↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第三章 灯火の調香師

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
102/104

第101話 叔父様の叱責

 その夜、バルドゥールが工房に駆けつけたのは、日付が変わる前のことだった。


「エレノア!怪我をしたと聞いたが……ッ」


 扉を開けるなり、彼は珍しく声を荒げた。エレノアの頬に貼られた布を見て、その表情がさらに険しくなる。


「大丈夫です、叔父様。かすり傷ですから」


「大丈夫なものか」


 バルドゥールは近づき、エレノアの頬を確かめるように顔を寄せた。


「侵入者は、全部で三名と聞いた」


「はい。護衛の方も一人、頭に怪我を負われました」


「そちらは今、手当てをさせている。命に別状はない」


 バルドゥールは低く息を吐き、椅子に腰を下ろした。しかしその瞳には、まだ収まらない怒りがくすぶっているようだった。


「カイ、お前は無事か」


「……ああ」


 少し離れた場所に立っていたカイが、硬い声で答えた。バルドゥールはしばらく彼を見つめた後、静かに問いを重ねた。


「あの三人は、お前の元の仲間だと聞いた」


「そうだ」


「詳しく話せ」


 カイは一瞬躊躇したが、やがて重い口を開いた。あの頬に傷のある男が「八十六」と呼んだこと、そして「洗脳されている」と誤解していること。すべてを聞き終えたバルドゥールは、しばらく無言だった。


「つまり、あの者たちは、お前を悪から救い出そうとしている、というわけか」


「……そういうことに、なるんだと思う」


 バルドゥールは眉間に深い皺を刻んだまま、静かに続けた。


「彼らの目的が、悪意ではなく誤解に基づくものだとしても、実際にエレノアが傷つけられたことに変わりはない」


 その言葉に、カイの表情が、目に見えて強張った。


「分かってる」


「分かっているなら、なぜお前は、まだそこに突っ立っている」


 バルドゥールの声が、これまでになく鋭くなった。


「エレノアを守れたことは評価する。だが、お前がここにいる限り、また同じことが起きる可能性がある。それを分かっているのか」


「叔父様」


 エレノアが慌てて口を挟んだ。しかしバルドゥールは、手で制した。


「エレノア、お前は黙っていろ。これは、カイに言わねばならないことだ」


 バルドゥールはカイをまっすぐに見据えた。


「お前の元仲間たちは、お前を取り戻すまで諦めないと言ったそうだな。ならば、次はもっと周到に、もっと多い人数で来るかもしれない。その時、エレノアだけでなく、リリアやソフィー、あるいは近隣の者たちまで巻き込まれる可能性がある」


 カイは何も言い返せなかった。ただ、拳を握りしめ、俯いていた。


「叔父様、それは言い過ぎです」


 エレノアが再び口を挟んだ。今度はバルドゥールも、彼女を止めなかった。


「カイのせいではありません。彼は、私を守ろうとしてくれました」


「分かっている。だからこそ、言っているのだ」


 バルドゥールは静かに、しかし厳しい声で続けた。


「守ろうとする気持ちがあるなら、なおさら、自分がこの場にいることの意味を、真剣に考えるべきだ」


 その言葉に、カイの肩が、微かに震えた。


「……俺が、いなくなればいいのか」


「そうは言っていない」


 バルドゥールは首を振った。


「だが、何の対策も講じずに、ただここにいることが正しいとも思えない。お前自身、あの元仲間たちと、いずれきちんと向き合わねばならないだろう」


 沈黙が落ちた。工房の中に、蝋燭の炎が揺れる音だけが響いていた。


「叔父様」


 エレノアが静かに口を開いた。


「カイに、工房を去れとおっしゃっているのですか」


「だから、そうは言っていない、と言ったはずだ」


 バルドゥールは疲れたように息を吐いた。


「私が言いたいのは、このまま何もせず、ただ守りを固めるだけでは、根本的な解決にならないということだ。カイの元仲間たちが、誤解を抱いたままである限り、彼らは何度でも来るだろう」


「では、どうすればいいのでしょうか」


「対話をする必要がある。誤解を解くための、直接の対話を」


 バルドゥールはそう言いながらも、その表情には迷いが見えた。


「だが、それには危険が伴う。向こうは、こちらを敵だと信じ込んでいる。下手に接触すれば、また今夜のような事態になりかねない」


 カイが、ゆっくりと顔を上げた。


「俺が、一人で会う」


「「駄目だ」」


 エレノアとバルドゥールが、同時に声を上げた。


「一人では行かせられないわ」


 バルドゥールが続けた。


「そうだ。お前が一人で行けば、力ずくで連れ去られる可能性もある。あるいは、お前を助けるためだと称して、また同じような衝突が起きるかもしれない」


「だが、俺が行かなければ、あいつらは何度でも来るんだ」


 カイの声には、これまでにない強い意志があった。


「エレノアや、他の皆を、危険にさらしたくない」


 エレノアは、その言葉に胸が締め付けられた。カイが、自分の身を挺してでも、皆を守ろうとしている。その気持ちは痛いほど伝わってきたが、同時に、彼を一人で危険な場所に行かせることなど、できるはずもなかった。


「一人ではなく、私たちも一緒に対話をしましょう」


 エレノアは静かに、しかしはっきりと言った。


「あなた一人に背負わせるつもりはないわ」


「エレノア……」


「叔父様、何か案はありますか」


 バルドゥールはしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。


「殿下にも、この件を報告する必要がある。カイの元仲間たちが、南区でどれほどの規模で動いているのか、まずはそれを把握しなければならない」


「規模、ですか」


「ああ。もし三人だけでなく、もっと多くの者たちが関わっているのなら、対応も変わってくる」


 バルドゥールは立ち上がり、窓の外の暗い路地を見つめた。


「明日、殿下に報告する。それまでは、工房の警戒を最大限に強めるしかない。カイ、お前は絶対に一人で外へは出るな」


「……分かった」


 カイは低く答えたが、その表情には、まだ消えない葛藤の色が浮かんでいた。


 バルドゥールが官舎へ戻った後、工房には重い静寂が残された。エレノアはカイの隣に腰を下ろし、静かに声をかけた。


「さっきの叔父様の言葉、気にしないで」


「気にするなって言う方が、無理な話だ」


 カイは俯いたまま、低く答えた。


「あの人の言うことは、間違ってない。俺がここにいるから、お前たちが危険な目に遭う」


「それは違うわ」


 エレノアは首を振った。


「危険なのは、あなたのせいじゃない。誤解している人たちのせいよ」


「誤解だとしても、原因は俺だ」


 カイは顔を上げ、エレノアをまっすぐに見た。


「もし、俺がいなくなれば、あいつらはもう来ないかもしれない」


「それは駄目よ」


 エレノアは即座に、強い口調で言った。


「あなたがいなくなることは、絶対に許さないわ。自分の意思でないのなら、ね」


 カイは驚いたように、エレノアを見つめた。


「あなたは、もう独りじゃないって言ったでしょう。それは、今も変わらないわ」


 カイはしばらく何も言わなかった。やがて、小さく、しかし確かに頷いた。


「……分かった。逃げない」


 その言葉に、エレノアは静かに安堵の息を吐いた。


 夜はさらに深くなっていく。護衛たちの控えめな足音が、工房の周囲を、途切れることなく朝を迎えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。