第88話 内通者
グレゴールを確保したその夜のうちに、バルドゥールとエレノアは王宮へと急いだ。
夜更けの王都を走る馬車の中、エレノアは震える手で、グレゴールが最後に投げ渡した紙を握りしめていた。窓の外を流れる暗い街並みを見つめながら、頭の中では、先ほどの対峙の一部始終が、何度も繰り返し蘇っていた。
「叔父様」
エレノアは静かに口を開いた。
「あの人が、最後に紙を渡してきたのは……何を考えてのことだったのでしょうか」
バルドゥールはしばらく黙っていたが、やがて低く答えた。
「分からない。だが、あの男は最後まで、余裕を崩さなかった。もしかすると、これも計算のうちなのかもしれない」
「計算……」
「捕らえられることを見越して、あえて内通者の情報を渡した。そうすることで、王宮内部に混乱を生じさせ、次の一手への布石にする――そういう可能性も、頭に入れておく必要がある」
エレノアは息を飲んだ。グレゴールという男の底知れなさが、改めて胸に迫った。
夜更けにもかかわらず、王宮に着くと、ラインハルトはすぐに二人を迎え入れた。執務室の灯りは、まだ煌々と点いている。彼もまた、この件のために眠らず待っていたのだろう。
エレノアが差し出した紙を一読した瞬間、ラインハルトの表情が、これまでになく険しくなった。
「この名は……」
「殿下、ご存知の方ですか」
「ああ。警備編成を担当する、文官の一人だ」
ラインハルトは紙を握りしめ、低く唸った。
「クルト・ヴァイス。真面目で、目立たない男だ。……三年前から、私の下で働いている。まさか、この男が」
バルドゥールが静かに口を開いた。
「グレゴールが最後に自ら手渡した紙です。罠の可能性も否定できません」
「分かっている。だが、無視はできない」
ラインハルトは眉間に深い皺を刻んだまま、しばらく黙り込んだ。窓の外、夜の王宮が静かに広がっている。やがて彼は、静かに、しかし迷いのない声で言った。
「すぐに動く。ただし、慎重にだ」
ラインハルトはすぐに近衛の隊長を呼び出し、静かに、しかし迅速に指示を出した。クルトという文官の身柄を、明朝、目立たぬ形で確保するようにと。周囲には気取られぬよう、通常の業務を装いながら接触することも、細かく指示された。
「エレノア」
指示を終えたラインハルトが、エレノアに向き直った。
「今夜は、もう休め。長い夜になったな」
「はい……ありがとうございます」
エレノアは深く頭を下げ、バルドゥールと共に執務室を辞した。北の離れに戻る道すがら、緊張の糸が緩んだせいか、急激な疲労がエレノアの体を襲った。それでも、頭の中では、まだ様々な考えが渦巻いていて、なかなか眠りにつくことができなかった。
翌朝、エレノアは北の離れで、結果を待っていた。窓辺に座り、朝の光を眺めながら、これまでの記録を改めて見返す。松脂の痕跡、灰の中の文字、傷薬の香り――すべてが、この一つの真実へと繋がっていた。
昼過ぎ、バルドゥールが疲れた表情で訪れた。目の下には濃い隈ができている。おそらく、一睡もしていないのだろう。
「クルトは、確保した。取り調べで、すべてを話し始めているようだ」
「やはり、彼が」
エレノアは静かに頷いた。バルドゥールは椅子に深く腰を下ろし、静かに続けた。
「三年前から、グレゴールに弱みを握られていたそうだ。賭博の借金だと」
「賭博……」
「最初は些細な情報を渡すだけだった。警備の巡回時間、休憩の隙間。それが徐々にエスカレートし、気づけば抜け出せなくなっていったらしい」
バルドゥールは、疲れたように目頭を押さえた。
「本人は、涙ながらに後悔していたそうだ。もう後戻りできないと分かっていながら、家族を人質に取られたような恐怖もあり、最後まで告白できずにいたと」
エレノアは静かに息を吐いた。弱みに付け込み、じわじわと人を追い詰めていく――それは、まさに父と母がされてきたことと同じ手口だった。一人の人間の弱さと恐怖を利用し、少しずつ蝕んでいく。グレゴールという男のやり口は、これほどまでに一貫しているのかと、改めて薄ら寒いものを感じた。
「グレゴールの目的は、何だったのでしょうか」
「王家への報復、というのが、大きな理由のようだ」
バルドゥールは低く続けた。
「ヴァルター伯爵家は、大宴の一件で完全に失脚した。グレゴールにとっては、一族の再興どころか、生き延びる道すら塞がれた状態だった」
「それで、王宮に危害を」
「クルトを通じて得た警備の隙を突き、隣国の間諜たちを王宮内に引き入れる計画だったようだ。目的は、暗殺、あるいは重要書類の奪取。まだ詳細な計画までは、聞き出せていないが」
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。もし囮作戦がなければ、もしグレゴールの動きに気づけなければ――その計画は、静かに実行されていたのかもしれない。ラインハルトの命が、あるいは国の重要な機密が、今頃どうなっていたか分からない。
「叔父様、一つ伺いたいことがあります」
エレノアは静かに切り出した。
「あれほど用心深かったグレゴールが、なぜ最後は自ら姿を現したのでしょうか。あのまま逃げ続けることも、できたはずです」
バルドゥールはしばらく考え込んだ後、静かに答えた。
「クルトの取り調べで、その理由の一端が見えてきた」
「教えてください」
「グレゴールは、東方屋と倉庫が露見した時点で、すでに計画の失敗を悟っていたそうだ。編成表の情報も、クルトから最後の分を受け取った直後だった。つまり――」
バルドゥールは一度言葉を切った。
「もう、後がなかった。これ以上潜伏を続けても、包囲網は狭まるばかり。ならばいっそ、最大の脅威である君と直接対峙し、こちらの動きを見極めた上で、次善の一手を打とうと考えたのだろう」
「次善の一手……それが、クルトの名を明かすこと」
「ああ。捕らえられることをすでに織り込んだ上で、あえて内通者の存在を暴露した。王宮内に混乱を生じさせ、こちらの手を煩わせる。あるいは、まだ他にも協力者がいることを、暗に示す意図もあったのかもしれない」
エレノアは静かに息を吐いた。
「最後まで、何か企んでいたということですね」
「それだけではない」
バルドゥールは、少し声を落とした。
「これは、私の推測に過ぎないが……あの男は、君に会いたかったのではないか、とも思う」
「私に?」
「マリアが最後まで屈しなかった、その娘がどんな人間なのか。自分の計画を崩した相手の正体を、自らの目で確かめたかった。用心深い男だからこそ、最後の最後で、そういう人間らしい執着を見せたのかもしれない」
エレノアは、対峙の際に見たグレゴールの瞳を思い出した。「賢しい娘だ」という、あの言葉。あれは単なる皮肉だけではなく、どこか、真実を見透かされたことへの、隠しきれない驚きも含まれていたように思えた。
「もし本当にそうだとしたら……あの人にも、最後まで消えなかった何かがあったのかもしれません」
「同情する必要はない」
バルドゥールの声が、いつになく硬くなった。
「あの男が、どれほどの人間を追い詰め、傷つけてきたか。忘れるな」
「分かっています」
エレノアは静かに頷いた。しかし胸の奥には、割り切れない複雑な思いが、静かに残り続けていた。
「クルトさんは、これから」
「王命による裁きを受けることになる。ただ……」
バルドゥールは、珍しく言葉を濁した。
「彼自身も、被害者の一人と言えなくもない。情状酌量の余地はあるだろう」
エレノアは何も言わなかった。ただ、弱みに付け込まれ、少しずつ引きずり込まれていった一人の男の姿に、複雑な思いを抱いた。もしかしたら、あの東方屋の女将のように、悪意すら持たないまま、ただ利用されただけの人間が、この件には何人も存在するのかもしれない。
「叔父様、カイのことも……」
「案じている、と伝えたい訳か」
バルドゥールは、わずかに口元を緩めた。
「案ずるな。カイの処遇についても、殿下が動いてくださっている。少なくとも、罪人としては扱わない方向で調整が進むだろう」
「よかった……」
エレノアは、胸の奥から安堵の息を漏らした。
その日の夕方、エレノアはラインハルトに呼ばれた。
執務室に入ると、ラインハルトは窓辺に立ち、静かに外を見ていた。夕暮れの光が、彼の黒髪と横顔を橙色に染めている。その姿は、いつもより少しだけ、疲労の色を帯びているように見えた。
「クルトの件は、聞いたか」
「はい、叔父様から」
「グレゴールの計画は、未然に防げた。すべて、お前とカイのおかげだ」
ラインハルトは振り返り、エレノアをまっすぐに見た。
「殿下……」
「今回の件、正式な報告として王に上げる。お前の功績は、正当に評価されるだろう」
エレノアは静かに首を振った。
「私一人の功績ではありません。叔父様、騎士の皆さん、そして――カイの協力がなければ、ここまで辿り着けませんでした」
「分かっている」
ラインハルトは頷いた。
「カイについても、然るべき処遇は考えている。少なくとも、罪人としてではない」
「ありがとうございます」
ラインハルトはしばらく沈黙した後、静かに続けた。
「グレゴールは、明日、正式な尋問にかけられる。お前の母君のこと、父君のことについても、詳しく聞き出すつもりだ」
エレノアの胸が、静かに震えた。
「すべての真実が、明らかになるのですね」
「ああ」
ラインハルトは静かに頷いた。
「お前が、ずっと追い求めてきたものだ」
エレノアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、殿下」
「頭を上げろ」
ラインハルトの声に、エレノアはゆっくりと顔を上げた。彼はしばらく、何かを言いあぐねるような表情を浮かべていた。やがて、静かに口を開いた。
「囮になると言った時、私は反対したな。……それはお前を危険にさらすことに、耐えられなかったからだ」
「殿下……」
「だが、結果として、お前の判断は正しかったよ。お前がいなければ、この国は、静かに蝕まれていたかもしれない」
ラインハルトは一度、言葉を切った。
「私は、王太子として、正しい判断をお前に強いなければならない立場にある。だが今夜だけは……一人の人間として、お前に礼を言いたい」
その言葉に、エレノアの胸が、じんわりと熱くなった。
「ありがとうございます、殿下」
エレノアが静かに答えると、ラインハルトの口元に、ほんのわずかな、柔らかい笑みが浮かんだ。
執務室を辞す間際、ラインハルトが静かに声をかけた。
「エレノア」
「はい」
「工房は、明日から、正式に通常営業に戻せる。警備の強化は、しばらく続けるが」
その言葉に、エレノアの胸に、じんわりとした温かさが広がった。
「ありがとうございます」
「無事に終わって、何よりだった」
ラインハルトの声には、いつもの事務的な硬さの中に、隠しきれない安堵が滲んでいた。
北の離れに戻る道すがら、エレノアは夜空を見上げた。星々が、いつもより輝いて見える気がした。
グレゴールの拘束、内通者クルトの発覚、そして計画の阻止。これまで積み重ねてきたものが、ようやく一つの形になった。工房での穏やかな日々を守るために始まった小さな調査が、ここまで大きな結末に繋がるとは、エレノア自身、思ってもみなかった。
しかしまだ、すべてが終わったわけではない。母の「忘却の霧」の第二、第三調合の行方――その答えは、明日の尋問で、ようやく明らかになるはずだった。
エレノアは足を止め、夜風に吹かれながら、静かに目を閉じた。
(母様、父様。もうすぐです。もうすぐ、あなたたちを追い詰めたものの、すべてが明らかになります)
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねながら、エレノアは静かに、その日を待った。
夜の静寂の中、遠くから、王宮の鐘の音が、ゆっくりと響いていた。まるで、一つの区切りを告げるかのように。




