第93話 少年ノアの目撃談
「知っている、って……」
エレノアはカイの表情を見つめながら、静かに問い返した。カイは包みを手にしたまま、しばらく黙り込んでいた。
「……昔、グレゴール様の元にいた頃。似たような香りを嗅いだことがある」
その名前が出た瞬間、工房の空気が、わずかに張り詰めた。
「詳しく教えてもらえる?」
エレノアが静かに促すと、カイは記憶を辿るように、視線を宙に彷徨わせた。
「密偵の連絡に使う、目印の匂いだ。特定の香を焚いた場所に、仲間だけが分かる合図を残す。……グレゴール様の組織で、よく使われていたやり方だ」
「では、この香木も、その目印の一種だと?」
「断定はできない。でも、似ている。」
エレノアは棚から包みを取り出し、もう一度丁寧に眺めた。行商人が置いていった、あの人懐こい笑顔と共に。
(あの人も、ただの行商人ではないのかもしれないわね)
しかし、まだ確証と呼べるものは何もなかった。カイの記憶と、微かに似ている、というだけでは、誰かに訴え出るには弱すぎる。エレノアは静かに包みを丁寧に紙で包み直し、棚の奥深くにしまった。
「叔父様に、一度お伝えしておくべきかしら」
「……止めはしない。でも、まだ何も起きてない」
カイの言葉に、エレノアは頷いた。確かに、今のところは、ただの偶然かもしれない可能性の方が高い。過剰に騒ぎ立てれば、かえって周囲を不安にさせるだけだ。
「もう少し、様子を見ましょう。もし次に、あの行商人が来たら、それとなく話を聞いてみるわ」
「一人では会うな」
カイの声には、これまでにない強さがあった。エレノアは少し驚きながらも、素直に頷いた。
「分かったわ。約束する」
その日の午後、工房の外が、いつもと違う賑やかさに包まれた。
「エレノアさん! エレノアさん!」
甲高い声とともに、小さな影が扉から飛び込んできた。パン屋の息子、ノアだった。十歳になったばかりの少年で、いつも工房の前を駆け回っては、時折こうして遊びに来る。
「ノア、そんなに慌ててどうしたの」
「あのね、あのね! すごいもの見たんだ!」
ノアは興奮気味に、両手をぶんぶんと振り回した。
「昨日の夜、僕、お父さんの手伝いで遅くまで起きてたんだけどね! あの、誰も入らないお店の前で、変な人を見たんだ!」
エレノアの手が、思わず止まった。
「変な人、というのは」
「黒っぽい服着てて、顔もよく見えなかったけど……荷物運んでるみたいだった。でも、こそこそしてて、なんか怖かったんだ」
ノアは少し声を落とした。
「僕が見てるのに気づいたら、すごい早さで逃げてった。まるで、見られちゃいけないものを見られたみたいに」
エレノアは静かに、しかし注意深く聞き入った。子供の目撃談だけに、多少の誇張はあるかもしれない。しかし、リリアの噂話と、カイの証言、そして今のノアの話——三つの断片が、少しずつ同じ場所を指し示し始めていた。
「ノア、その人の姿、他に何か覚えていることはある? 背の高さとか、歩き方とか」
「えっとね……背は、そんなに高くなかったと思う。でも、荷物すごい軽々持ち上げてた。力持ちなのかも」
「それは、いつ頃のこと?」
「真夜中くらい。お父さんが、そろそろ寝なさいって言った後だったから」
エレノアは静かに頷き、ノアの頭を優しく撫でた。
「教えてくれてありがとう、ノア。でも、これからは、遅い時間まで起きていないようにね。危ないことに巻き込まれたら大変だから」
「うん! でも、僕、また何か見たら教えるね!」
ノアは元気よく答えると、また外へと駆け出していった。その後ろ姿を見送りながら、カイがぼそりと呟いた。
「あの子……危ないんじゃないか」
「そうね。少し心配だわ」
エレノアは静かに考えを巡らせた。もしあの空き店舗に本当に何か不穏なものが隠されているなら、無邪気に近づく子供たちが、思わぬ危険に巻き込まれる可能性もある。
(叔父様に、報告した方が良さそうね)
これまでは、ただの噂話や偶然の一致として片付けてきた。しかし三つの証言が重なった今、もう見過ごせる段階ではないと、エレノアは静かに判断した。
夕方、エレノアは短い書状をしたためた。バルドゥールへ宛てたもので、これまでの経緯——空き店舗の不審な様子、行商人が置いていった香木、カイの証言、そしてノアの目撃談——を、簡潔にまとめたものだった。
書状を近所の使いの子供に託しながら、エレノアはふと、工房の窓の外に視線をやった。
夕暮れの南区は、いつもと変わらぬ穏やかさで、行商人や職人たちが家路を急いでいる。しかしその平和な光景の中に、確かに何かが潜んでいるかもしれないという予感が、静かにエレノアの胸の中で膨らみ始めていた。
「カイ、今夜からしばらく、戸締りは念入りにしましょう」
「分かってる」
カイは短く答えながらも、その目には、以前のような怯えではなく、静かな警戒の色が浮かんでいた。もう、ただ守られるだけの存在ではない。この工房を、自分の意志で守ろうとしている――その変化を、エレノアは頼もしく感じた。
まだ何も確かなことは分からない。しかし、小さな灯火のようなこの工房に、少しずつ、影が近づいているのかもしれなかった。




