第91話 名残の風、東の香り
第二章「南区の調香師」をお読みいただきありがとうございました!
第三章では、舞台を市井の暮らしへと移し、工房に集う人々との日常を中心に描いていきます。
穏やかな日々の中にも、市井ならではの小さな謎や事件が顔を覗かせ、そしてその向こうには、まだ見えぬ影も——。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
夏の名残がまだ残る朝、南区の空気には、それでもどこか涼やかな気配が混じり始めていた。
エレノアは工房の扉を開け放ち、蒸留したばかりのベルガモットの香りを外へと逃がした。夜の間にこもった熱気が、朝の風とともにゆっくりと入れ替わっていく。
「今日もいい香りだねぇ」
軒先を掃いていると、隣の香辛料問屋から、恰幅の良い女将がひょっこりと顔を出した。マルタだった。四十代半ば、日に焼けた顔にいつも快活な笑みを浮かべている、南区でも指折りの世話焼きだ。
「おはようございます、マルタさん」
「聞いておくれよ、エレノアさん。うちの旦那ったら、また虫除けの香油を切らしたって騒いでねぇ。あんたの香油がないと、夜も眠れないってさ」
「まあ、それは光栄です。今日の午後にはお渡しできますよ」
「助かるよ。あんたのおかげで、うちの店は虫食いの被害がめっきり減ったんだ。お礼に、これ持っていきな」
マルタは前掛けの中から、乾燥させた生姜の束を差し出した。
「風邪の季節になる前に、体を温めておくといいよ。若いうちから無理して倒れちゃ元も子もないからね」
「ありがとうございます、いただきます」
エレノアは礼を言いながら受け取った。王宮では決して交わされることのなかった、こうした何気ないやり取りが、今のエレノアにはたまらなく心地よかった。
マルタが店に戻っていくのと入れ違いに、工房の奥から、大きな水瓶を抱えたカイが姿を現した。
「どこに置けばいい」
「作業台の横にお願い。ありがとう、カイ」
カイは無言で頷き、重い水瓶を危なげなく運んでいった。この一月ほどで、体つきにも随分と生気が戻ってきている。以前の、常に何かに怯えているような硬さは薄れ、今では工房の中で自然に動けるようになっていた。
それでも、人と話すことにはまだぎこちなさが残っている。特に、見知らぬ客が来た時などは、無意識に距離を取ってしまう癖があった。
「カイ、今日の分の薬草、乾燥棚に並べてもらえる?」
「……ああ」
短い返事だったが、以前のような刺々しさはもうない。エレノアはそれを、静かな成長として見守っていた。
昼前、扉の鈴が軽やかに鳴った。
「エレノアさーん、いるー?」
顔を出したのは、仕立て屋の娘、クララだった。エレノアより二つ年下、明るい茶色の巻き毛を揺らしながら、いつも元気よく飛び込んでくる。
「クララ、いらっしゃい。今日はお使い?」
「違う違う、これ見てほしくて!」
クララは布に包んだ何かを取り出し、作業台の上に広げた。淡い水色の、上品なレースがあしらわれた布地だった。
「新しく仕入れた生地なんだけど、これに合う香りってどんなのがいいと思う? 今度、お店の宣伝用に、香り付きのハンカチを作ろうと思ってて」
エレノアは布地に鼻を近づけ、しばらく考えた。
「そうね……この爽やかな水色の印象に合わせるなら、ベルガモットとリネンウォーターの組み合わせがいいかもしれないわ。清潔感があって、夏の終わりにもぴったりよ」
「さすがエレノアさん! やっぱり相談してよかった」
クララは目を輝かせながら、早速メモを取り始めた。その明るいやり取りを、カイが少し離れた場所から、静かに眺めていた。
「カイも、こういう会話に混ざればいいのに」
クララが振り返ってそう言うと、カイは一瞬たじろぎ、視線を逸らした。
「……別に、いい」
「もう、そんなこと言って。エレノアさんの助手なんでしょ? もっと愛想よくしなさいよ」
クララは物怖じせずにカイに話しかける、数少ない人物の一人だった。カイは居心地悪そうにしながらも、以前のように完全に心を閉ざすことはなく、ぼそぼそと短い返事を返していた。
エレノアはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
(少しずつ……変わってきているわね)
昼過ぎ、リリアが休みを利用して顔を出した。手には焼き菓子の包みを提げている。
「エレノア、聞いて! 近所で面白い噂があるの」
「噂?」
「うん。仕立て屋の向かいの空き店舗、最近誰かが借りたみたいなんだけど、まだ何の店か分からないんだって。夜な夜な荷物だけ運び込まれてるみたいで」
エレノアは手を止め、リリアを見た。
「夜な夜な……何かの準備をしているのかしら」
「さあ。でも、なんだかワクワクしない? 新しいお店ができるのかもよ!」
リリアは無邪気に笑ったが、エレノアの中では、かすかな引っかかりが残った。王宮での日々で培われた勘が、静かに何かを告げているような気がした。
(考えすぎかもしれないけれど……)
しかし今は、それ以上深く考える材料もなかった。エレノアは軽く頭を振り、目の前の仕事に意識を戻した。
午後、工房の扉が再び開いた。今度は、見知らぬ中年の男だった。飄々とした足取りで入ってくると、人懐こい笑みを浮かべた。
「こちらが南区で評判の調香工房ですかい? いやぁ、近くを回っていて、いい香りに誘われましてね」
少し訛りのある喋り方だった。エレノアは笑顔で応対した。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
「いや、実はわしは行商人でしてね。あちこちを回って、珍しい品を売り買いしているんですが……ここいらで一番、腕のいい調香師がいると聞きましてね。名刺代わりに、これを」
男は懐から、小さな香料の包みを取り出し、作業台の上に置いた。
「東の方から仕入れた品でして。よかったら試してみてくれませんか。また今度、通りかかったら寄らせてもらいますよて」
男はそう言うと、飄々とした様子のまま、そのまま工房を後にした。
エレノアは、置かれた包みをしばらく見つめた。
開いてみると、乾いた香木の欠片が入っている。鼻を近づけると、どこか懐かしさを感じる、しかし微かに、覚えのある異国の匂いが混じっていた。
(この匂い……)
どこかで嗅いだことがある気がした。しかし、はっきりとは思い出せない。エレノアはその包みを丁寧に棚の奥にしまい、静かに息を吐いた。
夕暮れが近づく頃、工房には再び穏やかな静けさが戻っていた。マルタとのやり取り、クララの明るい相談、リリアが持ってきた小さな噂、そして名も知らぬ行商人の忘れ物のような香料。
どれも、ささやかな日常の一コマに過ぎなかった。
しかしエレノアは、棚の奥にしまった香木の包みに、もう一度視線をやった。
(何でもないと、いいのだけれど)
窓の外、南区の夕暮れが、いつもと変わらぬ穏やかさで、静かに工房を包み込んでいた。




