第97話 名前を呼ばれること
おやつ時、工房の仕事もひと段落した頃、エレノアは棚の整理をしながら、ふと手を止めた。
「カイ、少し休憩にしましょうか」
カイは黙って頷き、椅子に腰を下ろした。エレノアは温めた薬草茶を二つの器に注ぎ、一つをカイの前に置いた。
「ありがとう」
その一言が、以前よりずっと自然に出てくるようになったことに、エレノアは静かな喜びを感じていた。
窓の外では、南区の夕暮れが、いつもの喧騒を少しずつ静めていく。行商人たちが荷をまとめ、子供たちが家路につく時刻だった。
「今日、ディートリヒが来た時のこと」
カイがぽつりと切り出した。
「剣の稽古、誘われたこと」
「ええ、覚えているわ」
「……嬉しかった」
カイは器を両手で包み込みながら、視線を落とした。
「誰かに、何かを教えてもらえるっていうのが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった」
エレノアは静かに耳を傾けた。カイがこうして自分の気持ちを言葉にするのは、まだ珍しいことだった。
「以前は、教えられることといえば、役に立つ技術だけだった。誰かを見張る方法、気配を消す方法、痛めつける方法……」
カイの声は淡々としていたが、その奥に、消えない疲れのようなものが滲んでいた。
「でも、エレノアが教えてくれる香りの知識は、違う。誰かを傷つけるためじゃなくて、誰かのためになる知識だ」
「そうね」
「今日の、ディートリヒの誘いも、そうだった。俺を利用するためじゃなくて……ただ、俺のためを思って言ってくれてる気がした」
エレノアは静かに微笑んだ。
「あなたが、そう感じられるようになったのは、あなた自身が変わったからよ」
「俺が?」
「ええ。以前のあなたなら、きっと素直に喜べなかったと思うわ。裏があるんじゃないかって、疑っていたはずよ」
カイはしばらく黙り込んだ。窓の外から、遠くの子供たちの笑い声が微かに聞こえてくる。
「……名前」
やがて、カイが低く呟いた。
「グレゴール様のところにいた時、俺には名前がなかった。番号で呼ばれてた。八十六番って」
エレノアは、以前カイから聞いた話を思い出した。あの地下牢での、初めての対話。
「あなたは、カイよ」
「ああ」
カイは小さく頷いた。
「初めて、誰かが俺のことを、番号じゃなく名前で呼んでくれた。それが……エレノアだった」
エレノアは静かにカイを見つめた。その言葉には、これまで積み重ねてきた時間の重みが、確かに込められていた。
「これからも、ずっとカイよ」
「……分かってる」
カイは器のお茶を一口すすり、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「でも、たまに、まだ夢を見る。番号で呼ばれてた頃の夢を」
「怖い夢?」
「怖いっていうか……。名前を呼ばれる夢の方が、実は少し怖い。目が覚めたら、また番号に戻ってるんじゃないかって」
エレノアはしばらく何も言わず、ただ静かにカイの言葉を受け止めた。
「もし、そう感じる朝があったら」
エレノアは穏やかな声で続けた。
「私が、何度でも呼ぶわ。カイって」
カイは驚いたように顔を上げた。その目に、これまで見たことのない、柔らかな光が揺れていた。
「……ありがとう」
短い言葉だったが、その声には、確かな温かさが滲んでいた。
二人はしばらく、無言のまま薬草茶を飲んだ。工房の中に、穏やかな沈黙が満ちていく。それは気まずいものではなく、互いの存在を静かに認め合うような、心地よい静けさだった。
「そういえば」
カイがふと思い出したように言った。
「今朝、エレノア走って出て行っただろう。あれ、何だったんだ」
エレノアの手が、一瞬止まった。
「……ただ、忘れ物に気づいただけよ」
「ふうん」
カイは訝しげな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。エレノアはその視線から逃れるように、空になった器を片付け始めた。
(まだ、言わなくていいわ)
あの人影が本当にあの行商人だったのか、それとも見間違いだったのか。まだ何も確かなことは分からない。無用な不安を、カイにまで負わせる必要はなかった。
エレノアは空になった器を手早く片付けていたが。カイの視線が、まだどこか探るようにこちらへ向いているのを感じ、棚の方へ体を向けた。
「そうだ、カイ。悪いのだけれど、ヨーゼフさんのところに、この香油を届けてくれる?」
「……今から?」
「ええ、なるべく早い方がいいの。切らしているとおっしゃっていたから」
エレノアは小瓶を包みながら、努めて何でもない調子で続けた。
「ついでに、マルタさんのところにも寄って、注文の品が届いているか確認してもらえると助かるわ」
カイは最初な怪訝な顔をしていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった」
包みを受け取り、上着を羽織ると、カイは工房を出て行った。その背中が通りの向こうに消えるのを見届けて、エレノアはようやく詰めていた息を吐いた。
棚の奥には、まだあの香木の包みがしまわれている。そして、あの空き店舗も、依然として謎のままだった。
(何事もなければ、それが一番なのだけど)
その予感を胸の奥にそっとしまいながら、エレノアは今日の残りの仕事へと向かっていった。




