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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 南区の調香師

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第89話 忘却の霧、その行方

 翌日、王宮の一室で、グレゴールへの正式な尋問が行われた。


 エレノアは直接その場に立ち会うことは許されなかったが、夕刻にバルドゥールとラインハルトから、その内容を聞かされることになった。北の離れの一室に三人は集まり、重い沈黙の中、バルドゥールが静かに切り出した。


「グレゴールは、思いのほか素直に話した」


「素直に、ですか」


「もはや隠す意味がないと悟ったのだろう。あるいは……」


 バルドゥールは一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。


「最後まで、自分の計画の範囲内であるかのように立ち振る舞いたかったのかもしれない」


 エレノアは静かに息を飲んだ。


 ラインハルトが、手元の記録を見ながら続けた。


「『忘却の霧』の第二調合と第三調合について、グレゴールが証言した内容だ」


 エレノアは膝の上で、両手を強く握りしめた。


「エレノアの母君が完成させたのは、第一調合のみだった。それは、これまでに分かっていた通りだ。だが、グレゴールはそれだけでは満足しなかった」


 ラインハルトは静かに続けた。


「彼は、別の調香師に第二、第三の調合を作らせようとした。しかし、いずれも失敗に終わったそうだ。母君ほどの技術を持つ者が、他にはいなかったからだ」


「では、第二、第三の調合そのものは……」


「存在しない」


 バルドゥールが静かに答えた。


「グレゴールが持っていたのは、あくまで未完成の試作品だ。ハインリヒの作業室で見つかった黒い瓶の一つが、それに当たるようだ。効果は不安定で、実用に耐えるものではなかったらしい」


 エレノアは深く息を吐いた。ずっと胸の奥に重く沈んでいた不安の一つが、静かに解けていくのを感じた。母が完成させることのなかった、危険な調合。それが、これ以上誰かを傷つける形で世に出ることはない。


「母は……最後まで、拒み通したのですね」


「ああ」


 ラインハルトが頷いた。


「グレゴールは、母君を何度も脅した。娘を、家族を盾にして。それでも彼女は、第一調合の完成以外は、決して受け入れなかった」


 エレノアの目に、静かに涙が滲んだ。母がどれほどの重圧の中で、それでも一線を守り続けていたのか。その強さが、今になって、痛いほど胸に迫った。


「母の死因についても、何か関連が分かりましたか」


 エレノアが震える声で尋ねると、バルドゥールとラインハルトは、一瞬、視線を交わした。


「グレゴールは、直接手を下してはいないと証言している」


 バルドゥールが慎重に言葉を選びながら答えた。


「母君は、王宮を去った後、心労と過労が重なり、静かに体を壊していった。……グレゴールによる追い詰めが、間接的な原因であったことは、疑いようがない」


 エレノアは静かに目を閉じた。直接手を下されたわけではない。しかし、母の死が、グレゴールの脅迫と無縁でなかったことも、もはや明白だった。


「そう……ですか」


 エレノアは、静かにそれだけ言った。それ以上の言葉は、今は出てこなかった。


 しばらくの沈黙の後、ラインハルトが静かに口を開いた。


「グレゴールの証言、そしてこれまで積み上げてきた証拠――ヴォルフ公爵家との関与、東方屋、倉庫、内通者であったクルト。すべてが、正式な記録として残されることになる」


「お前の父君の借金についても、正式に、グレゴールとヴォルフ公爵家による意図的な策略であったと、記録されるだろう」


 バルドゥールが付け加えた。


「名誉の回復、ということにはなるだろう。すでに済んだことだが、少しでも、お前の心の慰めになれば」


 エレノアは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「グレゴールの処遇については、追って正式に決定される」


 ラインハルトが言った。


「重大な国家反逆の罪だ。極刑は免れない」


 その言葉に、エレノアは複雑な思いを抱いた。憎むべき相手であることは間違いない。しかし、対峙の際に見た、あの最後の言葉――「君の母君も、君のような娘を、誇りに思っていただろうな」――その響きが、なぜか今も、胸のどこかに残っていた。


「クルトさんは」


「情状酌量の余地ありとして、減刑の方向で検討している」


 ラインハルトが答えた。


「今後は、然るべき形で罪を償うことになるだろうが。捨てるには惜しい男だ」


 エレノアは静かに頷いた。すべてが、少しずつ、区切りをつけようとしていた。


「カイのことも、正式に決まった」


 バルドゥールが、少し柔らかい声で言った。


「罪には問わない。今後は、一旦監視付きではあるが、自由の身とする」


 エレノアの胸に、明るい光が差した。


「本当ですか」


「ああ。殿下が、直接お口添えをくださった」


 エレノアはラインハルトを見た。ラインハルトは、少し気まずそうに視線を逸らした。


「当然の措置だ。あの少年の情報がなければ、事件の解決は、もっと遅れていただろう」


「ありがとうございます、殿下」


「礼を言われるようなことではない」


 ラインハルトはそう言いながらも、その口調には、隠しきれない安堵が滲んでいた。


 その夜、エレノアは久しぶりに、心から穏やかな気持ちで、北の離れの寝台に横たわった。


 母の死の真相、父の借金の真実、そして「忘却の霧」の行方――すべてが、ようやく明らかになった。まだ悲しみは残っている。しかしそれは、もう、正体の分からない重苦しい影ではなく、確かな輪郭を持った、受け止めることのできる悲しみに変わっていた。


(母様、父様……ようやく、すべてが分かりました)


 エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。


(あなたたちは、最後まで、正しくあろうとしていたのですね)


 窓の外、夏の夜空に、静かな月が浮かんでいる。工房に戻れる日も、もうすぐそこまで来ていた。


 エレノアはゆっくりと目を閉じ、久しぶりに、深く安らかな眠りに落ちていった。

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