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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第三章 灯火の調香師

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第96話 薔薇の香油とディートリヒ

 ある日の朝、外の光がまだ柔らかい時刻。エレノアは店先で開店の準備をしていた。看板を出し、軒先を軽く掃き清める。いつも通りの、何でもない朝だった。


 ふと顔を上げた瞬間、通りの向こう、雑貨屋の角を曲がっていく人影が目に留まった。


(あれは……)


 飄々とした足取り、少し猫背がちな後ろ姿。見覚えのある特徴だった。エレノアは箒を壁に立てかけると、迷う間もなく駆け出していた。


 石畳を蹴って走る。通りを行き交う人々が驚いたように振り返ったが、構っている暇はなかった。角を曲がり、雑貨屋の脇の細い路地へと飛び込む。


 しかし、そこにはもう誰の姿もなかった。


 エレノアは息を少し切らしながら、周囲を見回した。荷馬車の轍、干された洗濯物、猫が一匹のんびりと日向ぼっこをしている。人影は、最初から存在しなかったかのように消えていた。


(見失ったわ……)

 

 肩で息をしながら、エレノアはしばらくその場に立ち尽くした。気のせいだったのだろうか。それとも、本当に姿を消したのだろうか。


 エレノアは乱れた息を整えながら、静かに考えを巡らせた。もし今のが本当にあの行商人だったとして、これほど素早く姿を消す必要が、一体どこにあったのだろう。


 工房へ戻ろうと振り返った時、ちょうど大きな人影が前方に立っていた。


「エレノア? どうした、そんなに息を切らして」


 ディートリヒだった。片手に、丁寧に包まれた薔薇の花束を抱えている。エレノアは慌てて表情を整えた。


「あ……いえ、少し、走っていたので」


「珍しいな。何かあったのか」


「いえ、何でもありませんよ」


 エレノアは曖昧に微笑み、乱れた髪を手早く直した。ディートリヒは訝しげな顔をしたが、それ以上は追及せず、手に持つ薔薇を見せてきた。


「いつものように、お願いできるかな」


 エレノアはディートリヒを工房へと案内した。


「ディートリヒ様、お久しぶりです」


「昇進してから、忙しくてな。顔を出せなくて悪い」


 彼は照れくさそうに頭をかいた。以前より、纏う空気にどこか落ち着きが増している。小隊を任されるようになったと聞いていたが、その責任感が、立ち居振る舞いにも表れているようだった。


「これ、また母上が育てた薔薇なんだが。相変わらず、いい花を咲かせてくれててな」


 ディートリヒは大きな身体を屈めるようにして工房内に入り、花束を作業台に置いた。エレノアはそっと鼻を近づけ、静かに目を閉じた。


「素敵な香りですね。今回のは、いつもより甘さが強い気がします」


「母上も、そう言ってた。今年は天候が良かったからだろうと」


 エレノアは花弁を一枚一枚、丁寧に確かめながら、頷いた。


「では、この香りを大切に閉じ込めましょう。いつもの香油で、よろしいですか」


「ああ、頼む」


 エレノアが作業に取り掛かる間、ディートリヒは工房の中を見回した。乾燥棚に整然と並んだ薬草、棚の隅に積まれた新しい香料瓶。


「随分と、賑やかになったな」


「叔父様が、色々と持ち込んでくださるので」


「あの人らしいな」


 ディートリヒは小さく笑い、それから少し離れた場所で作業をしているカイに目をやった。


「お前、随分と手つきが良くなったな」


 カイは顔を上げ、一瞬迷うような表情を見せたが、やがて短く答えた。


「……エレノアが教えてくれてる」


「そうか。良かったな」


 ディートリヒは屈託なく笑いかけた。以前のカイであれば、こうした好意的な言葉にも身構えていただろう。しかし今は、ぎこちないながらも、小さく頷き返していた。


「昇進された件、改めておめでとうございます」


 エレノアが花弁を蒸留器にかけながら言うと、ディートリヒは少し複雑な表情を浮かべた。


「ああ、まあな。ありがたい話だが……」


「何か、気になることでも?」


「いや」


 ディートリヒは椅子に腰を下ろし、少し声を落とした。


「昇進してから、任される仕事が増えてな。訓練の指揮やら、会議への出席やらで、以前のように気軽にこっちへ顔を出せない」


「ガスパール様たちも、皆さんお忙しいみたいですね」


「ああ。ガスパールは特にな。小隊のまとめ役になってから、休みの日も呼び出されることが増えたらしい」


 エレノアは静かに頷いた。四人の昇進については、以前バルドゥールから聞いていた。功績が正当に評価されたのは、喜ばしいことだ。しかしそれと引き換えに、以前のような気軽な交流が減っていくのは、少し寂しくもあった。


「……殿下も、少し変わったところがあったな」


 ディートリヒがぽつりと言った。


「変わった、というと?」


「あ、いや……何でもない。忘れてくれ」


 彼は慌てたように話を切り上げ、居心地悪そうに視線を逸らした。エレノアは不思議に思いながらも、それ以上は追及しなかった。


 蒸留が終わり、エレノアは小瓶に琥珀色の香油を注ぎ入れた。薔薇の甘さの奥に、ほんのわずかな青々しさが残る、瑞々しい香りだった。


「はい、どうぞ」


「ありがとう、助かる」


 ディートリヒは瓶を受け取り、大切そうに懐にしまった。


「母上も、これで機嫌が良くなる。……お前のおかげで、俺は親孝行できてるようなもんだな」


「そんな、大袈裟ですよ」


「いや、本当にそうなんだ」


 ディートリヒは立ち上がりながら、真剣な顔で言った。


「また来る。忙しくなっても、それだけは変わらないから」


「はい、お待ちしています」


 エレノアが微笑むと、ディートリヒは少し照れくさそうに頷き、扉へ向かった。しかし途中で足を止め、振り返った。


「そうだ、カイ」


「……何だ」


「今度、剣の稽古でも見てみるか。護衛の仕事をするなら、多少は心得ておいた方がいい」


 カイは意外そうな顔をした。


「俺に、教えてくれるのか」


「もちろん、気が向いたらな」


 ディートリヒは軽く笑い、それだけ言い残して工房を後にした。


 その後ろ姿が見えなくなると、カイは作業の手を止め、しばらく扉の方を見つめていた。


「どうしたの、カイ」


 エレノアが尋ねると、カイは小さく首を振った。


「……別に。ただ、ああいう風に、普通に誘われることに、まだ慣れない」


「これからは、慣れていけばいいのよ」


 カイは何も言わず、また薬草の束に手を伸ばした。しかしその横顔には、先ほどよりも少しだけ、柔らかな色が浮かんでいた。

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