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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第三章 灯火の調香師

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第98話 馴染みの視線

 カイが工房を出てから、しばらく経った頃だった。


 エレノアは棚の整理を続けながら、時折窓の外に目をやっていた。ヨーゼフの店とマルタの店を回るだけなら、そう長くはかからないはずだった。


「遅いわね……」


 独り言のように呟いた時、扉が控えめに開いた。カイだった。しかしその表情は、出て行った時とは明らかに違っていた。顔色が悪く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。


「カイ、どうかしたの?」


 エレノアが駆け寄ると、カイは黙って首を振った。


「……何でもない」


「何でもない顔じゃないわ。座って」


 エレノアが椅子を勧めると、カイは素直に腰を下ろした。しかしその手は、微かに震えているようだった。


「配達は、無事に済んだの?」


「ああ、それは……問題ない」


 エレノアは温かい水を差し出しながら、静かに待った。カイは水を一口飲み、しばらく黙り込んだ後、ようやく口を開いた。


「マルタさんの店に向かう途中で……見られてる気がした」


「見られてる?」


「ああ。誰かに、じっと視線を感じた。振り返っても、誰もいなかったけど」


 カイは水の入った器を、両手で強く握りしめた。


「昔の癖で、そういうのには敏感なんだ。気のせいだと思おうとしたけど……何度も、同じ感覚があった」


 エレノアの胸に、朝のことがふと蘇った。あの人影、見失った行商人。もしかすると、まだこの辺りをうろついているのかもしれない。


「どんな視線だったか、もう少し詳しく分かる?」


 カイはしばらく考え、慎重に言葉を選んだ。


「値踏みされてるような……いや、それとも、確認されてるような感じだった。まるで、俺が本当に俺かどうか、確かめようとしてるみたいな」


 エレノアは静かに息を呑んだ。もしそれが本当なら、カイの過去を知る何者かが、近くにいるということになる。


「グレゴール様の組織にいた頃、こういう感覚は珍しくなかった。誰かに見張られてる、誰かに探られてる……。でも」


 カイは視線を落とした。


「ここに来てから、あんな感覚、久しくなかったんだ。だから、余計に嫌な感じがする」


 エレノアは静かにカイの肩に手を置いた。


「大丈夫よ。もし本当に誰かがいたとしても、あなたは一人じゃないわ」


 カイは何も言わなかった。しかし、その体から、少しずつ強張りが解けていくのが分かった。


 しばらくして、扉が再び開いた。今度はリリアだった。


「エレノア、大変!」


 いつもの明るい声とは違う、切迫した響きがあった。


「どうしたの、リリア」


「さっき、市場の方でね……見慣れない男の人たちが何人か、こそこそ話しているのを見たの」


 リリアは息を整えながら、記憶を辿るように話し始めた。


「果物屋の裏手あたりだったんだけど、三人組でね。一人は、体格ががっしりしてて、腕なんて私の太腿くらい太かった気がする。日に焼けた顔で、無精髭が生えてたかな」


「あとの二人は?」


「一人は、猫背っていうか、いつも下を向いてる感じの人。声も小さくて、何を話してるのか、そっちはよく聞こえなかった。もう一人は……そうだ、右手に、包帯みたいなものを巻いてた気がする」


 カイの表情が、わずかに強張った。


「包帯……怪我をしていたということ?」


「うん、多分。歩き方も、少し引きずるような感じだったし」


 リリアは眉を寄せ、さらに記憶を絞り出すように続けた。


「それで、聞き耳を立てたわけじゃないんだけど、たまたま『カイ』って名前が聞こえた気がして。がっしりした人が、低い声で言ってたと思う。『カイの野郎、まだこの辺りにいるはずだ』みたいな……はっきりとは聞き取れなかったけど、そんな感じだった」 


 エレノアとカイが、同時に顔を強張らせた。


「他には、何か言っていなかった?」


「あとは……『店の様子を見て、それらしいのがいたら知らせろ』とか、そんなようなことも聞こえた気がする。でも、私が近づいたのに気づいたのか、すぐに話をやめて、別々の方向に散っていっちゃったの」


「その人たち、どちらの方向へ?」


「一人は市場の奥へ、体格のいい人は、確か……この工房の方角に歩いていったと思う」


 その言葉に、エレノアの背筋に冷たいものが走った。


 カイは立ち上がり、拳を強く握りしめた。


「……見つかったのかもしれない」


「まだ分からないわ。リリア、教えてくれてありがとう」


 エレノアはリリアに礼を言いながらも、頭の中では素早く考えを巡らせていた。行商人の一件、カイが感じた視線、そして今のリリアの話。すべてが、偶然と片付けるには重なりすぎていた。


「叔父様に、相談しましょう」


「俺も一緒に行く」


 カイが即座に言った。エレノアは一瞬迷ったが、頷いた。


「分かったわ。でも、私の傍を離れないで」


「ああ」


 リリアが心配そうに二人を見た。


「大丈夫なの? 何か、危ないことになってるんじゃ……」


「まだ何とも言えないわ。でも、念のため、リリアもしばらくは一人で出歩かないようにしてね」


 エレノアがそう言うと、リリアは神妙な顔で頷いた。


 工房の扉に鍵をかけながら、エレノアは窓の外、夕暮れ間近の南区の通りを見渡した。行き交う人々の中に、見覚えのある人影がないか、無意識に目で追ってしまう。


「行きましょう」


 エレノアが声をかけると、カイは硬い表情のまま、静かに頷いた。二人は連れ立って、バルドゥールの元へと急いだ。


 その背後で、工房の灯りが、静かに消えていった。


 ――――


 その頃、南区の外れ、人通りの絶えた路地の奥。


 崩れかけた壁に背をもたせかけ、一人の男が息を潜めていた。日に焼けた顔、太い眉、頬に古い傷跡。がっしりとした体格の男は、懐から小さな布切れを取り出し、静かに匂いを確かめた。


「……間違いない」


 低く呟くと、男は路地の奥、闇の中に立つ、もう一つの人影に視線を向けた。


「見つけたか」


「ああ。工房に出入りしてるのを、この目で見た」


 闇の中の人影は、しばらく無言だった。やがて、低く抑えた声で言った。


「まだ動くな。向こうに気取られている可能性がある」


「だが……」


「焦るな。機はいずれ来る」


 人影はそう言うと、静かに背を向けた。男もまた、布切れを懐にしまい、崩れた壁の陰へと姿を消していった。


 夜の闇が、二人の気配ごと、静かに路地を呑み込んでいった。

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