第100話 襲撃
翌朝、工房はいつも通りに扉を開けたものの、そこかしこに緊張の色が滲んでいた。
近衛の護衛が、通りの両端にさりげなく配置され、リリアやソフィーも普段より早い時間に顔を出していた。誰も多くを語らなかったが、皆が同じ不安を胸に抱えていることは、明らかだった。
「エレノア、今日は私も手伝うよ」
リリアが袖をまくりながら言った。
「無理しなくていいのよ」
「無理なんてしてない。わたしがやりたいだけだもの」
その言葉に、エレノアは静かに頭を下げた。
昼前、カイは薬草の仕分けをしながらも、時折窓の外に視線を向けていた。以前より明らかに、周囲への警戒を強めている。
「今日は、外に出ないでね」
「分かってる」
カイは短く答えたが、その声には、これまでとは違う硬さがあった。
午後、店先にマルタが顔を出した。
「エレノアさん、聞いておくれよ」
いつもの快活さとは違う、どこか声を潜めた調子だった。
「何かありましたか」
「うちの旦那が、市場で妙な話を聞いたんだよ。最近、見慣れない男たちが、南区のあちこちで聞き込みをしてるらしいんだ。名前もわからない若い男の行方を探してるとか」
エレノアとカイが、同時に顔を強張らせた。
「その男たち、どんな様子でしたか」
「詳しくは分からないけど……身なりはみすぼらしいのに、目つきだけは妙に鋭かったって。旦那も、なんだか薄気味悪いって言ってたよ。なんだか物騒よね」
マルタはそれだけ言うと、心配そうな顔をしながら店に戻っていった。
夕暮れが近づく頃、エレノアはカイと二人で、乾燥棚の薬草を並べ替えていた。窓の外はすでに橙色に染まりつつあり、工房の中にも長い影が伸びている。
「マルタさんの話、聞いていた?」
「ああ」
カイは手を止めず、しかしその声には緊張が滲んでいた。
「みすぼらしい身なり……多分昔の仲間達だ、皆、そういう格好をさせられていたから」
その時だった。
表通りの方から、鈍い衝撃音と、押し殺した呻き声が響いた。
カイが即座に顔を上げた。
「今のは」
「護衛か……!」
エレノアが立ち上がった瞬間、工房の扉が乱暴に蹴破られた。
三人の男が、雪崩れ込むように入ってきた。一人は頬に傷のある若い男、残り二人も、体格の良い年嵩の者たちだった。
「八十六!助けに来たぞ!」
先頭の男が叫んだ。その手には、粗末な棍棒が握られている。
「待って、話を——」
エレノアが割って入ろうとした瞬間、体格の良い男の一人が、乱暴にエレノアの腕を掴んで押しのけた。
「邪魔するな!」
振り払われた拍子に、エレノアの頬が作業台の角にかすり、鋭い痛みが走った。薄く血が滲む。
「エレノア!」
カイの声が、これまでにないほど大きく響いた。
次の瞬間、カイは素早くエレノアの前に回り込み、両腕を広げて庇うように立ちはだかった。
「やめろ! こいつに手を出すな!」
「八十六、どけ!俺たちはお前を助けに来たんだ!」
「助ける?これのどこが、助けることになる!」
カイの声には、これまでにない怒りが滲んでいた。
「お前らは、何も分かってない!エレノアは、俺を縛ってなんかいない!」
「嘘をつくな!」
若い男が叫んだ。
「お前が自分の意志で、あの女を庇ってるはずがない!!グレゴールの調教を受けた俺たちなら分かる、これは……」
男の目に、恐怖と確信の入り混じった色が浮かんだ。
「洗脳だ。お前、何かの薬か、暗示にかけられてるんだな」
「違う!」
カイが叫び返した瞬間、外から慌ただしい足音が近づいてきた。近衛の護衛の一人が、額から血を流しながら、剣を構えて駆け込んでくる。
「くそ、もう時間がないか」
「おい!退くぞ!」
体格の良い男の一人が、素早く仲間に合図を送った。若い男は、なおもカイに向かって手を伸ばしかけたが、護衛が距離を詰めるのを見て、舌打ちしながら後退した。
「八十六……なんで、分かってくれないんだ」
若い男の声は、怒りよりも、悲しみに近い響きを帯びていた。
「必ず、お前を、この女から取り戻す」
三人は裏口から、路地の暗がりへと駆け去っていった。護衛たちがすぐに追おうとしたが、すでにその姿は見えなくなっていた。
工房の中に、荒い息遣いだけが残った。
「エレノア、怪我は」
カイが振り返り、エレノアの頬に触れようとして、指先が微かに震えているのに気づいた。
「大丈夫よ、かすり傷だから」
エレノアは努めて穏やかに答えたが、カイの表情は険しいままだった。
「大丈夫なわけ、あるか。お前が傷つけられた」
「あなたが、庇ってくれたわ」
エレノアは静かに、しかし確かな声で言った。
「ありがとう、カイ」
カイは何も言わなかった。ただ、拳を強く握りしめ、床に落ちた自分の影を見つめていた。
「あいつら……本気で、俺のことを心配してる」
カイの声が、震えを帯びていた。
「なのに、なんで分かってくれないんだ。俺は、自分の意志でここにいるのに」
「彼らからすれば、信じられないことなのかもしれないわ」
エレノアは静かに続けた。
「グレゴールに支配されていた世界しか知らなければ、誰かのために自分の意志で動くなんて、想像もつかないことなのよ」
カイは唇を噛み、視線を落とした。
「じゃあ、どうすればいい」
「時間をかけて、伝えるしかないと思う。あなたが、本当に自由な意志でここにいるということを」
護衛が慌ただしく駆け込んできて、負傷の確認と応急手当を申し出た。エレノアは頬の傷に軽く布を当てながら、窓の外、すでに暗くなり始めた路地へと視線を送った。
(本気で、カイを取り戻しに来るつもりだったわ)
その確信が、エレノアの胸に、重く沈んでいった。




