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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第三章 灯火の調香師

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第104話 若さゆえの過ち

 レオたちとの対話から三日が経った。


 工房には、これといった動きもなく、穏やかな日常が戻りつつあった。しかしエレノアもカイも、心のどこかで、まだ気を緩めてはいなかった。


「レオさん、あれからどう思ってるのかしら」


 昼下がり、薬草を束ねながらエレノアが呟くと、カイは手を止めずに答えた。


「分からない。でも、あいつは、話を最後まで聞いてくれた。それだけでも、前とは違う」


「そうね」


 エレノアは静かに頷いた。あの安宿で見た、痩せた者たちの警戒に満ちた目。それでも、レオの表情には、確かに何かが揺らいでいた。


 その夜、事件は起きた。


 深夜、工房の裏口に、複数の人影が忍び寄る気配があった。護衛の一人がいち早く気づき、静かに合図を送った。


「動きがあり」


 バルドゥールの部下から知らせを受け、待機していたバルドゥール自身も、すぐに現場へと向かった。


 裏口に近づいてきたのは、三人の若い男たちだった。以前工房を襲った三人とは違う、まだ十代半ばと思しき少年たちだ。手には、粗末なナイフや棍棒を握りしめている。


「今度こそ、八十六を取り戻すぞ」


 一人が小声で言った。


「レオの兄貴は、まだ様子見なんて悠長なこと言ってるけど、俺たちはもう待てない」


「あの女が、洗脳道具を持ってるかもしれない。先に踏み込んで、確かめるぞ」


 少年たちは、興奮と焦りの入り混じった表情で、裏口の扉に手をかけた。


 しかし、その計画は、あまりにも拙かった。


 扉に手をかけた瞬間、物陰に潜んでいた護衛たちが、一斉に姿を現した。


「動くな!」


 鋭い声が響いた瞬間、少年たちは弾かれたように後退った。しかし逃げ場はすでに塞がれていた。路地の両端に、バルドゥールの手配した護衛たちが、静かに包囲網を敷いていたのだ。


「くそ、囲まれた……!」


 一人がナイフを振りかざしながらバルドゥールへと走った。しかし、バルドゥールはその手首を素早く掴んで捻り上げた。


「痛っ……!」


「暴れるな。怪我はしたくないだろう」


 バルドゥールの声は冷静だった、有無を言わせぬ力強さがあった。他の二人も大した抵抗はできず、あっという間に護衛に取り押さえられる。


 物音に気づいたエレノアとカイは、工房の中からその様子を見守っていた。


「あいつらは……」


 カイが窓の隙間から外を覗き、顔を強張らせた。


「知ってる顔だ。レオの下にいた、若い奴らだ」


「レオさんの指示ではないわよね……」


「多分、違う。レオの様子からしてまずないと思う」


 外では、取り押さえられた少年たちが、悔しそうに地面に膝をついていた。誰も刃物を振るうことなく、誰も殴られることなく、あっけないほど静かに事態は収束していた。


「怪我人は出してないな」


 バルドゥールが確認すると、護衛たちが次々と報告を上げた。幸い、少年たちも護衛たちも、誰一人として傷を負ってはいなかった。計画があまりにも性急で、準備も不十分だったことが、かえって被害を最小限に抑える結果となっていた。


「お前たち、名は」


 バルドゥールが問いただしたが、少年たちは頑なに口を閉ざしていた。


「あの男が命じたのか」


 その問いにも、答えはなかった。しかし、一人の少年の目に浮かんだ動揺が、その答えを雄弁に物語っていた。


「悪いが、今夜のところは拘束させてもらう。もちろん、手荒な真似はしないと約束しよう」


 バルドゥールはそう言うと、護衛たちに指示を出し、少年たちを近衛の詰所へと連行させた。


 工房の中では、エレノアとカイが、緊張の解けた体で、静かに立ち尽くしていた。


「怖かったか?」


 カイが尋ねると、エレノアは小さく首を振った。


「あなたたちが、守ってくれると分かっていたから大丈夫よ」


 カイは何も言わなかったが、その表情には、複雑な思いが浮かんでいた。


「レオの下の……あいつらも、俺と同じなんだ。焦って動いて。でも、おかげで今日は誰も傷つかなかった」


「それは、良かったことね」


「ああ」


 カイは静かに頷いた。しかしその声には、まだ拭いきれない不安が残っているようだった。


 翌朝、バルドゥールが工房を訪れ、昨夜の顛末を報告した。


「捕らえた三人は、彼の指示で動いてはなかった。若い者たちが焦れて勝手に動いてしまったようだ。彼自身も、把握していなかったようだ」


「レオさんは、どうしているのでしょうか」


「知らせを送らせた者によると、かなり動揺していたとそうだ。仲間内でも、意見が割れ始めているのだろう」


 バルドゥールは少し考え込んだ後、続けた。


「今回の件、処罰は最小限に留める。殿下の意向でもあるし、彼らもまた、被害者の側面が強いことを考慮してのことだ」


 その言葉に、エレノアは静かに安堵した。


「対話の糸口が、途切れないといいのですが」


「そうだな。……彼の判断次第だろう」



 

 その日の午後、工房には、いつもの穏やかな空気が少しずつ戻っていた。マルタが顔を出し、リリアとソフィーも様子を見に来てくれた。


「昨夜は大変だったんだってね。もう、大丈夫なの?」


 リリアが心配そうに尋ねると、エレノアは静かに微笑んだ。


「ええ、皆のおかげで」


「ならよかった〜。もう、なんだかいつも大変だから慣れてきちゃったよ」


 その後もたわいない会話を交わし、エレノアは肩の力が少し抜けるのを久しぶりに感じた。



 

 夕方、店じまいの支度をしていると、後ろにに人影が立っていた。振り返ると、そこにいたのは、あの飄々とした行商人だった。


「久しぶりですなぁ、女店主さん」


 人懐こい笑みを浮かべながら、彼は工房の中を一瞥した。


「何やら、物騒な噂を耳にしましたが……お変わりない様子で、何よりです」


 エレノアは静かに身構えながら、努めて平静を装った。


「ご心配ありがとうございます。特に、何も」


「そうですかい。まあ、何かあれば、いつでもお力になりますさかい。商いは助け合いですからな」


 男はそう言うと、懐から新しい香料の包みを取り出し、作業台にそっと置いた。


「今度のは、少し珍しい品でしてね。よろしければ、また試してみてください」


 それだけ言い残すと、男は飄々とした足取りで、夕闇の中へと消えていった。


 エレノアは、置かれた包みをしばらく見つめていた。開くまでもなく、以前と同じ、あの独特な香りが、微かに漂ってきていた。


(また、来たわね)


 カイの元仲間たちとの間に、ようやく小さな橋が架かり始めた矢先。それとは全く別の場所で、静かに、しかし確実に、何かがまだ動き続けているのを、エレノアは感じずにはいられなかった。

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