第98話 馴染みの視線
カイが工房を出てから、しばらく経った頃だった。
エレノアは棚の整理を続けながら、時折窓の外に目をやっていた。ヨーゼフの店とマルタの店を回るだけなら、そう長くはかからないはずだった。
「遅いわね……」
独り言のように呟いた時、扉が控えめに開いた。カイだった。しかしその表情は、出て行った時とは明らかに違っていた。顔色が悪く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「カイ、どうかしたの?」
エレノアが駆け寄ると、カイは黙って首を振った。
「……何でもない」
「何でもない顔じゃないわ。座って」
エレノアが椅子を勧めると、カイは素直に腰を下ろした。しかしその手は、微かに震えているようだった。
「配達は、無事に済んだの?」
「ああ、それは……問題ない」
エレノアは温かい水を差し出しながら、静かに待った。カイは水を一口飲み、しばらく黙り込んだ後、ようやく口を開いた。
「マルタさんの店に向かう途中で……見られてる気がした」
「見られてる?」
「ああ。誰かに、じっと視線を感じた。振り返っても、誰もいなかったけど」
カイは水の入った器を、両手で強く握りしめた。
「昔の癖で、そういうのには敏感なんだ。気のせいだと思おうとしたけど……何度も、同じ感覚があった」
エレノアの胸に、朝のことがふと蘇った。あの人影、見失った行商人。もしかすると、まだこの辺りをうろついているのかもしれない。
「どんな視線だったか、もう少し詳しく分かる?」
カイはしばらく考え、慎重に言葉を選んだ。
「値踏みされてるような……いや、それとも、確認されてるような感じだった。まるで、俺が本当に俺かどうか、確かめようとしてるみたいな」
エレノアは静かに息を呑んだ。もしそれが本当なら、カイの過去を知る何者かが、近くにいるということになる。
「グレゴール様の組織にいた頃、こういう感覚は珍しくなかった。誰かに見張られてる、誰かに探られてる……。でも」
カイは視線を落とした。
「ここに来てから、あんな感覚、久しくなかったんだ。だから、余計に嫌な感じがする」
エレノアは静かにカイの肩に手を置いた。
「大丈夫よ。もし本当に誰かがいたとしても、あなたは一人じゃないわ」
カイは何も言わなかった。しかし、その体から、少しずつ強張りが解けていくのが分かった。
しばらくして、扉が再び開いた。今度はリリアだった。
「エレノア、大変!」
いつもの明るい声とは違う、切迫した響きがあった。
「どうしたの、リリア」
「さっき、市場の方でね……見慣れない男の人たちが何人か、こそこそ話しているのを見たの」
リリアは息を整えながら、記憶を辿るように話し始めた。
「果物屋の裏手あたりだったんだけど、三人組でね。一人は、体格ががっしりしてて、腕なんて私の太腿くらい太かった気がする。日に焼けた顔で、無精髭が生えてたかな」
「あとの二人は?」
「一人は、猫背っていうか、いつも下を向いてる感じの人。声も小さくて、何を話してるのか、そっちはよく聞こえなかった。もう一人は……そうだ、右手に、包帯みたいなものを巻いてた気がする」
カイの表情が、わずかに強張った。
「包帯……怪我をしていたということ?」
「うん、多分。歩き方も、少し引きずるような感じだったし」
リリアは眉を寄せ、さらに記憶を絞り出すように続けた。
「それで、聞き耳を立てたわけじゃないんだけど、たまたま『カイ』って名前が聞こえた気がして。がっしりした人が、低い声で言ってたと思う。『カイの野郎、まだこの辺りにいるはずだ』みたいな……はっきりとは聞き取れなかったけど、そんな感じだった」
エレノアとカイが、同時に顔を強張らせた。
「他には、何か言っていなかった?」
「あとは……『店の様子を見て、それらしいのがいたら知らせろ』とか、そんなようなことも聞こえた気がする。でも、私が近づいたのに気づいたのか、すぐに話をやめて、別々の方向に散っていっちゃったの」
「その人たち、どちらの方向へ?」
「一人は市場の奥へ、体格のいい人は、確か……この工房の方角に歩いていったと思う」
その言葉に、エレノアの背筋に冷たいものが走った。
カイは立ち上がり、拳を強く握りしめた。
「……見つかったのかもしれない」
「まだ分からないわ。リリア、教えてくれてありがとう」
エレノアはリリアに礼を言いながらも、頭の中では素早く考えを巡らせていた。行商人の一件、カイが感じた視線、そして今のリリアの話。すべてが、偶然と片付けるには重なりすぎていた。
「叔父様に、相談しましょう」
「俺も一緒に行く」
カイが即座に言った。エレノアは一瞬迷ったが、頷いた。
「分かったわ。でも、私の傍を離れないで」
「ああ」
リリアが心配そうに二人を見た。
「大丈夫なの? 何か、危ないことになってるんじゃ……」
「まだ何とも言えないわ。でも、念のため、リリアもしばらくは一人で出歩かないようにしてね」
エレノアがそう言うと、リリアは神妙な顔で頷いた。
工房の扉に鍵をかけながら、エレノアは窓の外、夕暮れ間近の南区の通りを見渡した。行き交う人々の中に、見覚えのある人影がないか、無意識に目で追ってしまう。
「行きましょう」
エレノアが声をかけると、カイは硬い表情のまま、静かに頷いた。二人は連れ立って、バルドゥールの元へと急いだ。
その背後で、工房の灯りが、静かに消えていった。
――――
その頃、南区の外れ、人通りの絶えた路地の奥。
崩れかけた壁に背をもたせかけ、一人の男が息を潜めていた。日に焼けた顔、太い眉、頬に古い傷跡。がっしりとした体格の男は、懐から小さな布切れを取り出し、静かに匂いを確かめた。
「……間違いない」
低く呟くと、男は路地の奥、闇の中に立つ、もう一つの人影に視線を向けた。
「見つけたか」
「ああ。工房に出入りしてるのを、この目で見た」
闇の中の人影は、しばらく無言だった。やがて、低く抑えた声で言った。
「まだ動くな。向こうに気取られている可能性がある」
「だが……」
「焦るな。機はいずれ来る」
人影はそう言うと、静かに背を向けた。男もまた、布切れを懐にしまい、崩れた壁の陰へと姿を消していった。
夜の闇が、二人の気配ごと、静かに路地を呑み込んでいった。




