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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 南区の調香師

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第83話 工房に灯る火

 作戦決行の朝、エレノアは久しぶりに、自分の工房の扉を開けた。


 一月近く閉ざされていた店内には、埃と、かすかに乾いた香料の匂いが漂っていた。エレノアは深く息を吸い込み、静かにその匂いを確かめた。ラベンダー、シダーウッド、ベチバー——変わらず、そこにある匂いだった。


「エレノア!」


 真っ先に駆け込んできたのはリリアだった。ソフィーもすぐ後に続く。


「無事だったのね、本当に心配したんだから!」


 リリアがエレノアに抱きつくと、エレノアも思わず彼女を抱きしめ返した。


「心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫よ」


「大丈夫って……」


 リリアは言いかけて、エレノアの背後、扉の外にちらりと視線をやった。そこには、私服に身を包んだガスパールが、さりげなく通りに立っている。目立たないようにしているつもりだろうが、リリアには一目で分かったらしい。


「今日から、また監視されてるってこと?」


「そういうことになるわね」


 エレノアは静かに答えた。詳しい事情は話せなかったが、リリアもソフィーも、これ以上は聞かずに頷いた。


「私たちにできることがあれば、何でも言って」


 ソフィーが真剣な顔で言った。


「いつも通りに、工房に来てくれるだけで十分よ」


 エレノアは微笑んだ。今日という日を、あくまで「いつも通り」に見せることが、何より重要だった。


 その日の午前中、エレノアは棚の埃を払い、蒸留器を磨き、いつも通りの仕事をこなした。しかし、いつもとは違う緊張が、体の奥に絶えず張り詰めていた。


 近所の常連客が、久しぶりに顔を出した。


「エレノアさん、しばらく休業してたけど、大丈夫だったの?」


「少し、親戚の用事で遠出をしていまして。ご心配をおかけしました」


 エレノアは努めて自然に答えながら、客の求める香油を調合した。手はいつも通りに動いていたが、耳は常に外の気配を拾おうとしていた。


 昼過ぎ、扉の外を、見知らぬ男が通りかかった。


 エレノアの鼻が、微かに反応した。松脂と金属の匂い。以前、東方屋や運河沿いの倉庫で嗅いだのと、同じ系統の匂いだった。


(監視されている)


 男は工房の前で立ち止まることなく、そのまま通り過ぎていった。しかしその足取りは、明らかに店の中を確かめるような、不自然な緩やかさだった。


 エレノアは何も気づかないふりをしながら、静かに棚の奥へ視線を送った。あらかじめ決めていた合図——棚の花瓶を、いつもと違う位置に動かす。それが、外の護衛たちへの、「異常あり」の合図だった。


 それを見て、通りの向かいの果物屋の店主に扮したルーカスがさりげなく店の商品を並べ替える仕草をした。「確認した」という返答の合図だった。


 夕方、エレノアは店を閉め、二階の住まいへと上がった。窓の隙間から外を確認すると、暮れていく南区の通りに、いつもと変わらぬ喧騒が広がっている。しかしその中に、幾人かの見張りが、目立たぬ形で紛れ込んでいるのを、エレノアは知っていた。


 夜、裏口を控えめに叩く音がした。それは決めていた合図の通りであった。 

 

 エレノアが扉を開けると、そこに立っていたのは、荷運び人のような質素な作業着姿の男だった。日焼けを装ったのか顔に薄く粉をはたき、髪も乱雑に撫でつけられている。着崩し方も堂に入っており、一見しただけでは、南区でよく見かける荷運び人と見分けがつかなかった。


「叔父様……ですよね?」


 エレノアが恐る恐る確認すると、男は小さく頷いた。


「分かりにくかったか」


「いえ、むしろ……前とは全然違います」


 エレノアは思わず、まじまじと見つめてしまった。以前、麻の上着に上質な革手袋を合わせるという、ちぐはぐな変装をしていたバルドゥールとは、明らかに別人のような自然さだった。


「ガスパールたちに、仕込まれた」


 バルドゥールは、いつもの無表情のまま、淡々と答えた。


「歩き方、言葉遣い、着崩し方。一日、みっちりと」


「それはそれは……」


「あの若造どもは、妙なところで熱心だった」


 その口調には、わずかな苦々しさと、それでいてどこか満更でもなさそうな響きが混じっていた。エレノアは思わず、口元が緩むのを堪えられなかった。


「よくお似合いです」


「からかうな」


 バルドゥールは短く言い、工房の中に入った。


「今日一日、動きはどうだった」


「昼過ぎに、一人、監視らしき男が通り過ぎました」


 エレノアは詳細を伝えた。バルドゥールは頷きながら聞いていたが、話が終わると険しい表情を見せた。


「その男の特徴は」


「中肉中背、灰色の外套。以前、見張られていた時と、同じ系統の匂いがしました」


「今、その男の足取りを追っている。結果が出れば、すぐに知らせよう」


 バルドゥールはしばらく工房の中を見回した後、静かに言った。


「エレノア、今夜からしばらく、ここに泊まり込む護衛を置く。表向きは、遠縁の親戚を装う」


「分かりました」


「無理はするな。何か異常があれば、すぐに合図を送れ」


 バルドゥールが去った後、エレノアは一人、蝋燭の灯りの下で、母のノートを開いた。


 一月ぶりに戻った工房。慣れ親しんだはずの空間が、今は少し違って見えた。危険と隣り合わせの静けさが、部屋全体に薄く張り詰めている。


(母様も、こんな緊張の中で、香りと向き合っていたのかしら)


 エレノアは棚の上の、母の形見の香水瓶に視線をやった。淡い黄金色の液体が、蝋燭の灯りに柔らかく光っている。


 その時、階下で小さな物音がした。


 エレノアは息を潜め、耳を澄ませた。しかしそれは、泊まり込みの護衛が持ち場を確認する音だとすぐに分かった。エレノアは静かに息を吐き、蝋燭の灯りを少し弱めた。


(今夜は、何も起きないかもしれない)


 しかしそれでも、緊張は解けなかった。


 窓の外、夏の夜が静かに更けていく。工房の小さな灯りが、暗い通りに、ぽつんと浮かんでいた。


 エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。


(見ているなら、いつでも来なさい)


 心の中で、静かにそう呟いた。相手がどう出てくるにせよ、もう後には引けない。この工房の灯りが、いつか、真実への道を照らす標になることを、エレノアは信じていた。


 夜が深まるにつれ、通りの喧騒は次第に静まっていった。しかしその静寂の奥で、何かが確実に近づいてくる気配を、エレノアは肌で感じ続けていた。

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