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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第三章 灯火の調香師

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第103話 名もなき者たちの宿

 カイが路地の奥に消えてから、どれほどの時間が経っただろうか。


 声のやり取りは続いていたが、内容までは聞き取れない。エレノアは息を殺し、じっと耳を澄ませ続けた。やがて足音が遠ざかり、静寂が戻った。


 しばらくして、カイが一人で戻ってきた。表情は硬かったが、怪我をしている様子はない。


「無事だったのね……!」


 エレノアが駆け寄ると、カイは小さく頷いた。


「あいつらの一人と、少しだけ話せた」


「本当に?」


「ああ。まだ全部は信じてもらえてないが……次に、もう少し落ち着いた場所で話す約束ができた」


 バルドゥールも路地から戻ってきて、静かに頷いた。


「上出来だ。無理に踏み込まず、対話の糸口を作れたのは大きい。よくやった」


 その後、カイは元仲間との短いやり取りの内容を、皆に語った。頬に傷のある若い男の名は、レオという。カイと同じく、幼くして奴隷市場を経て、グレゴールの元へ売られた過去を持つ人物だった。


「レオは、俺のことを、まだ疑ってる。でも、少しは話を聞く気になったみたいだ」


「彼らは今、どこにいるのかしら」


 エレノアが尋ねると、カイは首を振った。


「はっきりとは言わなかった。でも……」


 カイは少し考え込んだ後、続けた。


「南区の外れに、名もない安宿があるって噂を、昔聞いたことがある。行き場のない者たちが、金を出し合って寝泊まりする場所だ。多分、あいつらもそこにいるんじゃないかと思う」


 バルドゥールが眉を寄せた。


「その宿の場所は分かるか」


「大体の見当はつく。運河沿いの、古い倉庫街の近くだったはずだ」


 その言葉に、エレノアの脳裏に、かつての記憶が蘇った。グレゴールの一件で調査した、あの運河沿いの倉庫。場所は違うかもしれないが、同じ一帯だという事実に、奇妙な因縁を感じずにはいられなかった。


 数日後、カイは再びレオと接触する約束を交わした。カイの希望で今回はエレノアも同行することになった。ただし、バルドゥールと護衛たちは、少し離れた場所で待機するという条件付きだった。


 夕暮れ時、二人は運河沿いの一角へと向かった。古びた建物が立ち並ぶ、薄暗い通りだった。かつての倉庫街の記憶が、エレノアの胸に緊張を走らせる。


「あそこだ」


 カイが指し示したのは、看板もない、粗末な木造の建物だった。窓には板が打ち付けられ、外からは人の気配すら感じられない。


 扉を叩くと、しばらくして、レオが顔を出した。以前よりも警戒心を強めた様子で、エレノアの姿を見ると、露骨に眉をひそめた。


「なんで、この女も連れてきた」


「話をするなら、エレノアも一緒じゃないと意味がない」


 カイが静かに言うと、レオはしばらく躊躇した後、渋々と中へ通した。


 建物の中は、想像していたよりも質素だった。粗末な寝台がいくつか並び、壁際には、痩せた体つきの者たちが数人、こちらを警戒するような目で見つめている。


「ここにいる皆が……」


 エレノアが小さく呟くと、レオが低く答えた。


「グレゴールの組織が崩壊した後、行き場を失った奴らだ。全員、俺たちみたいに、他に生きる術を知らない者たちだ」


 その言葉に、エレノアは胸が締め付けられた。カイと同じように、道具として扱われ、突然自由を与えられても、どう生きればいいのか分からない者たち。彼らの目に浮かぶ、警戒と不安の色が、痛いほど伝わってきた。


「話がある」


 カイが静かに切り出した。


「エレノアは、俺を縛ってなんかいない。俺は、自分の意志で、あそこにいる」


「まだ、信じきれないな」


 レオが即座に反論した。


「グレゴールの組織じゃ、逆らえば罰を受けた。それが染み付いてる俺たちに、自分の意志で誰かのために動くなんてのは、想像もつかない」


「でも、本当なんだ」


 カイは静かに、しかし力強く続けた。


「あの工房では、誰も俺を殴らない。誰も俺を、番号で呼ばない。……エレノアは、初めて俺を、名前で呼んでくれた人だ」


 レオの表情が、わずかに揺らいだ。


「名前……」


「そうだ。カイって、呼んでくれた」


 沈黙が落ちた。壁際にいた者たちも、静かに耳を傾けている。


 エレノアは、静かに一歩前に出た。


「私からも、伝えたいことがあります」


 レオが警戒するように視線を向けたが、エレノアは怯まず続けた。


「カイは、私の工房で、香りの調合を学んでいます。とても筋がよくて、誰かのために香りを作ってくれています。」


「……嘘だ」


「嘘ではありません。もしよろしければ、皆さんも一度、工房にいらしてください。カイが本当に、どんな風に過ごしているか、その目で確かめていただけたら」


 レオはしばらく無言だった。他の者たちも、戸惑うような表情で顔を見合わせている。


「なぜ、そこまでする」


 やがて、レオが低く尋ねた。


「俺たちは、お前を襲った。傷つけもした。それでも、招くのか」


「あなたたちは、カイを助けようとしていただけでしょ」


 エレノアは静かに答えた。


「誤解に基づいた襲撃だったとしても、その気持ち自体は、優しさから来ているのだと私は思っています」


 レオの目に、複雑な感情が浮かんだ。憎しみでも敵意でもない、戸惑いと、微かな羨望のようなもの。


「……考えさせてくれ」


 それだけ言うと、レオは多くを語ろうとはしなかった。エレノアとカイは、それ以上の踏み込みを避け、静かにその場を辞した。


 外に出ると、夕闇がすっかり辺りを覆っていた。カイは無言のまま、しばらく宿の方を振り返っていた。


「少しでも伝わったらいいわね」


 エレノアが声を掛けると、カイは静かに頷いた。


「分からない。でも……前よりは、話ができた気がする」


 二人は、待機していたバルドゥールたちの元へと戻った。今日の対話の内容を報告すると、バルドゥールは静かに頷いた。


「時間はかかるだろうが、悪くない一歩だ」


 その言葉に、エレノアは静かに息を吐いた。まだ何も解決していない。しかし、対立から対話へと、確かに一歩、進み始めていた。

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