第86話 対峙の予感
その日の午後、バルドゥールは険しい顔で工房を訪れた。
「カイの申し出は聞いた」
エレノアは椅子を勧めながら、静かに頷いた。
「叔父様は、どうお考えですか」
「危険は承知の上だが……カイの持つ知識は貴重だ。グレゴールの癖、行動の予測、そして何より、あの男の顔を直接知っている者は、私たちの中にはいない」
バルドゥールは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「殿下にもご相談した。それで、条件付きでの許可が下りた」
「条件、というのは」
「常に近衛の監視下に置くこと。そして、カイ自身の身の安全も、こちらが責任を持つこと」
エレノアは静かに息を吐いた。
「カイに、伝えてきます」
「私も同行しよう」
二人は連れ立って、カイが保護されている場所へ向かった。近衛の詰所を兼ねた小さな家屋の一室で、カイは静かに椅子に座っていた。
「許可が出た」
バルドゥールが端的に告げると、カイの表情が、わずかに動いた。
「本当に、いいのか」
「もちろん条件はある。常に監視下に置かせてめらう、それでもいいなら」
「構わない」
カイは迷わず答えた。その声には、これまでにない強さがあった。
「俺は、あの人から離れると決めた。中途半端なままでいるつもりはない」
バルドゥールはしばらくカイを見つめていたが、やがて短く頷いた。
「よろしい。では、これからの動きを詰める」
三人は小さな机を囲み、これまでの情報を整理し直した。
「あの人が、自ら夜の見張りに出てきたということは」
カイが低く切り出した。
「何かしらの計画の直前、ということだ。あの人は最後は自分で現場を確認する。」
「なるほどな」
バルドゥールが続けた。
「囮作戦が、確実に効果を出しているということだろう」
「一つ、気になることがある」
カイが言葉を選ぶように続けた。
「怪我人が出た、という話。もし本当に内輪で何かがあったなら……もしかすると、俺のように、寝返ろうとした者が他にもいたのかもしれない」
エレノアの胸が、静かに痛んだ。
「もしそうなら、その人は」
「制裁を受けてるだろう」
カイの声は、感情を押し殺すように平坦だった。
「あの人は、裏切りを許さない。俺が今こうしていられるのは、単に運が良かっただけかもしれない」
工房の外れの詰所に、重い沈黙が落ちた。
バルドゥールが、静かに口を開いた。
「エレノア、カイ。二人に伝えておくことがある」
「何でしょうか」
「殿下は、この件の決着を、あまり長引かせるつもりはない。次にグレゴール、あるいはその手先が接触を試みてきた時が、勝負所になる」
エレノアは静かに頷いた。
「今夜も、工房で待ちます」
「私も、詰所からすぐ動けるようにしておく」
カイが言うと、バルドゥールが一瞬、彼を見た。
「今夜は、お前を工房の近くに配置する。ただし、絶対に単独では動くな」
「分かってる」
その日の夕方、エレノアは工房に戻り、いつも通りの仕事を続けた。リリアとソフィーが顔を出し、他愛のない話をしながら、束の間の穏やかな時間を過ごした。
「エレノア、なんだか今日は、特に張り詰めてる感じがする」
リリアが心配そうに言った。
「そう見える?」
「うん。何かあったの?」
エレノアは少し迷ったが、正直に答えた。
「もうすぐ、大きな決着がつくかもしれないの」
リリアとソフィーは顔を見合わせた。
「危ないことは、しないでね」
ソフィーが真剣な声で言った。
「約束はできないけど……できるだけ、無事に戻るようにするわ」
エレノアの言葉に、二人はしばらく黙り込んだ。やがてリリアが、無理に明るい声を作った。
「工房が落ち着いたら、また三人でお茶をしようね」
「ええ、絶対に」
二人が帰った後、エレノアは工房の窓辺に立ち、夕暮れの南区を眺めた。
行商人が荷をまとめ、子供たちが家路につく、いつもと変わらない光景。しかしその平和な日常のすぐ隣に、危険な影が確かに存在していることを、エレノアはもう疑っていなかった。
夜が更けていく中、工房には、いつも以上の緊張が満ちていた。近衛の護衛が二階に控え、通りの各所には、目立たぬ形で見張りが配置されている。カイもまた、工房から少し離れた路地に潜み、周囲に目を光らせていた。
深夜近く、エレノアは作業台の前で、母のノートを開いていた。
灯りを絞った部屋の中、ページをめくる音だけが静かに響く。母が遺した調合の記録、そして最後に記された言葉。
——この香りは、誰かを守るために作った。決して、傷つけるためではない。
エレノアはその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
(もし、グレゴールと直接向き合う時が来たら)
自分は何をすべきなのか。武器を持って戦うことはできない。しかし、香りを通じて真実を暴くこと——それだけは、誰にも真似のできない、エレノア自身の力だった。
窓の外、雲の切れ間から、細い月明かりが差し込んでいる。エレノアは棚の上の母の香水瓶に、そっと視線をやった。
その時、階段の上から、近衛の緊張した声が響いた。
「エレノア様、動きがあるようです」
エレノアは急いで立ち上がり、窓辺に近づいた。カーテンの隙間から外を覗くと、昨夜と同じ、幌をかけた馬車が、今度はもっと工房に近い位置に停まっているのが見えた。
エレノアは静かに鼻を澄ませた。
夜風に乗って、確かに、あの香木と革の香りが漂ってくる。しかし今夜は、それだけではなかった。もっと近く、もっと直接的な——複数の人の気配。
「今夜は一人ではないようです」
「わかりました、合図を送ります」
近衛が窓辺の燭台をずらすと、ほどなくして、路地の暗がりから、カイが音もなく現れるのが見えた。彼は馬車の様子を遠目に確認し、素早く物陰に身を隠した。
エレノアは息を潜め、じっと外の様子を見つめ続けた。
馬車の扉が、ゆっくりと開いた。
中から降り立ったのは、上質な外套に身を包んだ、一人の男だった。暗闇の中でも分かる、洗練された身のこなし。年齢は四十代半ばほどだろうか、整った顔立ちに、感情の読めない静かな微笑みを浮かべている。
エレノアの心臓が、大きく跳ねた。
(あれが……)
男は工房の方角に、ゆっくりと視線を向けた。まるで、こちらの存在を、はっきりと分かっているかのように。
そして、静かに、口の動きだけで何かを呟いた。距離があり、声までは届かなかったが、エレノアには、その口の形が、確かに読み取れた気がした。
——ようやく、会えたな。
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
しかし同時に、これまで積み重ねてきた覚悟が、静かに胸の奥で固まっていくのを感じた。
(逃げない)
エレノアは窓辺から一歩も動かず、暗闇の中に立つ男を、まっすぐに見つめ返した。
外では、護衛たちが静かに配置を整え終えている。カイが物陰から、鋭い視線で男を睨みつけているのが見えた。
夜の静寂の中、ついに、追い詰めてきたはずの相手と、追い詰められていたはずの相手の立場が、静かに交錯しようとしていた。




