第84話 近づく気配
工房に戻って三日目の夜だった。
エレノアは泊まり込みの護衛——今夜も近衛の一人が「遠縁の従兄弟」を装って二階の空き部屋に控えていた——と共に、静かな夜を過ごしていた。
昼間はいつも通りに店を開け、客の対応をこなす。しかし夕暮れが近づくと、工房の空気は自然と張り詰めていった。
その夜、エレノアは棚の整理をしながら、ふと鼻の奥に違和感を覚えた。
(……松脂の匂い)
夕方に通り過ぎた見張りの男の匂いとは、少し違う。もっと濃く、もっと近い。エレノアは手を止め、慎重に窓の外の気配を探った。
「あの、少しよろしいでしょうか」
小声で呼びかけると、階段の上から気配が動いた。護衛の近衛が音もなく下りてきたのだ。
「どうかなさいましたか」
「表の通りに、誰かいます。松脂の匂いが、いつもより強いんです」
近衛は腰の後ろに隠していた短剣に手をかけ、窓の隙間から外を確認した。
「……見えますね。一人です。物陰に立って、こちらを見ています」
エレノアも慎重に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。
通りの向かい、隣家の軒先の暗がりに、確かに人影があった。中肉中背、灰色の外套。以前見張られていた時と、体格が似ている。
「合図をお願いします」
近衛が小さく頷き、窓辺の燭台の位置をずらした。それが、外の護衛たちへの緊急合図だった。
しばらくして、通りの反対側から、夜警を装ったオスカーがゆっくりと近づいていくのが見えた。しかし人影は、オスカーが近づく前に、素早く路地の奥へと姿を消してしまった。
「逃げられたようです」
近衛が外を気にしながら言った。
エレノアは窓辺から離れ、静かに息を整えた。心臓が、まだ速く打っていた。
「怖くないですか」
近衛が心配そうに尋ねた。
「少し……ですが、これは覚悟していたことです」
「少しでも異常を感じましたら、すぐに二階に上がってください」
エレノアは頷いた。
その夜、結局それ以上の動きはなかった。しかし翌朝、バルドゥールが早々に工房を訪れ、険しい表情で告げた。
「昨夜の男、追跡した近衛の報告によると、運河沿いの方角へ逃げたが、途中で完全に姿を見失ったそうだ」
「巧妙ですね」
「ああ。だが、収穫もあった」
バルドゥールは懐から小さな布切れを取り出した。
「男が逃げる際、これを落としていったらしい」
エレノアは布切れを受け取り、鼻を近づけた。松脂と金属の匂いに混じって、微かに、別の香りがした。
「これは……薬草の匂いです。それも、傷薬に使われるような」
「傷薬?」
「はい。ヨモギとコンフリーを基調にした、打ち身や切り傷用の軟膏の匂いがします」
バルドゥールは眉を寄せた。
「なぜ、そんなものが」
エレノアはしばらく考えた後、静かに口を開いた。
「もしかすると、その男自身か、あるいは仲間の誰かが、怪我をしているのかもしれません」
「怪我、か」
バルドゥールは布切れを丁寧に包み直した。
「もしそうなら、近隣の薬種問屋を当たれば、何か手がかりが掴めるかもしれない」
「ルーカス様に、お願いできますか」
「すでに向かわせよう」
その日の午後、カイのことが気になり、エレノアはバルドゥールに面会を願い出た。北の離れに戻ることはできなかったが、カイは近衛の監視下で、工房から少し離れた場所に移されていた。バルドゥールの計らいで、短時間だけ会うことが許された。
「変わりない?」
エレノアが尋ねると、カイは小さく頷いた。以前よりも、幾分か顔色が良くなっている。
「飯も、ちゃんと出てる」
「よかった」
エレノアは、昨夜の一件を簡潔に伝えた。カイはしばらく考え込んだ後、低く言った。
「その男、恐らく見張り役の一人だ。グレゴール様は、怪我人を簡単には切り捨てない。使える駒として、最後まで使い倒す」
「それは……優しさではないのね」
「ああ。ただの節約だ」
カイの声には、かつての自分自身への皮肉のような響きがあった。
「グレゴール様が動くとすれば、そろそろだと思う」
「そろそろ?」
「用心深いあの方が、直接見張りを送ってくるようになったということは、焦りが出てきている証拠だ。……いつもなら、もっと遠くから、間接的に調べさせる」
エレノアの胸が、静かに緊張した。
「つまり、グレゴール自身が動く時が、近いということ?」
「多分」
カイは、エレノアをまっすぐに見た。
「気をつけろ。あの方は本当に危険だ」
その言葉に、エレノアは静かに頷いた。
「ありがとう、カイ。気をつけるわ」
「……別に」
カイは視線を逸らしながら、小さく呟いた。
工房に戻る道すがら、エレノアは夕暮れの南区を歩きながら、カイの言葉を何度も反芻していた。
本当に危険だ。と
その言葉が、これから訪れるであろう対峙の重さを、改めてエレノアに突きつけていた。
工房に戻ると、リリアとソフィーが心配そうに待っていた。
「エレノア、大丈夫? 顔色が悪いよ」
「大丈夫よ。ただ、少し考えることがあって」
エレノアは努めて笑顔を作りながら、いつも通りに二人を迎え入れた。しかし胸の奥では、静かな緊張が、確実に高まりつつあった。
夜、蝋燭の灯りの下で、エレノアは母のノートを開いた。最後のページに記された、母の走り書き。
『この香りは、誰かを守るために作った。決して、傷つけるためではない』
エレノアは静かにその言葉を読み返し、窓の外に視線をやった。
夏の夜空に、雲が低く垂れ込めている。まるで、これから訪れる何かを予感させるように。
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねながら、エレノアは静かに、しかし確かな決意を、もう一度胸に刻んだ。




