2. 帰れない人
夕暮れの風は、薬草の香りを遠くまで運んでくれる。
私はその時間が好きだった。
市場での仕事を終え、薬屋でもある自宅へ帰る道。
薬草の入った籠を抱えながら歩いていると、ふと視界の端に黒い影が映る。
騎士様だ。
……でも、どこか様子がおかしい。
足取りはまっすぐなのに、少しだけ重い。
右腕からは赤い血が石畳へ落ちている。
私は思わず声を掛けた。
「……あの。」
騎士様はゆっくり振り返る。
銀色の髪。
整った顔立ち。
真っ直ぐな青い瞳。
けれど、その瞳の奥には――。
(痛い。)
胸の奥へ、小さな波が伝わってくる。
私には昔から、不思議な力があった。
向かい合った相手の感情が、少しだけ伝わってくる。
言葉ではなく、温度のようなもの。
悲しい人は胸が冷たくなって。
嬉しい人は、春の日差しみたいに温かい。
そして今、この人から伝わってくるのは。
鋭く刺さるような痛みだった。
(……無理をしてる。)
それでも私は、いつものように尋ねる。
「腕から血が出ています。」
騎士様は表情一つ変えずに答えた。
「必要ない。」
短い声。
続けて、はっきりと言う。
「俺に構うな。」
その言葉と一緒に伝わってきた感情は、不思議だった。
拒絶。
警戒。
そして、その奥にある――諦め。
(この人……。)
助けてもらうことを、最初から諦めてる。
そう思った。
だから私は、それ以上踏み込まなかった。
「そうですか。」
小さく頷く。
「でしたら、出過ぎた事を言いました。」
私はそのまま歩き出した。
無理に助けることはできない。
助けを望まない人に手を伸ばしても、届かないことを知っているから。
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数歩歩いて、足を止めた。
……でも。
胸が少しだけ苦しい。
あの人の痛みが、まだ残っている。
(このまま帰ったら。)
きっと後悔する。
私は振り返らないまま、静かに話しかけた。
「でも。
本当は、とても苦しいですよね。」
後ろから返事はない。
けれど、空気が少しだけ揺れた気がした。
「痛くても。
苦しくても。
平気なふりをしている人の顔です。」
私は路地の先を指差す。
「もし、本当に一人で大丈夫なら、そのままお帰りください。」
少しだけ息を吸う。
「でも、少しでも手当てを受けてもいいと思われたら。」
今度は振り返って微笑んだ。
「私の家は、この先です。」
それだけ伝えて、また歩き出す。
来るかどうかは分からない。
それでいい。
決めるのは、あの人自身だから。
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家に着き、扉を開ける。
薬草を棚へ戻そうとした、その時。
コンコン。
控えめなノックが響いた。
(……来た。)
扉を開けると、さっきの騎士様が立っていた。
少しだけ申し訳なさそうな顔で。
「……世話になる。」
その一言が、少しだけ可笑しくて。
思わず笑みがこぼれた。
「はい。」
「どうぞ。」
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椅子へ座ってもらい、そっと右腕の手甲を外す。
包帯代わりに巻かれていた布は、血で赤く染まっていた。
私は息をのむ。
「これは……。」
思っていたより、ずっと深い傷だった。
しかも。
新しい傷の下には、白く長い傷跡。
(古傷……。)
それを見た瞬間、胸へ伝わってきた感情が変わる。
悔しい。
苦しい。
諦め。
そして、ほんの少しだけ。
怖い。
私は何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
代わりに、傷口をぬるま湯で洗う。
「少ししみます。」
「……ああ。」
表情は変わらない。
でも。
痛い。
すごく痛い。
伝わってくる感情は隠せなかった。
(我慢しなくていいのに。)
そう思いながら薬草をすり潰し、傷へ塗る。
包帯を巻く手は、自然と優しくなっていた。
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「終わりました。」
騎士様はゆっくり右腕を動かす。
「ありがとう。」
短い言葉。
でも、その中にはさっきまでなかった温かさが混じっていた。
私は少しだけ安心する。
「今日は、ちゃんと休んでください。」
「……努力する。」
思わず笑ってしまう。
「努力ではなく、休んでください。」
騎士様は一瞬だけ驚いた顔をした。
それから。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ口元を緩めた。
その笑顔は、不器用だけれど優しかった。
(……笑える人なんだ。)
それが、私の最初の印象だった。
名前を聞くのを忘れていたことに気付いたのは。
扉が閉まったあとだった。




