第99話 夜半の足音
バルドゥールの官舎に着く頃には、夜の帳がすっかり下りていた。
「叔父様、夜分に申し訳ありません」
扉を叩くと、すぐに反応があった。バルドゥールは、まだ起きていたのか、質素な部屋着のまま姿を現した。
「こんな時間に、何かあったのか」
エレノアは手短に、今日一日の出来事を説明した。朝見かけた行商人らしき人影、カイが感じた視線、そしてリリアが目撃した三人組。話し終える頃には、バルドゥールの表情は、これまでになく険しくなっていた。
「三人組、それにカイの名を口にしていた、というのは確かか」
「リリアの証言では、はっきりとは聞き取れなかったそうですが……」
「聞き間違いにしては、出来過ぎているな」
バルドゥールは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「グレゴールが捕らえられて以降、組織の残党については、王宮でも継続して監視をしている。だが、完全に把握しきれているわけではないだろう」
カイが、静かに一歩前に出た。
「バルドゥール様、俺は……」
「言いたいことは分かる」
バルドゥールはカイを遮った。
「お前は、自分が原因かもしれない、と思っているのだろう」
カイは何も答えなかった。しかし、その沈黙が、答えのようなものだった。
「今の段階では、まだ何も断定できない。だが、念のため、工房の警戒を再び強めよう」
バルドゥールは静かに続けた。
「近衛の見回りを増やし、目立たない形で工房周辺を固める。カイ、お前は当分、一人での外出を控えろ」
「分かった」
カイは素直に頷いた。以前であれば、こうした指示に反発する素振りを見せていたかもしれない。しかし今は、守られることを、静かに受け入れられるようになっていた。
「エレノア、お前もだ。単独での行動は慎め」
「はい、叔父様」
バルドゥールはしばらく黙り込んだ後、ふと思い出したように尋ねた。
「あの行商人の件は、その後どうなっている」
「まだ、次に訪れる気配はありません。ただ、あの香木の匂いと、カイの証言を考えると……」
「グレゴールの組織の可能性が高いな……」
「はい」
バルドゥールは静かに息を吐いた。
「ここまで動きがあるにも関わらず、把握できていない残党がいるとは、厄介なことだ」
夜も更け、これ以上の話し合いは明日に持ち越すことになった。近衛の護衛が二人、その夜のうちに工房周辺の警備に加わることになり、エレノアとカイは、ようやく官舎を後にした。
夜道を歩きながら、カイは終始無言だった。
「大丈夫?」
エレノアが尋ねると、カイはしばらくしてから、ぽつりと答えた。
「昔の仲間が、まだ生きてるかもしれない」
その言葉に、エレノアは驚いて彼を見た。
「グレゴール様のところには、俺の他にも、何人も似たような境遇の奴らがいた。俺だけが、こうして……自由になれた」
カイの声には、複雑な感情が滲んでいた。安堵とも、罪悪感とも取れる、静かな揺らぎ。
「もし、あの三人組が、その仲間たちだったら」
「それなら、あなたを傷つけるようなことは、しないんじゃないかしら」
エレノアが静かに言うと、カイは首を振った。
「分からない。組織の中では、裏切り者は最も憎まれる。俺は……グレゴール様の計画を、お前たちに教えた」
その言葉の重みに、エレノアは何も言えなくなった。もし本当に元の仲間だったとして、彼らがカイをどう見ているのか、想像もつかなかった。恨みを持って追ってきているのか、それとも――
「あの三人組が、あなたの仲間だったら助けてあげたいのね」
エレノアは静かに、しかし力強く続けた。
「でも、一つだけ確かなことがある。あなたは、もう独りじゃない。わたしも叔父様も、みんなが協力するわ。」
カイは何も言わず、ただ小さく頷いた。夜道を歩く二人の足音だけが、静かな石畳に響いていた。
工房が見えてくると、窓の外に、見慣れない人影が二つ、目立たぬように立っているのが見えた。近衛の護衛だった。
「もう、配置についてくれているのね」
エレノアが安堵の息を吐くと、カイもわずかに肩の力を抜いた。
しかしその夜遅く、エレノアが寝台に横になっても、なかなか眠りは訪れなかった。カイの言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
(裏切り者は最も憎まれる……)
もし本当に、カイの過去が、これから彼を苦しめる形で追いついてくるのだとしたら。エレノアにできることは、何なのだろうか。
窓の外、月明かりに照らされた工房の看板が、静かに揺れている。その下で、護衛たちの控えめな足音が、夜通し工房を見守り続けていた。




