第92話 靴職人の記憶
朝露がまだ石畳に残る時刻、エレノアは薬草の束を抱えて工房を出た。少し先の通りを曲がった先にある靴屋まで、朝のうちに届け物をするためだった。
南区の朝は、いつも活気に満ちている。パン屋の店先には焼きたての匂いが漂い、荷馬車が石畳を軋ませながら行き交う。エレノアはその喧騒の中を、慣れた足取りで進んでいった。
通りを二つほど過ぎたところに、小さな靴屋があった。軒先には、修理待ちの古い靴がいくつも並べられている。店先で黙々と革を叩いていた老人が、エレノアの気配に気づいて顔を上げた。
「おはようございます、ヨーゼフさん」
白髪交じりの髪、深く刻まれた皺。しかし手だけは、若者にも負けない確かな力強さで動き続けている。ヨーゼフという名のこの靴職人は、口数の少ない、寡黙な人物だった。
「……おはよう」
短い返事だったが、エレノアはもう慣れていた。初めてヨーゼフが工房を訪れたのは、亡き妻の愛用していた香りを再現してほしい、という依頼がきっかけだった。あれから数ヶ月、月に一、二度、こうして香油を届けるついでに、少しずつ言葉を交わす仲になっている。
「例の香油、まだ足りていますか」
「……いや、もうそろそろ切れる」
「では、午後にでもお持ちしますね」
ヨーゼフは小さく頷き、また手元の作業に戻った。エレノアはそれ以上長居せず、静かにその場を後にした。
工房に戻ると、カイがすでに乾燥棚の整理を終えていた。薬草の束を丁寧に吊るし、順番を整えていく手つきは、この一月ですっかり板についていた。
「早いのね」
「……眠れなかっただけだ」
「そう」
エレノアは深く聞かなかった。カイが時折、夜眠れない夜を過ごしていることは知っていたが、それを無理に問い詰めるつもりはなかった。過去は、本人が話したい時に話せばいい。それが、この一月で自然と身についた、二人の距離感だった。
昼前、リリアがまた顔を出した。今日は非番らしく、いつもより軽やかな足取りだった。手には、焼き菓子の包みを提げている。
「エレノア、聞いて。あの空き店舗のことなんだけど」
「ああ、例の」
「昨日の夜、また荷物が運び込まれてたんだって。近所の人が見たらしいんだけど、木箱がいくつもあったって」
エレノアは作業の手を止め、リリアの方を見た。
「何のお店になるのかしら」
「分かんない。看板も出てないし、誰も店主の顔を見たことがないんだって。近所の奥さん連中も、みんな噂してるよ」
リリアは声を潜め、いたずらっぽく続けた。
「なんだか、ちょっと薄気味悪くない?」
エレノアは静かに息を吐き、努めて軽い調子で答えた。
「新しい商売を始める人が、最初は静かに準備を進めるのは、珍しいことではないと思うわ」
「そうなんだけどさぁ……」
リリアは納得しきらない様子だったが、それ以上は追及せず、話題を変えた。エレノアもまた、あえて深く考えないようにしていた。しかし棚の奥にしまった、あの行商人からもらった香木の包みが、ふと頭をよぎった。
(あれと、関係があるのかしら)
考えても、今は答えが出ない。王宮での日々で培われた勘が、静かに何かを告げているような気もしたが、確証は何もなかった。エレノアは静かにその思考を脇へ置き、午後の仕事に取り掛かった。
午後、エレノアはヨーゼフへ届ける香油を用意し、再び通りへと出た。夏の名残の日差しが、石畳を白く照らしている。
「お待たせしました」
小瓶を差し出すと、ヨーゼフは受け取り、しばらくそれを見つめていた。
「……すまないね、いつも」
「いいえ。喜んでいただけると、私も嬉しいです」
ヨーゼフは瓶の蓋を開け、静かに目を閉じた。
「この香り……嗅ぐたびに、思い出す」
「奥様のことですか」
ヨーゼフは小さく頷いた。
「結婚して三十年、毎朝この香りをつけて出かける女だった。朝の身支度の音、鏡の前で髪を整える音……そういうものと一緒に、いつもこの匂いがあった」
彼は瓶を大切そうに両手で包み込んだ。
「今でも、朝になると、この匂いがしないことに、驚く時がある」
エレノアは静かに耳を傾けた。ヨーゼフがこれほど長く話すのは珍しかった。
「あなたの母君も、調香師だったと聞いた」
「はい。母から、色々なことを教わりました」
「良い仕事だ」
ヨーゼフは、ぽつりと呟いた。
「……人の記憶を、香りで留めておける」
それだけ言うと、彼はまた作業台に向き直った。エレノアは深く頭を下げ、静かに店を後にした。
工房に戻る道すがら、エレノアは胸の中で、ヨーゼフの言葉を何度も反芻していた。
(人の記憶を、香りで留めておける)
それは、母がずっと大切にしていたことでもあった。誰かのために、誰かの想いを閉じ込めるために、香りを作る。王宮という華やかな場所ではなく、こうした市井の小さな靴屋で、誰かの人生の記憶に寄り添う。それもまた、母の願っていた形の一つだったのかもしれない。
工房に戻ると、カイが表の掃除をしていた。
「おかえり」
その一言に、エレノアは少し驚いた。カイからそう声をかけられるのは、初めてだった。
「ただいま、カイ」
エレノアが微笑むと、カイは気まずそうに視線を逸らし、また掃除に戻った。しかしその横顔には、以前にはなかった、微かな柔らかさがあった。
夕方近く、工房の窓の外を、見覚えのある人影が通り過ぎた。
昨日の行商人だった。今日は工房には立ち寄らず、向かいの通りの奥、あの空き店舗の方角へと、ゆっくりと歩いていく。
エレノアはその後ろ姿を、しばらく見つめていた。
(気のせい、かしら)
行商人は、空き店舗の前で一瞬立ち止まったように見えた。しかしすぐに、何事もなかったかのように歩き去っていった。
エレノアは棚の奥の香木の包みに、もう一度視線をやった。この匂い、どこかで嗅いだことがある——その引っかかりが、まだ解けないままだった。
「カイ」
「何だ」
「この匂い、あなたも嗅いでみてくれる?」
カイは怪訝そうな顔をしながらも、エレノアの差し出した包みに鼻を近づけた。
しばらく沈黙が続いた後、カイの表情が、静かに強張った。
「……この匂い、知ってる」




