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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第三章 灯火の調香師

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第100話 襲撃

 翌朝、工房はいつも通りに扉を開けたものの、そこかしこに緊張の色が滲んでいた。


 近衛の護衛が、通りの両端にさりげなく配置され、リリアやソフィーも普段より早い時間に顔を出していた。誰も多くを語らなかったが、皆が同じ不安を胸に抱えていることは、明らかだった。


「エレノア、今日は私も手伝うよ」


 リリアが袖をまくりながら言った。


「無理しなくていいのよ」


「無理なんてしてない。わたしがやりたいだけだもの」


 その言葉に、エレノアは静かに頭を下げた。


 昼前、カイは薬草の仕分けをしながらも、時折窓の外に視線を向けていた。以前より明らかに、周囲への警戒を強めている。


「今日は、外に出ないでね」


「分かってる」


 カイは短く答えたが、その声には、これまでとは違う硬さがあった。


 午後、店先にマルタが顔を出した。


「エレノアさん、聞いておくれよ」


 いつもの快活さとは違う、どこか声を潜めた調子だった。


「何かありましたか」


「うちの旦那が、市場で妙な話を聞いたんだよ。最近、見慣れない男たちが、南区のあちこちで聞き込みをしてるらしいんだ。名前もわからない若い男の行方を探してるとか」


 エレノアとカイが、同時に顔を強張らせた。


「その男たち、どんな様子でしたか」


「詳しくは分からないけど……身なりはみすぼらしいのに、目つきだけは妙に鋭かったって。旦那も、なんだか薄気味悪いって言ってたよ。なんだか物騒よね」


 マルタはそれだけ言うと、心配そうな顔をしながら店に戻っていった。


 夕暮れが近づく頃、エレノアはカイと二人で、乾燥棚の薬草を並べ替えていた。窓の外はすでに橙色に染まりつつあり、工房の中にも長い影が伸びている。


「マルタさんの話、聞いていた?」


「ああ」


 カイは手を止めず、しかしその声には緊張が滲んでいた。


「みすぼらしい身なり……多分昔の仲間達だ、皆、そういう格好をさせられていたから」


 その時だった。


 表通りの方から、鈍い衝撃音と、押し殺した呻き声が響いた。


 カイが即座に顔を上げた。


「今のは」


「護衛か……!」


 エレノアが立ち上がった瞬間、工房の扉が乱暴に蹴破られた。


 三人の男が、雪崩れ込むように入ってきた。一人は頬に傷のある若い男、残り二人も、体格の良い年嵩の者たちだった。


「八十六!助けに来たぞ!」


 先頭の男が叫んだ。その手には、粗末な棍棒が握られている。


「待って、話を——」


 エレノアが割って入ろうとした瞬間、体格の良い男の一人が、乱暴にエレノアの腕を掴んで押しのけた。


「邪魔するな!」


 振り払われた拍子に、エレノアの頬が作業台の角にかすり、鋭い痛みが走った。薄く血が滲む。


「エレノア!」


 カイの声が、これまでにないほど大きく響いた。


 次の瞬間、カイは素早くエレノアの前に回り込み、両腕を広げて庇うように立ちはだかった。


「やめろ! こいつに手を出すな!」


「八十六、どけ!俺たちはお前を助けに来たんだ!」


「助ける?これのどこが、助けることになる!」


 カイの声には、これまでにない怒りが滲んでいた。


「お前らは、何も分かってない!エレノアは、俺を縛ってなんかいない!」


「嘘をつくな!」


 若い男が叫んだ。


「お前が自分の意志で、あの女を庇ってるはずがない!!グレゴールの調教を受けた俺たちなら分かる、これは……」


 男の目に、恐怖と確信の入り混じった色が浮かんだ。


「洗脳だ。お前、何かの薬か、暗示にかけられてるんだな」


「違う!」


 カイが叫び返した瞬間、外から慌ただしい足音が近づいてきた。近衛の護衛の一人が、額から血を流しながら、剣を構えて駆け込んでくる。


「くそ、もう時間がないか」


「おい!退くぞ!」


 体格の良い男の一人が、素早く仲間に合図を送った。若い男は、なおもカイに向かって手を伸ばしかけたが、護衛が距離を詰めるのを見て、舌打ちしながら後退した。


「八十六……なんで、分かってくれないんだ」


 若い男の声は、怒りよりも、悲しみに近い響きを帯びていた。


「必ず、お前を、この女から取り戻す」


 三人は裏口から、路地の暗がりへと駆け去っていった。護衛たちがすぐに追おうとしたが、すでにその姿は見えなくなっていた。


 工房の中に、荒い息遣いだけが残った。


「エレノア、怪我は」


 カイが振り返り、エレノアの頬に触れようとして、指先が微かに震えているのに気づいた。


「大丈夫よ、かすり傷だから」


 エレノアは努めて穏やかに答えたが、カイの表情は険しいままだった。


「大丈夫なわけ、あるか。お前が傷つけられた」


「あなたが、庇ってくれたわ」


 エレノアは静かに、しかし確かな声で言った。


「ありがとう、カイ」


 カイは何も言わなかった。ただ、拳を強く握りしめ、床に落ちた自分の影を見つめていた。


「あいつら……本気で、俺のことを心配してる」


 カイの声が、震えを帯びていた。


「なのに、なんで分かってくれないんだ。俺は、自分の意志でここにいるのに」


「彼らからすれば、信じられないことなのかもしれないわ」


 エレノアは静かに続けた。


「グレゴールに支配されていた世界しか知らなければ、誰かのために自分の意志で動くなんて、想像もつかないことなのよ」


 カイは唇を噛み、視線を落とした。


「じゃあ、どうすればいい」


「時間をかけて、伝えるしかないと思う。あなたが、本当に自由な意志でここにいるということを」


 護衛が慌ただしく駆け込んできて、負傷の確認と応急手当を申し出た。エレノアは頬の傷に軽く布を当てながら、窓の外、すでに暗くなり始めた路地へと視線を送った。


(本気で、カイを取り戻しに来るつもりだったわ)


 その確信が、エレノアの胸に、重く沈んでいった。

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