14. 閉ざされた塔(後編)
アルベルトが剣を構える。
月明かりが銀の刃を照らした。
「エリク!」
「はい!」
「リゼットを頼む。」
「団長は!?」
「あいつを片付ける。」
老人は笑う。
「若いな。」
杖の先から黒い霧が溢れた。
それは魔石を砕いて作られた粉だった。
吸い込めば恐怖が増幅される。
兵士たちの足が止まる。
「う……。」
「身体が……。」
一人、また一人と膝をつく。
剣が震える。
呼吸が乱れる。
足が前へ出ない。
「嫌だ……。」
誰かが思わず声を漏らした。
副団長のエリクでさえ剣を支えに立っている。
「団長……!」
アルベルトだけが辛うじて自分の足で立っていた。
一歩。
また一歩。
しかし彼も苦しそうだった。
額に汗が滲む。
(怖い。)
リゼットには伝わる。
恐怖。
焦り。
それでも前へ進もうとする意思。
(違う。)
(アルベルト様は怖くないんじゃない。)
(怖くても進める人なんだ。)
その姿が胸を打つ。
老人は満足そうに笑った。
「これが魔石の力だ。
恐怖は誰にも勝てん。」
老人がさらに杖を振り上げた。
その時。
リゼットが一歩前へ出た。
「リゼットさん!ダメだ!」
足が動かないながらも、エリクが止める。
彼女は首を振った。
「大丈夫です。」
大丈夫なんかじゃない。
「私にも、」
膝が震えている。
「できる事が。」
心臓もうるさいくらい鳴っている。
それでも歩く。
アルベルトのところまで。
「何をする。」
老人が笑う。
「お前に戦う力はない。」
「ありません。」
「剣もない。」
「ありません。」
「魔法もない。」
「ありません。」
リゼットは静かに答えた。
「でも。」
アルベルトの前へ立つ。
「この人は、独りじゃありません。」
アルベルトの瞳が揺れた。
「リゼット……。」
彼女は振り返らない。
老人だけを見ている。
「私は弱いです。」
「怖いです。」
「逃げたいです。」
小さく息を吸う。
「でも。
大切な人を一人で戦わせる方が、もっと怖い。」
アルベルトの胸へ、その言葉が真っ直ぐ届く。
老人は鼻で笑った。
「はっ。感動ごっこか。
もう終わりだ。」
黒い霧が二人へ襲いかかる。
その瞬間。
リゼットは薬袋を投げた。
パァン!
乾燥させた"月白草"が弾ける。
淡い香りが広がった。
黒い霧が少しだけ薄くなる。
「何!?」
老人が驚く。
「薬草……?」
「魔石の影響を和らげる香りです。」
完全には防げない。
それでも。
恐怖が少しだけ軽くなる。
兵士たちが立ち上がる。
「動ける!」
「団長!」
エリクが笑った。
「さすがリゼットさん!」
リゼットはほっと息をつく。
(これで十分。)
(私は剣じゃ戦えない。)
(でも支えることはできる。)
アルベルトが笑った。
「ありがとう。」
その一言だけだった。
でも、それで十分だった。
次の瞬間。
アルベルトは地を蹴った。
速い。
今までで一番。
老人の杖が唸りを上げる。
「遅い!」
ガキィン!
剣と杖が激しくぶつかる。
火花が散る。
老人は笑う。
「ほう……魔石を浴びてもこの動きか!」
杖が横薙ぎに振るわれる。
アルベルトは紙一重でかわす。
石壁へ杖が叩きつけられ、
轟音とともに壁が砕けた。
エリクが息を呑む。
「んなっ…!」
老人は笑う。
「老いなど、とっくに捨てた。」
黒い霧が、その身体へまとわりつく。
皺だらけだった腕が、不気味なほど力強く膨れ上がる。
そして、間髪入れず短剣を抜いた。
「魔石は心を蝕むだけではない。」
「肉体さえも、一時的に強化する。」
アルベルトが眉をひそめた。
「……だから老人とは思えない動きだったのか。」
「まだ終わらんぞ!」
一閃。
喉元を狙う鋭い突き。
アルベルトは半歩だけ身体をずらす。
刃は銀髪を一筋かすめただけだった。
アルベルトが低く告げる。
「……だが、甘い。」
ガキン!!
アルベルトの剣が短剣を弾き飛ばす。
老人の手から武器が離れた。
剣先が静かに喉元へ添えられる。
「終わりだ。」
老人は初めて笑みを失った。
老人の手から黒い霧が消えていく。
その瞬間、盛り上がっていた筋肉が萎み、背中が一気に丸くなった。
「……馬鹿な。
儂の、力が……。」
老人は膝から崩れ落ちた。
「団長!」
兵士たちが歓声を上げる。
アルベルトは振り返る。
真っ先にリゼットを見る。
そこにいる。
ちゃんと立っている。
その瞬間だった。
彼は駆け出した。
リゼットの前で止まる。
何も言わない。
ただ。
次の瞬間、
リゼットの肩へ顔を埋めるようにして、
強く抱き締めた。
リゼットの身体が、
その腕の中へ収まる。
「……!」
リゼットの身体が固まる。
騎士団全員が固まる。
エリクが目を見開く。
(だ、団長が……!?)
その腕は震えていた。
強いはずの騎士が。
誰よりも冷静な人が。
今はただ、
失うかもしれなかった恐怖だけを抱えて震えている。
アルベルト自身も数秒遅れて気付いた。
(しまった。)
腕を離そうとする。
「……すまない。」
いつもの彼ならそうした。
けれど。
離れない。
離せない。
「無事で……。」
掠れた声だった。
「本当に、良かった。」
その声は、
ただ一人の男が、
大切な人を失わずに済んだと、
心の底から安堵する声だった。
その言葉に、
張りつめていた糸が切れたように、
リゼットの目へ涙が滲んだ。
リゼットは向かい合っている。
だから全部伝わる。
怖かった。
眠れなかった。
後悔。
絶望。
そして。
もう二度と失いたくない。
胸が締め付けられる。
(こんなに……。)
(私のことを。)
リゼットの手が震えながら、
そっとアルベルトの背中へ伸びる。
抱き締め返そうとして――
はっと止まる。
(……違う。)
(今抱き締めたら。)
(私は。)
そのまま手を下ろした。
アルベルトも気付く。
彼女がまだ迷っていることに。
だから静かに身体を離した。
「……悪かった。」
「い、いえ。」
二人とも、
何も言えなかった。
言葉にすれば、
今にも涙が零れてしまいそうだったから。
エリクが頭を抱える。
(団長ぉぉぉ!!
そこはもっと押してくださいよ!!)
横の騎士が小声で返す。
(いや、団長は押さない人だから団長なんだ。)
―――
その夜、王都へ戻る馬車の中で
リゼットは窓の外を眺めていた。
胸に残っている。
あの腕。
あの温もり。
あの震える声。
(怖かった。
あんなアルベルト様、初めて見た。)
自分が攫われたことより。
彼にあんな顔をさせてしまったことの方が苦しかった。
そして。
ようやく認める。
小さく。
誰にも聞こえない声で。
「(……好き。)」
その一言を、自分自身へ告げた。
けれど、その恋はまだ胸の奥へしまわれる。
アルベルトは知らない。
馬車に座る彼女が、
ようやく、
自分と同じ恋を歩き始めたことを。




