第94話 叔父様の助言
翌朝、書状を送ってから半日も経たないうちに、扉を叩く音がした。
「エレノア、入るぞ」
聞き慣れた低い声とともに、バルドゥールが姿を現した。今日は貴族然とした装いではなく、以前よりずっと自然に着こなせるようになった市井風の服装だった。あの不器用な変装から数ヶ月、随分と板についてきている。
「叔父様、こんなに早く」
「書状を読んで、すぐに来た」
バルドゥールは工房の中を一瞥し、椅子に腰を下ろした。エレノアはお茶を淹れながら、改めて経緯を説明した。空き店舗の不審な様子、行商人が置いていった香木、カイの証言、そしてノアの目撃談。
バルドゥールは黙って聞いていたが、話が進むにつれ、その表情が徐々に険しくなっていった。
「その香木、見せてくれ」
エレノアは棚の奥から包みを取り出し、作業台に置いた。バルドゥールは慎重に紙を開き、中の香木に鼻を近づけた。
「……確かに、東方産のものだな」
「叔父様にも、心当たりが?」
「グレゴールの一件の後、ヴァルター伯爵家の残党や、密輸に関わっていた者たちの動きは、王宮でも継続して監視されている。だが、完全に根絶やしにできたわけではない」
バルドゥールは香木を丁寧に包み直しながら、静かに続けた。
「一部の者は、罰を免れて姿を消した。あるいは、別の名を名乗り、別の場所で、同じような商いを続けている可能性もある」
カイが、少し離れた場所から静かに口を挟んだ。
「グレゴール様の組織は、一枚岩じゃなかった。俺みたいな下っ端は、上の全部を知ってるわけじゃない。だから、まだ動いてる連中がいても、おかしくない」
バルドゥールはカイの方を見て、小さく頷いた。
「その通りだ。カイ、お前の証言は貴重だ。今後も、何か気づいたことがあれば、遠慮なく言ってほしい」
カイは少し驚いたような顔をしたが、やがて小さく頷いた。バルドゥールがカイに対して、こうして直接、意見を求めるようになったこと自体が、この数ヶ月での変化を物語っていた。
「叔父様、あの空き店舗については、どうすればよいでしょうか」
エレノアが尋ねると、バルドゥールはしばらく考え込んだ。
「踏み込むには材料が足りない。子供の目撃談と、行商人が置いていった品だけでは、正式な捜査も動かせない」
「では」
「もう少し、様子を見る必要がある。ただし——」
バルドゥールはエレノアをまっすぐに見た。
「お前たちは近づくな。もし何か動きがあれば、必ず私か、殿下の耳に入れるため近衛の者に伝えろ」
「分かりました」
「それと、あの行商人だ。次に工房を訪れたら、決して一人では対応するな」
エレノアは頷きながらも、内心では少し複雑な思いを抱いていた。あの行商人の、人懐こい笑みと飄々とした話し方。もし本当に何か企みを持っているのだとしても、まだ確証はない。しかし、これまでの経験が、警戒を怠るなと告げていた。
「近衛の見回りを、この辺りにも増やしてもらおう」
バルドゥールは立ち上がりながら言った。
「目立たない形でだ。以前のように、露骨な監視は逆効果になりかねない」
「ありがとうございます、叔父様」
バルドゥールは頷き、扉へ向かいかけたが、途中で足を止めた。
「そういえば」
「何でしょうか」
「殿下が、近々、南区の視察を検討されているそうだ」
エレノアの心臓が、小さく跳ねた。
「殿下が……こちらに?」
「まだ確定ではない。だが、大宴の一件以来、南区の治安については殿下自身も関心を持たれている。それに——」
バルドゥールは、珍しく口元をわずかに緩めた。
「お前の様子を、直接確かめたいという理由もあるのかもしれんな」
「叔父様」
エレノアが咎めるように言うと、バルドゥールは素知らぬ顔で肩をすくめた。
「私は事実を述べているにすぎん」
それだけ言い残し、彼は工房を後にした。
一人残されたエレノアは、しばらく落ち着かない気持ちで、棚の整理を続けた。ラインハルトが南区を訪れるかもしれない——その可能性が、胸の奥に、小さくも確かな波紋を広げていた。
工房を開いてから、ラインハルトとは一度も顔を合わせていない。あの日、「香りをまた嗅ぎに行ってもいいか」と問われて以来、彼からの言葉は、すべてバルドゥールや近衛を通じたものばかりだった。
(もし本当にいらっしゃるなら)
エレノアは棚の奥、母の形見の香水瓶に視線をやった。あの頃と変わらず、淡い黄金色の液体が、静かに揺れている。
「エレノア、何か手伝うことは」
カイの声に、エレノアは我に返った。
「あ……ごめんなさい、少しぼんやりしていたわ」
「珍しいな」
カイは短くそう言うと、また作業に戻った。その素っ気ない態度の中に、以前よりずっと自然な親しみが感じられるようになっていた。
夕方、リリアとソフィーが揃って顔を出した。バルドゥールの訪問のことを話すと、リリアは目を輝かせた。
「殿下がこっちにいらっしゃるかもしれないの!? それは大変じゃない!」
「まだ確定した話ではないのよ」
「でも、もし本当にいらっしゃったら……」
リリアは何か言いかけて、エレノアの表情を見て、にやりと笑った。
「エレノア、もうそわそわしてる?」
「そんなことないわ」
エレノアは努めて平静を装ったが、リリアはからかうような視線を向け続けた。ソフィーも、控えめながら微笑んでいる。
「まあ、もしいらっしゃるなら、それはそれで……身なりくらいは、整えておいた方がいいかもしれないけれど」
エレノアがぼそりと付け加えると、リリアが待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「ほら、やっぱり気にしてるんじゃない!」
「そういう意味じゃなくて」
「いいのいいの、否定しなくて。私たちがちゃんと、似合うドレス見繕ってあげるから」
「ドレスなんて、必要ないわよ」
エレノアが慌てて首を振ると、ソフィーがくすりと笑い声を漏らした。
「エレノアさんの、そういう慌てた顔、久しぶりに見た気がします」
「ちょっと、二人とも……」
エレノアは苦笑しながら、それ以上の反論を諦めた。工房の中に、しばらく穏やかな笑い声が響いていた。




