21. 月夜のワルツ
楽団の奏でる優雅な音色が、大広間へ静かに流れていた。
眩いシャンデリア。
色とりどりのドレス。
笑い声とグラスの触れ合う音。
すべてが、リゼットには別世界のようだった。
(……落ち着かない。)
きょろきょろと辺りを見回してしまう。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。」
そばにいた侍女が優しく微笑む。
「皆様、リゼット様に興味をお持ちなだけです。」
「え……?」
言われて初めて気付く。
何人もの貴族が、こちらを見ていた。
「あの方が例の薬師か。」
「この前の事件でも多くの命を救ったそうだ。」
「噂以上にお美しい……。」
囁き声が耳に届く。
リゼットは居心地悪そうに肩をすくめた。
その時だった。
「失礼します。」
一人の若い貴族が歩み寄る。
金髪に青い瞳。
柔らかな笑みを浮かべ、優雅に一礼した。
「初めまして。私はレクシス・ヴァルモン子爵と申します。」
リゼットも慌てて頭を下げる。
「リゼットと申します。」
「ご活躍のお話は伺っております。ぜひ一曲、ご一緒いただけませんか。」
「え……!」
突然の誘いに固まる。
「わ、私は……。」
「一曲だけでも。」
差し出された手。
「簡単なステップですから。」
リゼットは困ったように視線を泳がせる。
(どうしよう……。)
断るのも失礼。
でも、本当に踊れない。
そんな時だった。
低く落ち着いた声が、二人の間へ割って入る。
「失礼。」
その声を聞いた瞬間。
リゼットの表情がぱっと明るくなる。
「アルベルト様……!」
礼装姿の銀髪の騎士がゆっくりと二人の間へ歩み寄ってきた。
レクシスは優雅に一礼する。
「騎士団長殿。今宵はよい夜をお過ごしでしょうか。」
「ヴァルモン子爵。」
アルベルトは穏やかに頷いた。
レクシスは不思議そうに目を向ける。
アルベルトは穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「彼女は、このような場にはまだ慣れておりません。今宵は少し休ませたいと思います。」
口調は丁寧。
だが、一歩だけリゼットの前へ立つ。
まるで自然に庇うように。
レクシスは一瞬だけ目を細めた。
「……それは失礼しました。レディ、またの機会にお会いできることを。」
先ほどと同じように優雅に一礼すると、その場を去っていく。
姿が見えなくなると、アルベルトは静かに息を吐いた。
「大丈夫か。」
「は、はい。」
リゼットは安心したように少し笑う。
「踊れないので、助かりました。」
その笑顔を見ると、胸の奥の熱が少しだけ和らぐ。
(……危なかった。)
自分でも驚くほど、胸がざわついていた。
彼女が他の男と並ぶ姿など、見たくなかった。
そんな感情が、自分の中にあることを初めて知る。
(俺は……。)
心の中で苦く笑う。
(随分と余裕がないらしい。)
少し離れた柱の陰では。
「見たか?」
エリクがレオンへ耳打ちする。
「見ました!」
「団長、割り込んだな。」
「完全に割り込みました。」
二人は同時に頷く。
「成長したなあ……。」
「親ですか?」
「アルベルト様。」
リゼットがおずおずと口を開く。
「怒って……いましたか?」
「え?」
「さっき。」
「……いや。」
アルベルトは視線を逸らす。
「少し考え事を。」
その横顔を見つめながら、リゼットは胸の奥が少しくすぐったくなる。
(また……。)
温かな感情が流れ込んできた。
安心。
嬉しさ。
そして、少しだけ拗ねたような気持ち。
(もしかして……。)
アルベルトは少し考えてから首を振った。
「怒ってはいない。」
「ただ。」
少しだけ言い淀む。
「……落ち着かなかった。」
「君が、他の男と笑っているのを見たくなかった。」
リゼットの呼吸が止まる。
真っ直ぐすぎる。
飾りがない。
だからこそ胸に響く。
リゼットの頬が、みるみる赤く染まっていく。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ胸の奥が、甘くくすぐったい。
「私も……。」
「?」
リゼットは胸元で指を組み、恥ずかしそうに視線を伏せた。
「アルベルト様を見つけたとき、ずっと目が離せませんでした。」
ちらりと腰元の剣へ目を向ける。
「いつもと違う装いで…、でもこんな華やかな場所でも、
アルベルト様はやっぱり騎士なのだと思ったら……すごく、素敵でした。」
言い終えた途端、恥ずかしさに耐えきれず俯いてしまう。
アルベルトはしばらく何も言わなかった。
「……それは、反則だな。」
「え?」
小さく漏れた言葉に、リゼットが顔を上げる。
アルベルトは耐えるように一度目を伏せた。
やがて覚悟を決めたように、真っ直ぐ彼女を見つめる。
「君も、とても綺麗だ。」
リゼットの瞳が揺れる。
「大広間へ入ってきた君を見た瞬間、息をするのも忘れた。」
その視線が、青いドレスから銀の首飾り、そして胸元のリボンへと静かに移る。
「その青いドレスも、銀の飾りも、よく似合っている。」
一度言葉を切り、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「だが、何を身につけているかなど、もうどうでもいいと思うほど――君が綺麗だった。」
「……っ」
リゼットは耳まで真っ赤になった。
先ほどまで胸にあった戸惑いも、不安も。
その一言ですべて、甘い熱へ変わってしまった。
しばらく、どちらも何も言えなかった。
けれどアルベルトは、ふと我に返ったように表情を引き締める。
「……すまない。」
「え?」
「先ほどの言葉だ。君が他の男と話すことを、俺が咎める権利はなかったな。」
視線を伏せ、低く続ける。
「君を困らせるつもりはない。だから、忘れてくれ。」
そう言って踵を返そうとした、その瞬間。
「待ってください。」
リゼットが初めて、自分から彼の袖を掴んだ。
アルベルトの身体がぴたりと止まる。
細い指先。
そっと掴まれた袖。
リゼット自身も驚いていた。
(私……。)
(掴んじゃった。)
慌てて離そうとする。
「ご、ごめんなさい!」
「……いや。」
アルベルトは袖を見つめ、小さく笑う。
「離さなくてもいい。」
その一言で、今度はリゼットの心臓が大きく跳ねた。
「実は……。」
リゼットは勇気を振り絞る。
「私。踊れない、だけじゃないんです。」
「?」
「踊るなら……。」
頬が真っ赤になる。
「アルベルト様が、いいって……。」
最後はほとんど聞こえない声だった。
アルベルトは固まった。
思考停止。
「団長。」
遠くからエリクが見ている。
「今、息してます?」
レオンが真顔で答える。
「止まってます。」
アルベルトは何度か瞬きを繰り返した。
信じられない、というように。
「……俺で?」
「はい。」
「本当に?」
「はい。」
「踊れないぞ。」
「私もです。」
「……。」
「……。」
二人とも思わず笑ってしまう。
その時。
楽団の音色が変わった。
司会役の声が響く。
「次はワルツでございます。」
大広間の中央へ、多くの男女が歩き出す。
アルベルトは静かにその光景を見つめていた。
やがて、小さく息を吸う。
「では。」
アルベルトが少し照れながら手を差し出す。
「練習、ということで。」
リゼットも微笑み、
そっとその手を重ねた。
「お願いします。」
二人は広間の隅へ移動する。
人目につかない、小さなスペース。
楽団はゆったりとした曲を奏でている。
「右足……だったか?」
「た、多分。」
「多分?」
「本で読んだだけなので……。」
「俺もだ。」
「えっ?」
「剣術書なら何冊も読んだ。
舞踏書は一冊だけ。」
リゼットは思わず吹き出した。
「一冊なんですね。」
「必要ないと思っていた。」
「そうですよね。」
ぎこちない一歩。
リゼットが踏み間違える。
「あっ。」
よろけた身体を、
アルベルトが自然に支えた。
腰へそっと添えられた手。
近い。
近すぎる。
「す、すみません。」
「いや。」
アルベルトも耳まで赤い。
「俺も緊張している。」
「アルベルト様でも?」
「どんな剣を持つより難しい。」
その真剣な顔がおかしくて、
リゼットは笑った。
「ふふっ。」
その笑顔を見たアルベルトも笑う。
一歩。
また一歩。
最初はぎこちなかった二人の足並みは、
少しずつ音楽に重なっていった。
ゆっくりと二人は踊り始める。
月明かりが差し込む窓辺で。
青いドレスがふわりと揺れた。
銀色の髪が光を受けて輝く。
二人を見つめる誰もが、思わず息を呑む。
「……運命のようだ。」
その姿を見た誰かが、小さくそう呟いた。
リゼットは恥ずかしそうに俯く。
アルベルトは何も言わない。
ただ、その手だけは、最後まで離したくなかった。




