第102話 橋を架ける
翌朝、バルドゥールが再び工房を訪れた。昨夜とは違い、その表情には、いくらか落ち着きが戻っていた。
「殿下への報告は済ませた」
バルドゥールは簡潔に告げた。
「南区一帯の警備を、今日からさらに強化される。ただし、大々的に騒ぎ立てることはしない。あくまで目立たない形での対応だ」
「ありがとうございます」
エレノアが頭を下げると、バルドゥールは椅子に腰を下ろし、静かに続けた。
「それで、昨夜の話の続きだが」
「対話の件ですね」
「ああ。だが、どうやって接触するかが問題だ。向こうがまた強引な手段に出れば、今度こそ双方に大きな被害が出かねない」
カイは黙って、作業台の隅に置かれた薬草の束を見つめていた。しばらくして、ぽつりと口を開いた。
「あいつらが、また来るなら……多分、次も似たようなやり方だ。急に踏み込んで、力ずくで連れ去ろうとする」
「では、待ち構えるだけでは、また衝突を招くだけということね」
エレノアが言うと、カイは頷いた。
「先に、こっちから声をかけた方がいい」
「どうやって?」
カイはしばらく考え込んだ後、静かに言った。
「あいつらが情報を集めてるなら、必ず、この工房の周りをまだ見張ってるはずだ。俺が、あえて一人で表に出れば、接触してくるかもしれない」
「駄目よ、それは」
エレノアが即座に首を振った。
「一人で行かせるつもりはないと、昨夜言ったはずよ」
「分かってる。でも、俺が一人でいるように見せかけるだけだ」
カイは少し声を落とした。
「実際には、近くにお前や護衛が隠れていて、様子を見る。あいつらが接触してきたら、そこで対話を持ちかける」
バルドゥールが腕を組み、考え込んだ。
「囮のような形にする、ということか」
「ああ」
「危険が伴う」
「分かってる。でも、待っているだけじゃ、何も変わらない」
カイの声には、確かな覚悟が滲んでいた。バルドゥールはしばらくカイを見つめ、それからエレノアに視線を移した。
「エレノア、お前はどう思う」
エレノアは少し考えてから、静かに答えた。
「危険なのは承知していますが……カイの言う通り、待っているだけでは、きっと同じことの繰り返しになります」
「なら、条件を決めよう」
バルドゥールが言った。
「カイが一人でいるように見せかける場所は、必ず私や護衛の目が届く範囲に限る。武器を持たせず、いざという時にすぐ助けに入れる位置取りを徹底する」
「分かった」
「エレノア、お前も現場には行くだろうが、決して前に出るな。今度こそ、怪我では済まないかもしれない」
バルドゥールの声には、有無を言わせない強さがあった。エレノアは静かに頷いた。
「約束します」
その日の午後、三人は工房の裏手にある小さな空き地で、具体的な段取りを話し合った。カイが工房の外、人通りの少ない路地に一人で立ち、薬草を摘む振りをする。その間、エレノアは工房の窓から様子を窺い、バルドゥールと護衛数名は、周囲の物陰に潜んで待機する――そういう計画だった。
「もし、あいつらが来たら、俺はまず話を聞く姿勢を見せる」
カイが言った。
「殴りかかってきたりしたら?」
「その時は、護衛が動く。だが、できるだけ穏便に済ませたい」
バルドゥールは頷いた。
「殿下からも、可能な限り死傷者を出さないようにと指示が出ている。彼らもまた、グレゴールの被害者だという認識があるのだろう」
その言葉に、カイは少し驚いたような顔をした。
「殿下が、そんなことを」
「ああ。誤解に基づく行動だとしても、根は同じ境遇にある者たちだ。無闇に傷つけることは、殿下も望んでいない」
カイは何も言わなかったが、その表情には、これまでとは違う、微かな安堵の色が浮かんでいた。
夕方、実行の準備が整った。カイは工房の裏口から、目立たない服装で外へ出た。籠を片手に、薬草を摘む振りをしながら、ゆっくりと路地を歩いていく。
エレノアは工房の窓から、その背中を見守った。心臓が早鐘のように打っている。カイが危険にさらされていることに、変わりはなかった。
「大丈夫よ」
隣に立つリリアが、そっとエレノアの手を握った。
「叔父様たちが、ちゃんと見てくれてるから」
エレノアは小さく頷いた。しかし、路地の奥に消えていくカイの背中を見つめながら、祈るような気持ちを抑えられなかった。
(無事に、帰ってきて)
夕暮れの光が、石畳に長い影を落としている。カイの姿が路地の角を曲がり、見えなくなった瞬間、エレノアは息を止めた。
しばらくして、路地の奥から、微かな話し声が聞こえてきた。
誰かと、誰かが、言葉を交わしている。その内容までは、ここからは聞き取れない。
エレノアは窓枠を強く握りしめ、じっと耳を澄ませた。




