第90話 工房に戻る日々
工房の扉に掛けられていた「臨時休業」の札を外した朝、エレノアは久しぶりに、心の底から晴れやかな気持ちで空を見上げた。
夏も終わりに近づき、朝の風にはわずかに涼しさが混じり始めている。南区の石畳を、行商人の荷車が音を立てて通り過ぎていく。パンの焼ける匂い、朝市の喧騒――何も変わらない、いつもの南区の朝だった。
「エレノアーー!!」
その声と共に、勢いよく扉が開いた。リリアだった。後ろからはソフィーも、少し急ぎ足でついてくる。
「本当に、本当に大丈夫だったのね!」
リリアはエレノアに飛びつくようにして抱きついた。エレノアもその温かさを、しっかりと受け止めた。
「心配をかけてごめんなさい。でももう、大丈夫よ」
「もう……! どれだけ心配したか」
リリアは涙目になりながら、それでも笑っていた。ソフィーも静かに目元を拭いながら、微笑んでいた。
「今日は復帰祝いも兼ねているので、何か作ってもらいたいのですが。」
ソフィーが控えめに言った。
「もちろんよ、何がいいかしら」
「エレノアの、一番好きな香りがいいな」
リリアが言うと、ソフィーも頷いた。エレノアは棚から、ダマスクローズとサンダルウッド、そしてほんのわずかな苦いアーモンドを取り出した。母の「影の香り」――今の自分にとって、何より大切な調合だった。
小さな瓶に注がれた淡い黄金色の液体を、リリアとソフィーは、大切そうに受け取った。
「これからも、よろしくね、エレノア」
「ええ、こちらこそ」
三人は、しばらく他愛のない話をしながら、久しぶりの穏やかな時間を過ごした。
昼過ぎ、工房の外が、いつになく賑やかになった。ガスパール、ルーカス、ディートリヒ、オスカーの四人が、揃って顔を出したのだ。
「ようやく、普通に来られるようになったな」
ガスパールが、いつもの明るい笑顔で言った。
「見張りだ潜入だって、疲れたぜ」
オスカーが大袈裟に肩を回しながら言うと、ディートリヒが低く笑った。
「文句を言うな。無事に終わったんだから、良しとしろ」
ルーカスは、いつも通り静かに微笑んでいた。
「エレノア、体は大丈夫か」
「はい、皆さんのおかげで」
四人はしばらく工房の中を見回し、以前と変わらぬ空気に、それぞれ安堵の表情を浮かべた。
「そういえば、あの見張りの時の恰好、思い出すと未だに笑える」
オスカーがふと言うと、ガスパールとディートリヒが同時に吹き出した。
「バルドゥール卿の、あの変装のことか」
「あれは傑作だったな」
四人は顔を見合わせて笑い、エレノアも思わず一緒になって笑った。あの緊迫した日々の中にも、確かに、こうした温かい瞬間があった。
「これからも、世話になる」
ガスパールが、少し照れくさそうに言った。
「香油の調合、他にもまた頼みたいことがあれば」
「もちろんです。いつでも」
四人が帰った後、夕方近くになって、バルドゥールが工房を訪れた。手には、いつものように、頼んでもいない木箱を抱えている。
「叔父様、また何か」
「乾燥棚だ。前のものより丈夫にできている」
バルドゥールは、無言で棚を設置し始めた。エレノアはその背中を見ながら、静かに声をかけた。
「叔父様」
「何だ」
「ありがとうございました。……色々と」
バルドゥールは手を止め、しばらく無言だった。やがて、振り返らずに、静かに言った。
「礼を言うようなことではない」
「いいえ」
エレノアは静かに、しかしはっきりと続けた。
「叔父様がいてくださったから、私はここまで来られました。母が、叔父様を信頼していた理由が、よく分かります」
バルドゥールは、ゆっくりと振り返った。灰色の瞳に、いつもとは違う、柔らかな光が宿っていた。
「マリアの娘を守る。それが、私の役目だ」
彼は一瞬、言葉を切った。
「だが……もう、それだけではなくなってきている。お前のことは、もう、義務ではなく」
彼はそこで言葉を止め、小さく咳払いをした。
「……まあ、いい。工房も無事で何よりだ」
エレノアは、思わず微笑んだ。不器用な人だ、と改めて思った。しかしその不器用さの奥にある温かさを、もう疑うことはなかった。
「叔父様、今度、お食事にでもいらしてください。何か作りますので」
「……考えておく」
バルドゥールは短く答え、乾燥棚の設置を再開した。
夕暮れ時、工房の外に、もう一つの人影があった。
カイだった。以前より少し健康的になった体つきで、しかし相変わらず口数の少ない様子で、工房の扉の前に立っていた。
「カイ?入ったら?」
エレノアが声をかけると、カイは少し戸惑ったように、扉をくぐった。
「本当に……ここにいても、いいのか」
「もちろんよ。約束したでしょう」
エレノアは静かに微笑んだ。
「あなたを、道具のままにはしないって」
カイは、しばらく無言だった。やがて、視線を落としながら、小さく言った。
「何を、すればいい」
「まずは、力仕事かしら。棚の運搬とか、薬草の乾燥とか」
「それくらいなら、できる」
「それに――」
エレノアは棚から、いくつかの香料瓶を取り出した。
「香りについても、少しずつ教えるわ。興味があれば」
カイの目に、初めて、はっきりとした興味の色が浮かんだ。
「……教えてくれるのか」
「もちろんよ。わたし、あなたにはその才能があると思うの」
カイは何も言わなかった。しかし、その表情には、これまで見たことのない、静かな安堵のようなものが浮かんでいた。
その日の夜、エレノアは一人、工房の作業台の前に座っていた。
母のノート、母の形見の香水瓶、そして胸元の護符。すべてが、今、静かにここにある。
(母様、父様。ようやく、日常が戻ってきました)
エレノアは棚を見回した。バルドゥールが持ち込んだ乾燥棚、リリアとソフィーが座った椅子、騎士四人が笑い合った作業台、そしてカイが初めて足を踏み入れた入り口。
すべてが、この小さな工房に、確かに刻まれていた。
窓の外、南区の夜が静かに更けていく。遠くから、酒場の賑やかな声が聞こえてくる。何も変わらない、しかし何よりも尊い、日常の音だった。
エレノアは蝋燭に火を灯し、母のノートを開いた。最後のページに、静かに、新しい一文を書き加えた。
『真実は、時に痛みを伴う。でも、それを知ってなお、前を向いて歩いていける強さを、私は今、確かに手に入れた』
ペンを置き、エレノアは窓の外の夜空を見上げた。
星々が、静かに瞬いている。事件は終わった。しかし、この工房での日々は、まだ、これからも続いていく。
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねながら、エレノアは静かに、明日への一歩を踏み出す準備を整えた。
――第二章 南区の調香師 完――
第二章完結しました。
市井に降りたのに結局王宮関連のいざこざに終始してしまいました。
第三章からは市井にフォーカスしてお話を進ませたいと思います。




