第101話 叔父様の叱責
その夜、バルドゥールが工房に駆けつけたのは、日付が変わる前のことだった。
「エレノア!怪我をしたと聞いたが……ッ」
扉を開けるなり、彼は珍しく声を荒げた。エレノアの頬に貼られた布を見て、その表情がさらに険しくなる。
「大丈夫です、叔父様。かすり傷ですから」
「大丈夫なものか」
バルドゥールは近づき、エレノアの頬を確かめるように顔を寄せた。
「侵入者は、全部で三名と聞いた」
「はい。護衛の方も一人、頭に怪我を負われました」
「そちらは今、手当てをさせている。命に別状はない」
バルドゥールは低く息を吐き、椅子に腰を下ろした。しかしその瞳には、まだ収まらない怒りがくすぶっているようだった。
「カイ、お前は無事か」
「……ああ」
少し離れた場所に立っていたカイが、硬い声で答えた。バルドゥールはしばらく彼を見つめた後、静かに問いを重ねた。
「あの三人は、お前の元の仲間だと聞いた」
「そうだ」
「詳しく話せ」
カイは一瞬躊躇したが、やがて重い口を開いた。あの頬に傷のある男が「八十六」と呼んだこと、そして「洗脳されている」と誤解していること。すべてを聞き終えたバルドゥールは、しばらく無言だった。
「つまり、あの者たちは、お前を悪から救い出そうとしている、というわけか」
「……そういうことに、なるんだと思う」
バルドゥールは眉間に深い皺を刻んだまま、静かに続けた。
「彼らの目的が、悪意ではなく誤解に基づくものだとしても、実際にエレノアが傷つけられたことに変わりはない」
その言葉に、カイの表情が、目に見えて強張った。
「分かってる」
「分かっているなら、なぜお前は、まだそこに突っ立っている」
バルドゥールの声が、これまでになく鋭くなった。
「エレノアを守れたことは評価する。だが、お前がここにいる限り、また同じことが起きる可能性がある。それを分かっているのか」
「叔父様」
エレノアが慌てて口を挟んだ。しかしバルドゥールは、手で制した。
「エレノア、お前は黙っていろ。これは、カイに言わねばならないことだ」
バルドゥールはカイをまっすぐに見据えた。
「お前の元仲間たちは、お前を取り戻すまで諦めないと言ったそうだな。ならば、次はもっと周到に、もっと多い人数で来るかもしれない。その時、エレノアだけでなく、リリアやソフィー、あるいは近隣の者たちまで巻き込まれる可能性がある」
カイは何も言い返せなかった。ただ、拳を握りしめ、俯いていた。
「叔父様、それは言い過ぎです」
エレノアが再び口を挟んだ。今度はバルドゥールも、彼女を止めなかった。
「カイのせいではありません。彼は、私を守ろうとしてくれました」
「分かっている。だからこそ、言っているのだ」
バルドゥールは静かに、しかし厳しい声で続けた。
「守ろうとする気持ちがあるなら、なおさら、自分がこの場にいることの意味を、真剣に考えるべきだ」
その言葉に、カイの肩が、微かに震えた。
「……俺が、いなくなればいいのか」
「そうは言っていない」
バルドゥールは首を振った。
「だが、何の対策も講じずに、ただここにいることが正しいとも思えない。お前自身、あの元仲間たちと、いずれきちんと向き合わねばならないだろう」
沈黙が落ちた。工房の中に、蝋燭の炎が揺れる音だけが響いていた。
「叔父様」
エレノアが静かに口を開いた。
「カイに、工房を去れとおっしゃっているのですか」
「だから、そうは言っていない、と言ったはずだ」
バルドゥールは疲れたように息を吐いた。
「私が言いたいのは、このまま何もせず、ただ守りを固めるだけでは、根本的な解決にならないということだ。カイの元仲間たちが、誤解を抱いたままである限り、彼らは何度でも来るだろう」
「では、どうすればいいのでしょうか」
「対話をする必要がある。誤解を解くための、直接の対話を」
バルドゥールはそう言いながらも、その表情には迷いが見えた。
「だが、それには危険が伴う。向こうは、こちらを敵だと信じ込んでいる。下手に接触すれば、また今夜のような事態になりかねない」
カイが、ゆっくりと顔を上げた。
「俺が、一人で会う」
「「駄目だ」」
エレノアとバルドゥールが、同時に声を上げた。
「一人では行かせられないわ」
バルドゥールが続けた。
「そうだ。お前が一人で行けば、力ずくで連れ去られる可能性もある。あるいは、お前を助けるためだと称して、また同じような衝突が起きるかもしれない」
「だが、俺が行かなければ、あいつらは何度でも来るんだ」
カイの声には、これまでにない強い意志があった。
「エレノアや、他の皆を、危険にさらしたくない」
エレノアは、その言葉に胸が締め付けられた。カイが、自分の身を挺してでも、皆を守ろうとしている。その気持ちは痛いほど伝わってきたが、同時に、彼を一人で危険な場所に行かせることなど、できるはずもなかった。
「一人ではなく、私たちも一緒に対話をしましょう」
エレノアは静かに、しかしはっきりと言った。
「あなた一人に背負わせるつもりはないわ」
「エレノア……」
「叔父様、何か案はありますか」
バルドゥールはしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「殿下にも、この件を報告する必要がある。カイの元仲間たちが、南区でどれほどの規模で動いているのか、まずはそれを把握しなければならない」
「規模、ですか」
「ああ。もし三人だけでなく、もっと多くの者たちが関わっているのなら、対応も変わってくる」
バルドゥールは立ち上がり、窓の外の暗い路地を見つめた。
「明日、殿下に報告する。それまでは、工房の警戒を最大限に強めるしかない。カイ、お前は絶対に一人で外へは出るな」
「……分かった」
カイは低く答えたが、その表情には、まだ消えない葛藤の色が浮かんでいた。
バルドゥールが官舎へ戻った後、工房には重い静寂が残された。エレノアはカイの隣に腰を下ろし、静かに声をかけた。
「さっきの叔父様の言葉、気にしないで」
「気にするなって言う方が、無理な話だ」
カイは俯いたまま、低く答えた。
「あの人の言うことは、間違ってない。俺がここにいるから、お前たちが危険な目に遭う」
「それは違うわ」
エレノアは首を振った。
「危険なのは、あなたのせいじゃない。誤解している人たちのせいよ」
「誤解だとしても、原因は俺だ」
カイは顔を上げ、エレノアをまっすぐに見た。
「もし、俺がいなくなれば、あいつらはもう来ないかもしれない」
「それは駄目よ」
エレノアは即座に、強い口調で言った。
「あなたがいなくなることは、絶対に許さないわ。自分の意思でないのなら、ね」
カイは驚いたように、エレノアを見つめた。
「あなたは、もう独りじゃないって言ったでしょう。それは、今も変わらないわ」
カイはしばらく何も言わなかった。やがて、小さく、しかし確かに頷いた。
「……分かった。逃げない」
その言葉に、エレノアは静かに安堵の息を吐いた。
夜はさらに深くなっていく。護衛たちの控えめな足音が、工房の周囲を、途切れることなく朝を迎えていった。




