16. 遠ざかる距離
明くる日の朝。
朝日が部屋の窓を照らしていた。
リゼットはいつもの時間に扉を開ける。
気付けば、扉を開けながら口にしていた。
「……おはようございます。」
返事はない。
目の前には誰もいない。
暖かい風が通り過ぎるだけだった。
いつものように店を開けると、朝の光が薬屋へ差し込んだ。
薬草を並べ、水瓶を満たし、床を掃く。
いつもと変わらない朝。
それなのに。
リゼットは何度も店の入口へ視線を向けていた。
(今日こそは……。)
自分でそう思った瞬間、小さく首を振る。
違う。
来なくてもいいと決めたのは私だ。
薬師として。
友人として。
その距離を守ると決めたのは、私自身。
なのに。
扉が開く音を、どこかで待ってしまっている。
その日もとうとう、
昼になっても。
夕方になっても。
アルベルトは現れなかった。
「……忙しいだけ。」
そう言い聞かせる。
王都騎士団長なのだから、来られない日だってある。
そう。
分かっている。
それでも胸の奥は静かに痛んだ。
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一方その頃。
王城の訓練場では、鋼が激しくぶつかり合う音が辺り一帯へ轟いていた。
――ギィンッ!!
耳をつんざくような剣戟。
火花が散る。
若手騎士のスヴェンが渾身の一撃を振り下ろす。
しかし。
アルベルトは半歩だけ身体をずらした。
わずかに剣を滑らせるだけで、その一撃を受け流す。
「まだ軽い。」
低く告げると同時に、一歩踏み込む。
次の瞬間。
――ガァン!!
重い衝撃音。
スヴェンの剣は高く弾き飛ばされ、青年は数歩たたらを踏んでようやく体勢を立て直した。
土煙が舞い上がる。
訓練場を囲む騎士たちは、誰も息をすることすら忘れて見入っていた。
「団長……今日は一段と容赦がないですね。」
それを見ていた別の騎士、レオンが苦笑する。
誰もがそう思っていた。
ただ一人、
副官エリクだけは、その理由に心当たりがあった。
「……何かありましたか。」
「何もない。」
即答だった。
だが、その返事が何より雄弁だった。
訓練が終わり、人払いを済ませると、エリクは隣へ歩み寄る。
「薬屋へ行かないんですか。」
アルベルトは剣へ目を落としたまま答える。
「腕の怪我はほとんど治っている。」
「だから?」
「もう行く理由はない。」
エリクは大きくため息をつく。
「団長。」
「なんだ。」
「嘘下手ですよね。」
アルベルトの手が止まる。
「行きたいんでしょう?」
「……。」
「でも抱き締めちゃったから嫌われたと思ってる。」
「……。」
図星だった。
「……。…彼女は困っていた。」
静かな声だった。
「俺が近付きすぎた。
だからもう、困らせない。」
エリクは頭を抱えた。
(二人とも……本当に不器用だ。)
---
それから数日が過ぎた。
薬屋には相変わらずアルベルトの姿はない。
騎士による巡回を増やしてくれたようで、通りは以前に増して治安が保たれている。
リゼットは薬棚の前で手を止める。
古傷用の薬。
もう何日も渡せていない。
「……効き目、落ちちゃうかな。」
誰にも聞こえない声。
その時だった。
店の扉が勢いよく開いた。
「リゼットさん!」
飛び込んできたのはエリクだった。
「…!あ…、エリクさん?」
「すまない、急患だ!
王宮の医師がたまたま不在で、どうしても手が足りなくて…
あなたを頼らせてもらえないですか。」
騎士が一人、肩を貸されながら運び込まれる。
腕から血が流れていた。
リゼットはすぐに表情を切り替える。
「こちらへ。」
迷いなく処置を始める。
止血。
洗浄。
薬草をすり潰し、傷口へ当てる。
その様子を見つめながら、エリクはぽつりと呟いた。
「団長が来なくなって、寂しそうでしたね。」
リゼットの手が、一瞬だけ止まる。
「……そんなこと。」
「ありますよ。」
エリクは小さく笑う。
「団長も同じです。」
「え……?」
その言葉に、リゼットは思わず顔を上げた。
「いや。」
エリクは慌てて咳払いをする。
「今のは忘れてください。」
危ない。
危うく口を滑らせるところだった。
団長に口止めされている。
それ以上は言えない。
「……アルベルト様は、お元気ですか。」
それだけを尋ねる。
「元気……と言えば元気ですが。」
エリクは困ったように頭を掻いた。
「笑わなくなりました。」
その一言に息を飲んだ。
向かい合っていない。
だから感情は読めない。
それでも、その言葉だけで胸が締め付けられる。
(私のせい……?)
いや。
違う。
そう思ってはいけない。
恋をしまうと決めたのだから。
リゼットは俯き、小さく息を吐く。
「処置はおわりました。薬ができたら、お渡しします。」
その声はいつも通り穏やかだった。
けれど胸の奥では、小さな願いが静かに膨らんでいた。
(……一目だけでも。)
(アルベルト様の顔が見たい。)
その願いは、届く相手のいないまま、
静かに胸の奥へ沈んでいった。




