第103話 名もなき者たちの宿
カイが路地の奥に消えてから、どれほどの時間が経っただろうか。
声のやり取りは続いていたが、内容までは聞き取れない。エレノアは息を殺し、じっと耳を澄ませ続けた。やがて足音が遠ざかり、静寂が戻った。
しばらくして、カイが一人で戻ってきた。表情は硬かったが、怪我をしている様子はない。
「無事だったのね……!」
エレノアが駆け寄ると、カイは小さく頷いた。
「あいつらの一人と、少しだけ話せた」
「本当に?」
「ああ。まだ全部は信じてもらえてないが……次に、もう少し落ち着いた場所で話す約束ができた」
バルドゥールも路地から戻ってきて、静かに頷いた。
「上出来だ。無理に踏み込まず、対話の糸口を作れたのは大きい。よくやった」
その後、カイは元仲間との短いやり取りの内容を、皆に語った。頬に傷のある若い男の名は、レオという。カイと同じく、幼くして奴隷市場を経て、グレゴールの元へ売られた過去を持つ人物だった。
「レオは、俺のことを、まだ疑ってる。でも、少しは話を聞く気になったみたいだ」
「彼らは今、どこにいるのかしら」
エレノアが尋ねると、カイは首を振った。
「はっきりとは言わなかった。でも……」
カイは少し考え込んだ後、続けた。
「南区の外れに、名もない安宿があるって噂を、昔聞いたことがある。行き場のない者たちが、金を出し合って寝泊まりする場所だ。多分、あいつらもそこにいるんじゃないかと思う」
バルドゥールが眉を寄せた。
「その宿の場所は分かるか」
「大体の見当はつく。運河沿いの、古い倉庫街の近くだったはずだ」
その言葉に、エレノアの脳裏に、かつての記憶が蘇った。グレゴールの一件で調査した、あの運河沿いの倉庫。場所は違うかもしれないが、同じ一帯だという事実に、奇妙な因縁を感じずにはいられなかった。
数日後、カイは再びレオと接触する約束を交わした。カイの希望で今回はエレノアも同行することになった。ただし、バルドゥールと護衛たちは、少し離れた場所で待機するという条件付きだった。
夕暮れ時、二人は運河沿いの一角へと向かった。古びた建物が立ち並ぶ、薄暗い通りだった。かつての倉庫街の記憶が、エレノアの胸に緊張を走らせる。
「あそこだ」
カイが指し示したのは、看板もない、粗末な木造の建物だった。窓には板が打ち付けられ、外からは人の気配すら感じられない。
扉を叩くと、しばらくして、レオが顔を出した。以前よりも警戒心を強めた様子で、エレノアの姿を見ると、露骨に眉をひそめた。
「なんで、この女も連れてきた」
「話をするなら、エレノアも一緒じゃないと意味がない」
カイが静かに言うと、レオはしばらく躊躇した後、渋々と中へ通した。
建物の中は、想像していたよりも質素だった。粗末な寝台がいくつか並び、壁際には、痩せた体つきの者たちが数人、こちらを警戒するような目で見つめている。
「ここにいる皆が……」
エレノアが小さく呟くと、レオが低く答えた。
「グレゴールの組織が崩壊した後、行き場を失った奴らだ。全員、俺たちみたいに、他に生きる術を知らない者たちだ」
その言葉に、エレノアは胸が締め付けられた。カイと同じように、道具として扱われ、突然自由を与えられても、どう生きればいいのか分からない者たち。彼らの目に浮かぶ、警戒と不安の色が、痛いほど伝わってきた。
「話がある」
カイが静かに切り出した。
「エレノアは、俺を縛ってなんかいない。俺は、自分の意志で、あそこにいる」
「まだ、信じきれないな」
レオが即座に反論した。
「グレゴールの組織じゃ、逆らえば罰を受けた。それが染み付いてる俺たちに、自分の意志で誰かのために動くなんてのは、想像もつかない」
「でも、本当なんだ」
カイは静かに、しかし力強く続けた。
「あの工房では、誰も俺を殴らない。誰も俺を、番号で呼ばない。……エレノアは、初めて俺を、名前で呼んでくれた人だ」
レオの表情が、わずかに揺らいだ。
「名前……」
「そうだ。カイって、呼んでくれた」
沈黙が落ちた。壁際にいた者たちも、静かに耳を傾けている。
エレノアは、静かに一歩前に出た。
「私からも、伝えたいことがあります」
レオが警戒するように視線を向けたが、エレノアは怯まず続けた。
「カイは、私の工房で、香りの調合を学んでいます。とても筋がよくて、誰かのために香りを作ってくれています。」
「……嘘だ」
「嘘ではありません。もしよろしければ、皆さんも一度、工房にいらしてください。カイが本当に、どんな風に過ごしているか、その目で確かめていただけたら」
レオはしばらく無言だった。他の者たちも、戸惑うような表情で顔を見合わせている。
「なぜ、そこまでする」
やがて、レオが低く尋ねた。
「俺たちは、お前を襲った。傷つけもした。それでも、招くのか」
「あなたたちは、カイを助けようとしていただけでしょ」
エレノアは静かに答えた。
「誤解に基づいた襲撃だったとしても、その気持ち自体は、優しさから来ているのだと私は思っています」
レオの目に、複雑な感情が浮かんだ。憎しみでも敵意でもない、戸惑いと、微かな羨望のようなもの。
「……考えさせてくれ」
それだけ言うと、レオは多くを語ろうとはしなかった。エレノアとカイは、それ以上の踏み込みを避け、静かにその場を辞した。
外に出ると、夕闇がすっかり辺りを覆っていた。カイは無言のまま、しばらく宿の方を振り返っていた。
「少しでも伝わったらいいわね」
エレノアが声を掛けると、カイは静かに頷いた。
「分からない。でも……前よりは、話ができた気がする」
二人は、待機していたバルドゥールたちの元へと戻った。今日の対話の内容を報告すると、バルドゥールは静かに頷いた。
「時間はかかるだろうが、悪くない一歩だ」
その言葉に、エレノアは静かに息を吐いた。まだ何も解決していない。しかし、対立から対話へと、確かに一歩、進み始めていた。




