第87話 対峙
馬車から降り立った男——グレゴールは、ゆっくりと工房に向かって歩き出した。
エレノアは窓辺から動かなかった。心臓は早鐘のように打っていたが、それでも、逃げるという選択肢は頭になかった。
「エレノア様、危険です。二階へ」
近衛が緊迫した声で促したが、エレノアは静かに首を振った。
「大丈夫です。あの人は、私と話をしに来ています。逃げれば、また姿を消すだけです」
「しかし——」
「窓の外に、皆さんがいてくださるのでしょう」
エレノアは近衛を見た。
「なら、私はここで、向き合います」
近衛はしばらく躊躇していたが、やがて短く頷き、すぐに合図を送った。外では、ガスパール、ルーカス、ディートリヒ、オスカーが、それぞれの持ち場から静かに包囲網を狭めているはずだった。
工房の扉が、静かにノックされた。
エレノアは一度、大きく息を吸い、それから扉を開けた。
目の前に立っていたのは、想像していたよりもずっと穏やかな顔をした男だった。整った身なり、落ち着いた物腰。ただの上品な貴族にしか見えない。しかしその瞳の奥には、底の見えない冷たさが沈んでいた。
「初めまして、と言うべきかな。エレノア・ローゼンフェルト嬢」
グレゴールの声は、驚くほど柔らかかった。
「その鼻のおかげで、随分と手を焼かされた」
「グレゴール・フォン・ヴァルター様、ですね」
エレノアは、震えそうになる声を抑えて答えた。
「ずっと、あなたを探していました」
「そうだろうね。私も、君のことをずっと調べていたよ」
グレゴールは工房の中を、値踏みするような目で見回した。
「小さいが、良い場所だ。君の母君も好みそうな」
エレノアの胸が、鋭く痛んだ。
「母を、ご存知なのですか」
「もちろん、知っているとも」
グレゴールは静かに微笑んだ。その微笑みには、感情の温度が一切感じられなかった。
「マリア・ローゼンフェルト。優秀な調香師だった。惜しいことをした」
「あなたが、母を追い詰めたのですね。父の借金も」
「追い詰めた、とは人聞きが悪い」
グレゴールは肩をすくめた。
「私はただ、必要な仕事をしただけだ。交易ルートの調整、然るべき筋への情報提供。ヴォルフ公爵家が動きやすいように、道を整えてあげただけのことだよ」
その言葉の軽さに、エレノアは怒りで手が震えるのを感じた。しかし、それを表に出さず、静かに問いを続けた。
「なぜ、そこまでして母と父を?」
「君の母君は、私にとって都合の悪いものを、知りすぎていた」
グレゴールの瞳が、わずかに細くなった。
「『忘却の霧』の完全な調合。あれさえあれば、多くのことが、もっと円滑に進んだはずだった。だが、彼女は最後まで、第三調合の完成を拒んだ」
エレノアは静かに息を飲んだ。母のノートに記されていた通りだった。
「だから、脅した。君たちを盾にして。それでも、彼女は屈しなかった」
グレゴールは、まるで昔話をするかのような口調で続けた。
「実に頑固な女だった。だから私は、別の方法で君の家を追い詰めることにした。彼女が守ろうとしたものを、ゆっくりと壊していけば、いずれ折れるだろうと」
「それが、父の借金と、領地の接収」
「その通り」
グレゴールは、まるで誇るように頷いた。
エレノアの中で、これまで抑えてきた感情が、静かに煮え立った。しかし、その怒りをそのままぶつけることが、今、最も愚かな選択であることも分かっていた。
(冷静に。母のように)
エレノアは深く息を吸い、静かに問いを続けた。
「なぜ、今、私に会いに来たのですか」
グレゴールは、しばらくエレノアを見つめた。
「君の鼻が、私の計画を脅かしているからだ」
「計画……『組』というのは、一体何のことですか」
グレゴールの表情が、初めてわずかに動いた。驚きと、そして微かな苛立ちが滲んでいた。
「そこまで、辿り着いていたか」
「教えてください」
「教える義理はないな」
グレゴールは静かに首を振った。しかしその直後、彼の視線が、エレノアの背後——工房の奥に一瞬だけ向いた。
エレノアも、つられて視線をやった。作業台の上、灰の欠片と焦げた紙片を記録した帳面が、開かれたままになっていた。
グレゴールの目に、明確な理解の色が浮かんだ。
「なるほど。あの灰からも、何かを読み取ったか」
彼は静かに息を吐き、諦めたように、あるいは何かの余裕を持って続けた。
「良いだろう。もう隠す意味もない。『第三組』とは、王宮警備の交代編成の一部だ。大宴の夜以降、警備体制が見直され、新たな編成が組まれた」
エレノアの心臓が、大きく跳ねた。
「王宮の警備を、狙っているのですか」
「狙う、というのは正確ではない」
グレゴールは静かに続けた。
「編成表を知っていれば、警備の穴を見極められる。そこを通じて、然るべき人物に接触する——それだけのことだ」
「王宮内に、内通者がいるのですね」
グレゴールは、それには答えず、ただ薄く微笑んだ。
「エレノア嬢、君は本当に優秀だな。あの女の娘だけのことはある」
彼は一歩、工房の中へと足を踏み入れた。
「近づかないでください」
エレノアは静かに、しかし断固として言った。
グレゴールは足を止め、エレノアをまっすぐに見た。
「怖くはないのか。私が、君に何をするか分からないというのに」
「怖いです」
エレノアは正直に答えた。
「でも、あなたが今夜、直接ここに来たということは……あなたも、追い詰められているということでしょう」
グレゴールの表情が、初めて、明確に凍りついた。
「……何を言っている」
「用心深いあなたが、自ら手を汚さず、姿を見せないようにしてきたことは、カイから聞きました」
エレノアは静かに続けた。
「それなのに、今夜、こうして私の前に立っている。それは、あなたの計画が、もう猶予のない段階に来ているからではありませんか」
グレゴールは、しばらく無言でエレノアを見つめていた。その瞳の奥、感情の読めない冷たさの中に、初めて、微かな苛立ちが揺らいだ。
「賢しい娘だ」
彼は低く呟いた。
「だが、賢さは、時に身を滅ぼすぞ」
その瞬間、グレゴールの手が、懐に伸びた。
「動くな!」
外から、鋭い声が響いた。ガスパールが、剣を抜いて工房の入り口に飛び込んできた。同時に、路地の暗がりから、カイが素早く姿を現し、グレゴールの退路を塞ぐように立った。
「86……」
グレゴールの目が、初めて驚愕に見開かれた。
「お前、まだ生きていたのか」
「そう簡単に死なない」
カイの声は、これまでにない強さを帯びていた。
「もう、道具じゃない」
グレゴールは、包囲されたことを悟り、静かに手を懐から出した。そこには武器ではなく、小さな折りたたまれた紙が握られていた。
「往生際が悪いのは、嫌いじゃないが」
グレゴールは薄く笑いながら、その紙をエレノアの足元に放り投げた。
「これで、君の疑問の答えの一つになるだろう。せいぜい、有効に使うといい」
「叔父様!」
エレノアが叫ぶと、路地の奥からバルドゥールが駆けつけ、近衛たちと共にグレゴールを取り囲んだ。
「グレゴール・フォン・ヴァルター。王命により、身柄を拘束する」
バルドゥールの声が、夜の静寂に響いた。
グレゴールは抵抗する様子もなく、ただ静かに、エレノアを見つめていた。
「君の母君も、君のような娘を、誇りに思っていただろうな」
その言葉を最後に、彼は近衛たちに連行されていった。
工房の中に、ようやく静寂が戻った。エレノアは膝から力が抜けそうになるのを、必死に堪えた。
「エレノア、大丈夫か」
ガスパールが駆け寄った。エレノアは頷きながら、足元に落ちた紙を拾い上げた。
震える手で開くと、そこには、王宮の内部組織の一部を示す、簡単な図と名前が記されていた。
そして、その中の一つの名前に、エレノアは息を飲んだ。
見覚えのある、王宮の文官の名前だった。
「叔父様……これは」
バルドゥールが紙を受け取り、目を通した瞬間、その表情が、これまでになく険しくなった。
「これは……殿下に、すぐにお伝えしなければならない」
夜の工房の外、遠くで馬の蹄の音が響いていた。グレゴールが連行されていく音だった。しかし事件は、まだ完全には終わっていないことを、その紙切れが静かに告げていた。
エレノアは、深く息を吐いた。
(母様、父様……ようやく、真実に辿り着きました)
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねながら、エレノアは静かに、これから始まる新たな局面への覚悟を、胸に刻んだ。




