夕日に照らされている。
さすがに疲れているはずなのに、その手にはリゼットの籠が当然のように収まっていた。
「私が持ちます。」
リゼットが手を伸ばすと、アルベルトは籠を反対側へ移した。
「重いだろう。」
「でも、アルベルト様もお仕事の帰りですよね。」
「それと、君にこれを持たせることは関係ない。」
あまりにも真面目に返されて、リゼットは言葉に詰まる。
「……少しくらいは持てます。」
「知っている。」
「でしたら。」
「だが、俺が持ちたい。」
さらりと落とされた言葉に、リゼットは目を瞬かせた。
アルベルトも、口にしてから気づいたらしい。
わずかに目を逸らし、手にした籠の持ち手を握り直す。
「……行こう。」
「はい。」
リゼットは頬が熱くなるのを感じながら、彼の隣へ並んだ。
◇◇◇
帰り道は、朝よりも人通りが多かった。
仕事を終えた職人たち。
買い物帰りの人々。
夕食の材料を求める母親と、その手を引かれて歩く子ども。
リゼットは何度かアルベルトの横顔を見上げた。
朝、市場へ向かう途中で交わした約束が、胸の中に残っている。
何かあれば話すこと。
一人で思い込まないこと。
逃げないこと。
自分もそうすると答えた。
だから、今日こそ話そうと思っていた。
薬草の力を、ほんの少しだけ引き出せること。
そして、人と向かい合うと、その人の感情が伝わってくること。
ずっと隠してきた、自分の秘密を。
「あの、アルベルト様。」
「何だ?」
すぐに返事が返ってくる。
リゼットは息を吸った。
「私、お話ししたいことが――」
「おや、騎士様!」
横合いから大きな声が飛んできた。
二人が足を止めると、果物屋の主人が店先から笑いかけている。
「今日もお嬢さんのお迎えかい?」
「……ああ。」
「感心だねえ。うちの息子にも見習わせたいくらいだ。」
主人はそう言いながら、籠の中から赤い果実を一つ取り出した。
「ほら。いつも買ってくれるお礼だ。」
「そんな、いただけません。」
「いいから、いいから。二人で仲よく食べな。」
「ふ、二人で……。」
リゼットが固まっている間に、アルベルトは果実を受け取った。
「ありがたくいただく。」
「毎度!」
主人は満足そうに笑って、再び店の中へ戻っていった。
二人の間に沈黙が落ちる。
アルベルトは手の中の果実を見つめたあと、リゼットへ差し出した。
「君が持っていてくれ。」
「はい……。」
受け取った果実は、夕日のように赤かった。
話を切り出す機会を失い、リゼットはそっと息を吐く。
「それで。」
アルベルトが歩き出しながら尋ねた。
「さっき、何か話そうとしていなかったか?」
「えっ。」
覚えていた。
リゼットは果実を握り直す。
「はい。あの……。」
今度こそ言おうとした、その時。
「リゼットお姉ちゃん!」
幼い声とともに、小さな女の子が駆け寄ってきた。
薬屋へ時々母親と訪れる子どもだった。
「この前のお薬、苦くなかったよ!」
「本当ですか? きちんと飲めて偉かったですね。」
リゼットが腰を屈めると、女の子は嬉しそうに笑った。
少し離れた場所から、母親が慌てて頭を下げる。
「すみません、急に。いつもありがとうございます。」
「いいえ。元気になってよかったです。」
女の子はリゼットへ手を振り、母親とともに去っていった。
立ち上がると、アルベルトが静かにこちらを見ていた。
その眼差しは、どこか優しい。
「どうかなさいましたか?」
「いや。」
アルベルトは小さく首を振る。
「君らしいと思っただけだ。」
「私らしい……ですか?」
「ああ。」
それ以上は言わなかった。
けれど、その声に込められた温かなものが、リゼットの胸へ伝わってきた。
大切に思っている。
隠すこともできないほど、真っ直ぐな感情。
愛しい、と。
そう囁かれたような気がした。
受け止めきれないほどの感情に、リゼットは思わず視線を逸らした。
秘密を伝えようとしているのに。
その前に、自分の方が彼の想いに揺らされてしまいそうだった。
◇◇◇
薬屋へ着く頃には、空が淡い紫色に染まっていた。
アルベルトが籠を店の奥まで運び、作業台の横へ置く。
「ありがとうございます。」
「ああ。」
用事は済んだ。
本来なら、ここで別れるはずだった。
けれどリゼットは、扉の前へ向かうアルベルトの背中を見つめたまま、手を握り締めた。
このまま帰してしまえば、また言えなくなる。
「アルベルト様。」
呼び止めると、彼が振り返った。
「少しだけ……お時間はありますか?」
アルベルトの目がわずかに見開かれる。
「ある。」
返事は早かった。
あまりに迷いがなくて、リゼットは少しだけ笑ってしまう。
「では、お茶を淹れますね。」
「ああ。」
店先の札を裏返し、扉を閉める。
外の喧騒が遠ざかり、薬屋の中へ静けさが満ちた。
窓から差し込む夕暮れの光。
棚に並ぶ薬瓶。
乾燥させた薬草の穏やかな香り。
いつも一人で過ごしている場所に、今日はアルベルトがいる。
それだけで、店の空気がいつもとは違って感じられた。
リゼットは湯を沸かし、二人分の茶を用意する。
向かい合って腰掛けると、緊張が一気に押し寄せてきた。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
アルベルトがカップを受け取る。
指先がほんの一瞬触れた。
それだけで、リゼットの胸が跳ねる。
アルベルトの手も、わずかに止まった。
目が合う。
静かな店内で、互いの呼吸だけが近く感じられた。
リゼットは慌てて視線を落とし、自分のカップを両手で包む。
話さなければ。
そのために引き止めたのだから。
「あの……。」
声を出した途端、喉がひどく乾いていることに気づいた。
アルベルトは何も言わず、続きを待っている。
急かす気配はない。
ただ、真っ直ぐに自分を見ていた。
「私には……。」
そこまで口にして、言葉が止まる。
両親の顔が浮かんだ。
幼い頃から何度も言われた言葉。
この力は、人に知られてはいけない。
利用される。
恐れられる。
奪われるかもしれない。
胸の奥から、昔の不安が蘇る。
「……リゼット。」
アルベルトの声は穏やかだった。
顔を上げると、彼は心配そうに眉を寄せている。
「無理に話さなくてもいい。」
「でも……。」
「話したくないという意味ではないのだろう?」
リゼットは小さく頷いた。
「話したいです。」
「なら、話せる時でいい。」
その言葉に安堵する一方で、胸が痛んだ。
また先延ばしにしてしまう。
そう思った時、アルベルトが静かに続ける。
「だが。」
少しだけ厳しい声音だった。
「一人で抱え込むことだけはしないでくれ。」
朝の約束を思い出す。
何かあれば話す。
一人で思い込まない。
アルベルトの眼差しは、責めるものではなかった。
ただ、リゼットが一人で苦しむことを恐れている。
その感情が、向かい合っているだけで、かすかに胸へ伝わってくる。
「……はい。」
リゼットが答えると、アルベルトの表情が少し和らいだ。
「約束だ。」
「はい。約束します。」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
夕暮れの光が少しずつ薄れ、薬屋の中へ淡い影が広がっていく。
やがてリゼットは、緊張を紛らわせるように微笑んだ。
「アルベルト様は、いつも待ってくださいますね。」
「待つことくらいしか、できない時もある。」
「それが、私は何より嬉しいです。」
その一言を聞いた瞬間。
アルベルトの瞳が、わずかに揺れた。
胸の奥に抑えていたものが、一気に溢れ出したようだった。
嬉しい。
愛しい。
触れたいと願うような、抑えきれない熱。
その感情があまりにも強く流れ込んできて、リゼットは息を呑んだ。
アルベルトが、ゆっくりと手を伸ばした。
まるで考えるより先に、身体が動いてしまったかのように。
長い指が、リゼットの頬へ近づいてくる。
けれど、その指先は触れる寸前で止まった。
アルベルト自身も、自分が何をしようとしたのか気づいたらしい。
その瞳に、はっと理性が戻る。
「……すまない。」
低い声が、わずかに掠れた。
すぐに手を引こうとする。
その手が離れていくより先に、リゼットの指が動いた。
怖くはなかった。
むしろ離れていくことの方が、少しだけ寂しく感じられた。
気づけば、リゼットは彼の袖口をそっと摘まんでいた。
アルベルトの動きが止まる。
「リゼット?」
自分が何をしたのか理解し、リゼットの頬が一気に熱くなる。
「その……。」
何と言えばいいのか分からない。
離れてほしくない。
けれど、触れてほしいと口にする勇気もない。
ただ袖を摘まんだまま、俯いてしまう。
アルベルトはしばらく動かなかった。
彼の中にある感情が、激しく揺れている。
抱き寄せたい。
頬に触れたい。
もっと近くで、彼女の表情を見たい。
触れてもいいのだと、都合よく受け取ってしまいたい。
それでも。
アルベルトはゆっくりと息を吐いた。
そして、リゼットの頬ではなく、袖を摘まんでいる彼女の手へ自分の手を重ねた。
包み込むような、優しい触れ方だった。
「……これ以上は、止まれなくなりそうだ。」
その声は、いつもの彼よりもずっと低かった。
リゼットは顔を上げる。
アルベルトの耳が赤い。
けれどその瞳は、苦しいほど真剣だった。
「君を困らせたくない。」
塔で抱き締められた、あの時のことが胸をよぎる。
きっと彼は、今も気にしている。
リゼットは小さく首を横に振った。
「困っては……いません。」
アルベルトの手に、わずかに力が入る。
「……それ以上言われると、本当に耐えられない。」
真剣すぎる言葉に、リゼットは目を瞬かせる。
それから意味を理解し、慌てて口を閉じた。
アルベルトは困ったように目を伏せた。
けれど、重ねた手だけは離さない。
二人の間へ、薬草の香りを含んだ静かな空気が流れる。
リゼットは、彼の手の温かさを感じながら思った。
秘密を話しても。
この温かさは、変わらずにいてくれるだろうか。
アルベルトなら、きっと。
そう信じたい。
けれど、最後の一歩だけが、どうしても踏み出せなかった。
◇◇◇
外が暗くなり始めた頃。
アルベルトは名残惜しそうに椅子から立ち上がった。
「遅くまで邪魔をした。」
「いいえ。私がお引き止めしたんです。」
「……話したかったことは、今日は話さなくていいのか?」
リゼットは一瞬、言葉に詰まった。
それでも、今度は目を逸らさずに答える。
「次に、必ずお話しします。」
アルベルトは静かに見つめていた。
やがて、穏やかに頷く。
「分かった。」
扉の前で、アルベルトが振り返る。
「明日の朝も来る。」
「はい。」
「いつもの時間に。」
「お待ちしています。」
その言葉に、アルベルトは少しだけ笑った。
「おやすみ、リゼット。」
「おやすみなさい、アルベルト様。」
一人になった薬屋の中で、リゼットはしばらくその場に立っていた。
手にはまだ、彼の温かさが残っている。
次に会った時こそ。
きちんと話そう。
自分の力のことを。
ずっと隠してきた秘密を。
リゼットは胸へ手を当て、静かに決意した。
◇◇◇
翌朝。
リゼットはいつもより少し早く目を覚ました。
店先を掃き、薬草の様子を確かめる。
何度も鏡の前に立ち、話す言葉を心の中で繰り返した。
怖くないわけではない。
それでも、もう逃げないと決めた。
やがて、いつもの時刻になる。
リゼットは籠を手に、薬屋の外へ出た。
朝の光が通りを照らしている。
パン屋からは、焼きたての香りが漂っていた。
けれど。
いつも道の向こうに見えるはずの銀色の髪は、
どこにもなかった。
少し待つ。
まだ来ない。
市場へ向かう人々が、何人もリゼットの前を通り過ぎていった。
やがて、朝の時を告げる鐘が鳴る。
それでも、アルベルトは現れなかった。
リゼットの胸に、小さな不安が生まれる。
昨日、確かに言っていた。
明日の朝も来る、と。
約束を破る人ではない。
だからこそ。
嫌な予感が、静かに胸の奥へ広がっていった。




