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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 南区の調香師

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第86話 対峙の予感

 その日の午後、バルドゥールは険しい顔で工房を訪れた。


「カイの申し出は聞いた」


 エレノアは椅子を勧めながら、静かに頷いた。


「叔父様は、どうお考えですか」


「危険は承知の上だが……カイの持つ知識は貴重だ。グレゴールの癖、行動の予測、そして何より、あの男の顔を直接知っている者は、私たちの中にはいない」


 バルドゥールは腕を組み、しばらく考え込んだ。


「殿下にもご相談した。それで、条件付きでの許可が下りた」


「条件、というのは」


「常に近衛の監視下に置くこと。そして、カイ自身の身の安全も、こちらが責任を持つこと」


 エレノアは静かに息を吐いた。


「カイに、伝えてきます」


「私も同行しよう」


 二人は連れ立って、カイが保護されている場所へ向かった。近衛の詰所を兼ねた小さな家屋の一室で、カイは静かに椅子に座っていた。


「許可が出た」


 バルドゥールが端的に告げると、カイの表情が、わずかに動いた。


「本当に、いいのか」


「もちろん条件はある。常に監視下に置かせてめらう、それでもいいなら」


「構わない」


 カイは迷わず答えた。その声には、これまでにない強さがあった。


「俺は、あの人から離れると決めた。中途半端なままでいるつもりはない」


 バルドゥールはしばらくカイを見つめていたが、やがて短く頷いた。


「よろしい。では、これからの動きを詰める」


 三人は小さな机を囲み、これまでの情報を整理し直した。


「あの人が、自ら夜の見張りに出てきたということは」


 カイが低く切り出した。


「何かしらの計画の直前、ということだ。あの人は最後は自分で現場を確認する。」


「なるほどな」


 バルドゥールが続けた。


「囮作戦が、確実に効果を出しているということだろう」


「一つ、気になることがある」


カイが言葉を選ぶように続けた。


「怪我人が出た、という話。もし本当に内輪で何かがあったなら……もしかすると、俺のように、寝返ろうとした者が他にもいたのかもしれない」


 エレノアの胸が、静かに痛んだ。


「もしそうなら、その人は」


「制裁を受けてるだろう」


 カイの声は、感情を押し殺すように平坦だった。


「あの人は、裏切りを許さない。俺が今こうしていられるのは、単に運が良かっただけかもしれない」


 工房の外れの詰所に、重い沈黙が落ちた。


 バルドゥールが、静かに口を開いた。


「エレノア、カイ。二人に伝えておくことがある」


「何でしょうか」


「殿下は、この件の決着を、あまり長引かせるつもりはない。次にグレゴール、あるいはその手先が接触を試みてきた時が、勝負所になる」


 エレノアは静かに頷いた。


「今夜も、工房で待ちます」


「私も、詰所からすぐ動けるようにしておく」


 カイが言うと、バルドゥールが一瞬、彼を見た。


「今夜は、お前を工房の近くに配置する。ただし、絶対に単独では動くな」


「分かってる」


 その日の夕方、エレノアは工房に戻り、いつも通りの仕事を続けた。リリアとソフィーが顔を出し、他愛のない話をしながら、束の間の穏やかな時間を過ごした。


「エレノア、なんだか今日は、特に張り詰めてる感じがする」


 リリアが心配そうに言った。


「そう見える?」


「うん。何かあったの?」


 エレノアは少し迷ったが、正直に答えた。


「もうすぐ、大きな決着がつくかもしれないの」


 リリアとソフィーは顔を見合わせた。


「危ないことは、しないでね」


 ソフィーが真剣な声で言った。


「約束はできないけど……できるだけ、無事に戻るようにするわ」


 エレノアの言葉に、二人はしばらく黙り込んだ。やがてリリアが、無理に明るい声を作った。


「工房が落ち着いたら、また三人でお茶をしようね」


「ええ、絶対に」


 二人が帰った後、エレノアは工房の窓辺に立ち、夕暮れの南区を眺めた。


 行商人が荷をまとめ、子供たちが家路につく、いつもと変わらない光景。しかしその平和な日常のすぐ隣に、危険な影が確かに存在していることを、エレノアはもう疑っていなかった。


 夜が更けていく中、工房には、いつも以上の緊張が満ちていた。近衛の護衛が二階に控え、通りの各所には、目立たぬ形で見張りが配置されている。カイもまた、工房から少し離れた路地に潜み、周囲に目を光らせていた。


 深夜近く、エレノアは作業台の前で、母のノートを開いていた。


 灯りを絞った部屋の中、ページをめくる音だけが静かに響く。母が遺した調合の記録、そして最後に記された言葉。


 ——この香りは、誰かを守るために作った。決して、傷つけるためではない。


 エレノアはその言葉を、何度も心の中で繰り返した。


(もし、グレゴールと直接向き合う時が来たら)


 自分は何をすべきなのか。武器を持って戦うことはできない。しかし、香りを通じて真実を暴くこと——それだけは、誰にも真似のできない、エレノア自身の力だった。


 窓の外、雲の切れ間から、細い月明かりが差し込んでいる。エレノアは棚の上の母の香水瓶に、そっと視線をやった。


 その時、階段の上から、近衛の緊張した声が響いた。


「エレノア様、動きがあるようです」


 エレノアは急いで立ち上がり、窓辺に近づいた。カーテンの隙間から外を覗くと、昨夜と同じ、幌をかけた馬車が、今度はもっと工房に近い位置に停まっているのが見えた。


 エレノアは静かに鼻を澄ませた。


 夜風に乗って、確かに、あの香木と革の香りが漂ってくる。しかし今夜は、それだけではなかった。もっと近く、もっと直接的な——複数の人の気配。


「今夜は一人ではないようです」


「わかりました、合図を送ります」


 近衛が窓辺の燭台をずらすと、ほどなくして、路地の暗がりから、カイが音もなく現れるのが見えた。彼は馬車の様子を遠目に確認し、素早く物陰に身を隠した。


 エレノアは息を潜め、じっと外の様子を見つめ続けた。


 馬車の扉が、ゆっくりと開いた。


 中から降り立ったのは、上質な外套に身を包んだ、一人の男だった。暗闇の中でも分かる、洗練された身のこなし。年齢は四十代半ばほどだろうか、整った顔立ちに、感情の読めない静かな微笑みを浮かべている。


 エレノアの心臓が、大きく跳ねた。


(あれが……)


 男は工房の方角に、ゆっくりと視線を向けた。まるで、こちらの存在を、はっきりと分かっているかのように。


 そして、静かに、口の動きだけで何かを呟いた。距離があり、声までは届かなかったが、エレノアには、その口の形が、確かに読み取れた気がした。


 ——ようやく、会えたな。


 エレノアの背筋に、冷たいものが走った。


 しかし同時に、これまで積み重ねてきた覚悟が、静かに胸の奥で固まっていくのを感じた。


(逃げない)


 エレノアは窓辺から一歩も動かず、暗闇の中に立つ男を、まっすぐに見つめ返した。


 外では、護衛たちが静かに配置を整え終えている。カイが物陰から、鋭い視線で男を睨みつけているのが見えた。


 夜の静寂の中、ついに、追い詰めてきたはずの相手と、追い詰められていたはずの相手の立場が、静かに交錯しようとしていた。

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