第95話 教える手、教わる手
朝の光が工房に差し込む頃、エレノアは棚から数種類の香料瓶を取り出し、作業台に並べていた。
「今日は、少し本格的に教えるわね」
カイは怪訝そうな顔をしながらも、素直に隣の椅子に腰を下ろした。
「香りを、俺に?」
「約束したでしょう。それに、あなたには才能があるわ」
エレノアは瓶の蓋を一つずつ開け、カイの前に並べていった。ラベンダー、シダーウッド、ベルガモット、そして乾燥させた薔薇の花弁。それぞれの香りが、朝の空気の中にゆっくりと立ち上る。
「まずは、香りを『層』として捉えることから始めましょう。表に出てくる香り、時間が経って残る香り、そして最後まで残る余韻」
「層……」
カイは慣れない言葉に眉を寄せながらも、真剣な表情で聞いていた。
「このラベンダーを嗅いでみて。最初に何を感じる?」
カイは瓶を手に取り、慎重に鼻を近づけた。しばらく黙り込んだ後、ぼそりと呟いた。
「……花みたいな匂い。あとは、ちょっと薬っぽい」
「そう、それで正解よ」
エレノアは微笑んだ。
「ラベンダーには、甘さと同時に、清涼感のある薬草のような側面があるの。人によって、どちらを強く感じるかは違うけれど、あなたはちゃんと両方を捉えられている」
カイは少し驚いたような顔をした。褒められることに、まだ慣れていないのだろう。エレノアはそれに気づきながらも、あえて何も言わず、次の瓶を差し出した。
「次はこれ。シダーウッド」
カイは同じように鼻を近づけ、しばらく考え込んだ。
「木の匂い……乾いた感じの」
「その通り。あなた、本当に筋がいいわ」
「……そうか」
カイは短く答えたが、その声には、隠しきれない満足感が滲んでいた。
二人はしばらく、様々な香料を順番に確かめていった。エレノアが説明を加え、カイがそれを一つひとつ嗅ぎ分けていく。単調な作業のはずなのに、その時間は不思議と穏やかに流れていった。
「昔は」
ふと、カイが口を開いた。
「臭いを覚えるのは、隠れる場所を探すためだった。汗の匂い、油の匂い、腐った野菜の匂い。……人に見つからないための知識だった」
エレノアは手を止め、静かに耳を傾けた。
「でも、今は違う」
カイは瓶を見つめながら、ぽつりと続けた。
「誰かのために、何かを作るための知識になってる。……変な感じだ」
「悪い変化だと思う?」
「いや」
カイは首を振った。
「悪くない。むしろ……」
彼はそこで言葉を止め、少し気まずそうに視線を逸らした。それ以上は続けなかったが、エレノアには、その先の言葉が何となく分かる気がした。
「それなら、良かった」
エレノアは静かに微笑み、次の作業に移った。
昼になり、エレノアは作業台を片付け、二人分の食事を用意した。固焼きのパンとチーズ、庭先で摘んだハーブを散らした簡単なスープ。小さな木の卓を挟んで、二人は向かい合って座った。
「いただきます」
エレノアが手を合わせると、カイは少し戸惑ったように、その仕草を真似た。
「……これ、何の意味があるんだ」
「食事に感謝する、っていう習慣よ」
カイは黙って頷き、パンを口に運んだ。しばらく、カトラリーの触れ合う音だけが静かに響いていた。
「……美味い」
カイが、ぽつりと呟いた。エレノアは思わず笑みをこぼした。
「前は、味なんて気にしてる余裕がなかった。早く食わないと取られる。……そんなことばかり考えてた」
「今は、誰にも取られないわ」
「……分かってる」
カイは短く答え、またスープに口をつけた。その横顔には、以前のような硬さはなく、どこか穏やかな色が浮かんでいた。
食事を終えると、エレノアは空いた皿を片付けながら言った。
「午後も、続きをやりましょうか」
「ああ」
昼過ぎ、二人は簡単な調合の練習に取り掛かった。エレノアが基本の配合を教え、カイがそれを真似て、慎重に香料を混ぜ合わせていく。
「量を間違えると?」
「香りのバランスが崩れるわ。強すぎれば主張しすぎるし、弱すぎれば埋もれてしまう」
「難しいな」
カイは真剣な表情で、量りと睨めっこしていた。その様子に、エレノアは思わず微笑んだ。かつて工房に踏み込んできた密偵の少年が、今はこうして、香料の分量に頭を悩ませている。その変化が、エレノアにはたまらなく嬉しかった。
「あ」
カイが小さく声を上げた。手元の小皿から、香りが立ち上っている。
「これ……悪くない、かも」
エレノアは覗き込み、鼻を近づけた。シダーウッドとラベンダーを基調にした、素朴だが落ち着きのある香りだった。
「上手にできているわ。特に、ラベンダーの分量が絶妙ね」
「本当か」
「ええ。あなた、本当に筋がいいのね」
カイは無言だったが、その耳が、わずかに赤くなっているのが見えた。
「これ、何に使えるの」
「そうね……眠れない夜のための、寝具用の香油にできると思うわ」
カイは自分の小皿を見つめ、しばらく黙り込んだ。
「……俺、眠れない夜が多い」
エレノアはその言葉に、静かに頷いた。
「なら、これはあなたのために作った、初めての香りということね」
カイは何も言わなかった。ただ、小皿の中の淡い香りを、じっと見つめ続けていた。窓から差し込む午後の光が、その横顔を静かに照らしていた。
「明日も、教えてくれるか」
しばらくして、カイがぽつりと尋ねた。
「もちろんよ」
エレノアが答えると、カイは小さく頷いた。




