第96話 薔薇の香油とディートリヒ
ある日の朝、外の光がまだ柔らかい時刻。エレノアは店先で開店の準備をしていた。看板を出し、軒先を軽く掃き清める。いつも通りの、何でもない朝だった。
ふと顔を上げた瞬間、通りの向こう、雑貨屋の角を曲がっていく人影が目に留まった。
(あれは……)
飄々とした足取り、少し猫背がちな後ろ姿。見覚えのある特徴だった。エレノアは箒を壁に立てかけると、迷う間もなく駆け出していた。
石畳を蹴って走る。通りを行き交う人々が驚いたように振り返ったが、構っている暇はなかった。角を曲がり、雑貨屋の脇の細い路地へと飛び込む。
しかし、そこにはもう誰の姿もなかった。
エレノアは息を少し切らしながら、周囲を見回した。荷馬車の轍、干された洗濯物、猫が一匹のんびりと日向ぼっこをしている。人影は、最初から存在しなかったかのように消えていた。
(見失ったわ……)
肩で息をしながら、エレノアはしばらくその場に立ち尽くした。気のせいだったのだろうか。それとも、本当に姿を消したのだろうか。
エレノアは乱れた息を整えながら、静かに考えを巡らせた。もし今のが本当にあの行商人だったとして、これほど素早く姿を消す必要が、一体どこにあったのだろう。
工房へ戻ろうと振り返った時、ちょうど大きな人影が前方に立っていた。
「エレノア? どうした、そんなに息を切らして」
ディートリヒだった。片手に、丁寧に包まれた薔薇の花束を抱えている。エレノアは慌てて表情を整えた。
「あ……いえ、少し、走っていたので」
「珍しいな。何かあったのか」
「いえ、何でもありませんよ」
エレノアは曖昧に微笑み、乱れた髪を手早く直した。ディートリヒは訝しげな顔をしたが、それ以上は追及せず、手に持つ薔薇を見せてきた。
「いつものように、お願いできるかな」
エレノアはディートリヒを工房へと案内した。
「ディートリヒ様、お久しぶりです」
「昇進してから、忙しくてな。顔を出せなくて悪い」
彼は照れくさそうに頭をかいた。以前より、纏う空気にどこか落ち着きが増している。小隊を任されるようになったと聞いていたが、その責任感が、立ち居振る舞いにも表れているようだった。
「これ、また母上が育てた薔薇なんだが。相変わらず、いい花を咲かせてくれててな」
ディートリヒは大きな身体を屈めるようにして工房内に入り、花束を作業台に置いた。エレノアはそっと鼻を近づけ、静かに目を閉じた。
「素敵な香りですね。今回のは、いつもより甘さが強い気がします」
「母上も、そう言ってた。今年は天候が良かったからだろうと」
エレノアは花弁を一枚一枚、丁寧に確かめながら、頷いた。
「では、この香りを大切に閉じ込めましょう。いつもの香油で、よろしいですか」
「ああ、頼む」
エレノアが作業に取り掛かる間、ディートリヒは工房の中を見回した。乾燥棚に整然と並んだ薬草、棚の隅に積まれた新しい香料瓶。
「随分と、賑やかになったな」
「叔父様が、色々と持ち込んでくださるので」
「あの人らしいな」
ディートリヒは小さく笑い、それから少し離れた場所で作業をしているカイに目をやった。
「お前、随分と手つきが良くなったな」
カイは顔を上げ、一瞬迷うような表情を見せたが、やがて短く答えた。
「……エレノアが教えてくれてる」
「そうか。良かったな」
ディートリヒは屈託なく笑いかけた。以前のカイであれば、こうした好意的な言葉にも身構えていただろう。しかし今は、ぎこちないながらも、小さく頷き返していた。
「昇進された件、改めておめでとうございます」
エレノアが花弁を蒸留器にかけながら言うと、ディートリヒは少し複雑な表情を浮かべた。
「ああ、まあな。ありがたい話だが……」
「何か、気になることでも?」
「いや」
ディートリヒは椅子に腰を下ろし、少し声を落とした。
「昇進してから、任される仕事が増えてな。訓練の指揮やら、会議への出席やらで、以前のように気軽にこっちへ顔を出せない」
「ガスパール様たちも、皆さんお忙しいみたいですね」
「ああ。ガスパールは特にな。小隊のまとめ役になってから、休みの日も呼び出されることが増えたらしい」
エレノアは静かに頷いた。四人の昇進については、以前バルドゥールから聞いていた。功績が正当に評価されたのは、喜ばしいことだ。しかしそれと引き換えに、以前のような気軽な交流が減っていくのは、少し寂しくもあった。
「……殿下も、少し変わったところがあったな」
ディートリヒがぽつりと言った。
「変わった、というと?」
「あ、いや……何でもない。忘れてくれ」
彼は慌てたように話を切り上げ、居心地悪そうに視線を逸らした。エレノアは不思議に思いながらも、それ以上は追及しなかった。
蒸留が終わり、エレノアは小瓶に琥珀色の香油を注ぎ入れた。薔薇の甘さの奥に、ほんのわずかな青々しさが残る、瑞々しい香りだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、助かる」
ディートリヒは瓶を受け取り、大切そうに懐にしまった。
「母上も、これで機嫌が良くなる。……お前のおかげで、俺は親孝行できてるようなもんだな」
「そんな、大袈裟ですよ」
「いや、本当にそうなんだ」
ディートリヒは立ち上がりながら、真剣な顔で言った。
「また来る。忙しくなっても、それだけは変わらないから」
「はい、お待ちしています」
エレノアが微笑むと、ディートリヒは少し照れくさそうに頷き、扉へ向かった。しかし途中で足を止め、振り返った。
「そうだ、カイ」
「……何だ」
「今度、剣の稽古でも見てみるか。護衛の仕事をするなら、多少は心得ておいた方がいい」
カイは意外そうな顔をした。
「俺に、教えてくれるのか」
「もちろん、気が向いたらな」
ディートリヒは軽く笑い、それだけ言い残して工房を後にした。
その後ろ姿が見えなくなると、カイは作業の手を止め、しばらく扉の方を見つめていた。
「どうしたの、カイ」
エレノアが尋ねると、カイは小さく首を振った。
「……別に。ただ、ああいう風に、普通に誘われることに、まだ慣れない」
「これからは、慣れていけばいいのよ」
カイは何も言わず、また薬草の束に手を伸ばした。しかしその横顔には、先ほどよりも少しだけ、柔らかな色が浮かんでいた。




