第85話 薬種問屋の記録
翌日の昼過ぎ、ルーカスが工房裏口に急いだ様子で訪れた。
「薬種問屋を当たったら、収穫があった!」
エレノアは手を止め、椅子を勧めた。ルーカスは息を整えながら、懐から一枚の帳面の写しを取り出した。
「三日前、南区の外れにある薬種問屋に、ヨモギとコンフリーの軟膏を大量に買い求めた男がいた。店主の証言では、複数人分の怪我を治療するためだと言っていたそうだ」
「複数人……」
「ああ。しかも、支払いは前払いで、店主が名前を尋ねても答えなかったという。ただ——」
ルーカスは帳面の一部を指し示した。
「店主が、その男の外套の裾に、乾いた血の染みのようなものを見たそうだ」
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
「怪我人が、複数……一体なにをしているのでしょうか」
「分からない。だが、こちらが気づいていない場所で、何らかの衝突が起きていた可能性もある」
ルーカスは帳面を丁寧に折りたたんだ。
「薬種問屋の場所から、男が向かった方角も大体分かった。運河沿いだが、以前とは別の区画だ」
「新しい拠点、ということですか」
「その可能性が高い。バルドゥール卿にも、すでに報告した」
その日の夕方、バルドゥールが険しい表情で工房を訪れた。
「新しい拠点らしき場所を特定した。ただし、慎重に確認する必要もある。今すぐにはまだ踏み込めん」
「叔父様、もし複数の怪我人が出ているとすれば……」
「グレゴールの計画の中で、何かが上手くいかなかったのかもしれない。あるいは——」
バルドゥールは一瞬、言葉を止めた。
「内輪での争いがあった可能性もある」
エレノアは驚いてバルドゥールを見た。
「争い、ですか」
「用心深い男だが、追い詰められた組織は、内部から綻びることも多い。手駒同士の疑心暗鬼、あるいは裏切りへの制裁——可能性は色々と考えられる」
エレノアの脳裏に、ふとカイの顔が浮かんだ。もしカイの寝返りが、何らかの形でグレゴール側に察知されていたとしたら、あるいは他にも同じように寝返ろうとした者がいたのだとしたら。
「カイは、大丈夫でしょうか」
「厳重に保護している。彼は心配要らない」
バルドゥールはそう言ったが、その声には、確信よりも、決意のようなものが滲んでいた。
夜、エレノアは工房の作業台で、これまでの記録を改めて整理していた。松脂の痕跡、東方屋の香、灰の中の文字、そして今回の傷薬の件。すべてが、少しずつ一つの絵を描き出そうとしていた。
(グレゴールは、おそらく追い詰められている)
正攻法の証拠固めと、今回の囮作戦。その両方が、確実にグレゴールの余裕を奪いつつある。カイの言葉通り、本当に危険なのだろう。しかしそれは同時に、決着が近づいていることも意味していた。
深夜、階段の上から、護衛の近衛が小声で呼びかけた。
「エレノア様、少しよろしいでしょうか」
エレノアが上がると、近衛は窓の外を指し示した。
「先ほどから、表通りの端に、馬車が一台停まっています。人の乗り降りはありませんが、何やら気配が」
エレノアは窓に近づき、カーテンの隙間からそっと外を確認した。
暗い通りの端、目立たない場所に、幌をかけた質素な馬車が停まっている。御者台には人影があるが、顔ははっきりと見えなかった。
エレノアは静かに鼻を澄ませた。夜風に乗って、微かに、松脂と、そして——別の香りが届いた。
(これは……)
ほんの微かに上質な革と、ごく僅かに、香木の匂い。東方屋で嗅いだものよりも、遥かに洗練された調合。まるで、貴族が身につけるような香水に近い、上品な香りだった。
エレノアの心臓が、大きく跳ねた。
「あの馬車……もしかしたら!」
「グレゴール本人、ということですか?」
「断定はできません。でも、この香りは、これまで嗅いできたどの手先の物とも違います」
近衛はすぐに合図を送った。しばらくして、通りの反対側から、夜警を装ったガスパールが、さりげなく馬車の方へと歩みを進めた。
しかしガスパールが馬車に近づく前に、御者が手綱を引いた。馬車は音もなく動き出し、夜の闇の中へと消えていった。
「追わせますか」
「いいえ」
エレノアは静かに首を振った。
「追えば、警戒を強めるだけでしょう。それに——」
エレノアは窓の外の暗闇を見つめながら、静かに続けた。
「あの香りは、覚えました。もし次に嗅ぐことがあれば、必ず気づけます」
近衛は頷き、その報告をすぐに伝令に託した。
翌朝、バルドゥールが緊迫した表情で駆けつけた。
「昨夜の馬車の件は聞いた。お前の判断は正しかったぞ」
「グレゴール本人だったのでしょうか」
「おそらくな。そして、これまでとは違う動きだ。カイの言った通り、焦りが出てきているのかもしれない」
バルドゥールは工房の中を歩きながら、静かに続けた。
「殿下も、この報告を受けて、警備をさらに強化された。今夜以降、工房の周辺には、これまで以上の人員を配置する」
エレノアは頷きながらも、胸の奥に、これまでとは違う緊張が広がっていくのを感じていた。
昼過ぎ、エレノアはカイの元を訪れた。昨夜の香りのことを伝えると、カイの表情が、これまでになく強張った。
「香木の匂いがする香水……それは、グレゴール様本人だと思う」
「本当に?」
「間違いない。俺は何度もそんな匂いを嗅いだことがある」
カイは声を落とした。
「もし本当に、あの方が姿を見せたなら……お前は、思っている以上に、警戒されている」
エレノアは静かに頷いた。
「それでも、動かなければ」
カイはしばらくエレノアを見つめていたが、やがて低く言った。
「一つ、頼みがある」
「何?」
「俺にも手伝わせくれないか」
エレノアは驚いてカイを見た。
「危険よ」
「分かってる。それでも!」
カイの目に、これまで見たことのない強い光が宿っていた。
「俺は、お前の助けになりたいと思った。なら、最後まで、それを証明したい」
エレノアは、しばらくカイを見つめた後、静かに頷いた。
「叔父様には、相談してみる」
工房に戻る道すがら、エレノアは夏の空を見上げた。
雲の切れ間から差し込む陽光が、南区の石畳を眩く照らしている。しかしその明るさとは裏腹に、エレノアの胸には、静かな緊張が確実に募っていた。
(もうすぐ、決着がつく)
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねながら、エレノアは工房への道を、しっかりとした足取りで歩いていった。




