13. 閉ざされた塔(中編)
石壁から水滴が落ちる音だけが響いていた。
ぽたり。
ぽたり。
リゼットは静かに息を整える。
(怖い。)
手は震えている。
心臓は苦しいくらい速く打っている。
それでも。
(泣かない。)
泣いても何も変わらない。
きっとあの人が、落としてきた道標を頼りに助けにきてくれる。
その希望がリゼットを強く支えてくれていた。
老人は部屋の隅で薬草を選り分けながら言った。
「君は勘違いしている。」
「…。」
「その力は隠すものではない。」
「…なんのこと…。」
「王侯貴族は莫大な金を払う。」
「…違います。」
「戦局だって変えられる。」
リゼットは老人を見つめ返した。
「私は……」
静かな声だった。
「薬は、お金や権力のためにあるんじゃありません。」
老人は鼻で笑う。
「青臭い。」
「苦しんでいる人を少しでも楽にするためにあります。
だから薬師になりました。
だから、あなたの言いなりにはなりません。」
老人の目が細くなる。
「つまらんな。だが、
優しい者ほど壊しやすい。」
老人は笑った。
「その綺麗事が、いつまで続くか見物だ。」
―――――
その夜。
二人の見張りのうち、食事を運んできた若い男が、
リゼットの向かいにしゃがんで小さくため息をついた。
(早く終わらないかな。)
(母さん、心配してるだろうな……。)
リゼットは顔を上げる。
(この人……。)
悪人じゃない。
雇われただけなんだ。
「……あの。」
男はびくっとする。
「何だ。」
「あなたのその足…」
「え?」
「痛みますよね。」
男は思わず足を押さえた。
昔折った古傷。
雨の日は特に痛む。
誰にも言っていない。
「どうして知ってる。」
「分かるんです。……薬師ですから。」
男は黙った。
「薬を作れます。
少しだけ楽になる薬を。」
男は笑う。
「嘘つけ。騙されないぞ。」
「そうですよね。」
リゼットも笑った。
「でも。
痛いのは本当でしょう?」
その言葉に、
男の心が揺れる。
(……本当に治るのか…?)
翌朝。
男はこっそり薬草を持ってきた。
「これで作れるか。」
「ありがとうございます。」
縄をほどいてもらい、
リゼットは薬を作り始める。
ほんの少しだけ。
いつものように、
薬草へ自分の力を移す。
光は見えない。
ただ少しだけ効き目が増す。
男が薬を塗る。
しばらくして。
「あれ……。」
足が軽い。
「痛くない。
そんな……。」
リゼットは微笑んだ。
「治ったわけじゃありません。
無理をしないでください。」
男はしばらく黙っていた。
(この人……。)
(純粋に人を助けたいだけなんだ。)
その夜。
男は小さな紙切れを差し出した。
「塔の地下に抜け道がある。」
「俺は何も見なかった。」
「急げ。」
リゼットは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「……俺の方こそ…。」
一方。
アルベルト達は夜通しで探し続けていた。
塔のある山へ続く道。
アルベルトは地面へしゃがみ込む。
「団長。」
エリクが声を掛ける。
「落ち葉が気になるんですか?もうじき夜明けですよ。」
アルベルトは薬草を一枚拾い上げる。
リゼットが好んで使う"白星草"。
茎が、わずかに東を向いて折られている。
「……違う。」
「え?」
「これは落ちたんじゃない。」
一本。
また一本。
一定の間隔で落ちている。
アルベルトは静かに目を閉じた。
「……そうか。
これは道標だ。」
エリクが息を呑む。
「まさか、これもリゼットさんが?」
「そうだ。」
アルベルトの口元に、小さく笑みが浮かぶ。
「俺たちが来ることを信じてくれている。」
その一言には、揺るぎない確信があった。
夜明けに差し掛かる頃、
リゼットは地下通路を音を立てないよう歩く。
風がふいてきた。
あと少し。
出口だ。
その時だった。
「どこへ行く。」
老人だ。
見つかった。
「お前には期待してやったのに、残念だ。」
杖が振り下ろされる。
リゼットは咄嗟に避ける。
近くの薬棚が倒れ、古い薬草が床へ散らばった。
(薬草……。)
その瞬間。
彼女は散らばった籠からある小袋を掴む。
中身は乾燥させた"眠り花"。
「これで…!」
床へ叩きつけた。
白い粉が舞い、その粉を吸い込んだ見張りたちが咳き込む。
「なんだこれは……!」
「薬師を甘く見ないでください!」
老人だけは笑った。
「面白い。」
杖を構える。
「だがもう終わりのようだな。」
リゼットは後ずさる。
壁。
逃げ場がない。
(まだ終われない。)
(あと少しだけでも時間を稼げば――)
その時だった。
――ドォォン!!
轟音とともに塔の石壁が内側へ吹き飛んだ。
石片が四方へ弾け飛ぶ。
冷たい夜風が一気に流れ込んだ。
土煙の向こうから、
一人の騎士が歩いてくる。
月明かりを背負って。
銀の髪が土煙の中で静かに揺れる。
剣を抜いたまま。
アルベルトだった。
(……来て、くれた。)
普段なら。
まず状況を確認する。
敵の数を見る。
仲間へ指示を出す。
だが今の彼は違った。
視線は一つ。
リゼットだけ。
縄で擦れた手首。
泥だらけの服。
青ざめた顔。
それを見た瞬間――
胸の奥で、何かが切れた。
「……お前、」
声が低く響く。
老人へ向けられた殺気に、空気そのものが震えた。
エリク達が思わず息を止める。
(団長……。)
(こんな顔、初めて見る。)
アルベルトは一歩踏み出す。
「その人から離れろ。」
静かな声なのに、
怒りが抑え切れていない。
老人が笑う。
「あの時の間抜けか。ずいぶん遅かったな。」
その瞬間。
アルベルトの剣を持つ手に力がこめられる。
剣先がわずかに震える。
老人へ向けられた殺気だけで空気が張り詰める。
一歩踏み込めば、 老人の首は飛ぶ。
「アルベルト様!」
リゼットが叫んだ。
「怒らないで!」
アルベルトの動きが止まる。
彼女は震えながら、それでもまっすぐ彼を見ていた。
「その人を殺してしまって……」
息を吸う。
「あなたがあなたじゃなくなるなら……私は嫌です。」
その一言で。
アルベルトの手から、力がゆっくり抜けていく。
怒りだけで剣を振るっても勝てるかもしれない。
でも、それはリゼットが望む騎士ではない。
彼は静かに息を吐いた。
そして、いつものアルベルトの声に戻る。
「……ありがとう。」
剣を構え直す。
「必ず助ける。」
「そして、必ず生きて帰る。」
リゼットは泣きそうな顔で頷いた。
「……はい。」
その瞬間、二人の心は初めて同じ方向を向いた。
恋人ではない。
まだ想いも伝えていない。
それでも――
互いを信じる心だけは、誰にも断ち切れなかった。




