第81話 名もなき少年
翌朝、エレノアはバルドゥールに、もう一度少年との面会を願い出た。
「昨夜、殿下からもお許しをいただきました。囮作戦の詳細を詰める前に、あの子と話をさせてください」
バルドゥールはしばらく渋っていたが、やがて折れた。
「短い時間だけだ。護衛も必ず同席させる」
離れの地下、質素な牢に少年は入れられていた。手当てを受けたのか、腕には包帯が巻かれている。しかし表情は硬く、エレノアが近づいても、視線すら合わせようとしなかった。
「おはよう」
エレノアが声をかけても、少年は無言だった。エレノアは牢の格子の前に、静かに腰を下ろした。
「食事は、ちゃんと食べた?」
「……なんで、そんなことを気にする」
低く、抑揚のない声だった。エレノアは少し考えてから、正直に答えた。
「気になったから。ただそれだけよ」
少年は俯いたまま、答えなかった。エレノアはしばらく沈黙を保ち、それから静かに続けた。
「名前を聞いてもいい?」
「……ない」
「ない?」
「名前なんてない。番号で呼ばれてた」
その言葉に、エレノアの胸が締め付けられた。番号。人ではなく、道具として扱われてきた証だった。
「あなたは、グレゴールという人の元でずっと仕事をしてきたの?」
少年は答えなかった。しかし、その沈黙自体が、答えのようなものだった。
「あなたを買った人は、あなたに何を教えたの」
「……役に立つことを、教えられた」
少年は初めて、エレノアの方を見た。その目には、警戒と共に、何か底知れない疲れのようなものが滲んでいた。
「見張り、追跡、忍び込み、時には……もっと汚い仕事も」
「汚い仕事」
「脅す。痛めつける。……人を、殺したこともある」
エレノアは息を止めた。しかし目を逸らさなかった。少年の言葉には、悔恨のようなものと、開き直りのようなものが、複雑に入り混じっていた。
「怖くはないのか」
少年が、逆に問いかけてきた。
「なんで平然と座っていられる。俺は、お前を殺せと言われれば、迷わずやったかもしれないのに」
「怖くない、と言えば嘘になるわ」
エレノアは静かに答えた。
「でも、あなたが今、私を傷つけようとしていないことは分かる。それに」
エレノアは少年をまっすぐに見た。
「あなたが本当にそういう人間なら、昨夜、私に『怪我はないか』と聞かれて、あんな顔はしなかったと思う」
少年の表情が、わずかに動いた。
「……あんな顔って、なんだ」
「戸惑っている顔。誰かに、気にかけられたことがない人の顔」
少年は何も言わなかった。ただ、視線を床に落とし、拳を強く握りしめていた。
「俺は、ただの道具だ」
やがて、絞り出すような声で言った。
「グレゴール様にとっても、他の誰にとっても。役に立つ間だけ、価値がある」
「そんなことはないわ」
エレノアはきっぱりと言った。
「誰も、道具なんかじゃない。それは、あなたもよ」
少年は顔を上げ、エレノアを睨むように見た。しかしその目には、怒りよりも、戸惑いと、微かな期待のようなものが浮かんでいた。
「なんで、そんなこと言う。俺はお前の敵だったんだぞ」
「敵かどうかは、これからのあなた次第だと思うわ」
エレノアは静かに続けた。
「もしあなたが、これ以上誰かを傷つけたくないと思うなら……その気持ちを、大切にしてほしい」
長い沈黙が落ちた。地下牢の湿った空気の中、蝋燭の灯りが静かに揺れている。
「お願い、グレゴールは次に何をしようとしているの」
エレノアが静かに尋ねると、少年の体が、わずかに強張った。
「……知らない」
「本当に?」
「知らない。俺は、下っ端だ。計画なんて知らされてるわけない」
「でも、何か知っていることはあるでしょう」
少年はしばらく黙っていたが、やがて低く言い始めた。
「近々、大きな『仕事』があるとは聞いた。詳しい中身は知らない。ただ……『組』という言葉を、何度か聞いたことがある」
エレノアの心臓が跳ねた。灰の中に残っていた文字と、一致する。
「『組』というのは」
「分からない。ただ、グレゴール様が、その言葉を口にする時は、いつも怖かった」
エレノアは静かに頷き、少年に向かって身を乗り出した。
「あなたの協力があれば、その『仕事』を止められるかもしれない」
「……俺を、利用するつもりか」
「利用、じゃないわ」
エレノアは首を振った。
「一緒に、止めたいの」
少年は再び黙り込んだ。その内側で、何かが激しくせめぎ合っているのが、傍目にも分かった。
「俺が協力したところで、どうせ……」
「あなたが望むなら、その後のことも考える。少なくとも、私にできることは」
エレノアは静かに、しかし確かな声で言った。
「あなたを、道具のままになんかしない」
少年の目が、大きく見開かれた。それから、震える息を吐き、両手で顔を覆った。
長い間、少年は何も言わなかった。エレノアもまた、無言でその時間を見守った。
護衛が、そろそろ時間だと合図を送ってきた。エレノアは立ち上がりながら、最後にもう一度、少年に声をかけた。
「また、来るわね」
少年は顔を覆ったまま、答えなかった。しかしエレノアが牢を離れる直前、小さな声が聞こえた気がした。
「……カイ」
エレノアは足を止め、振り返った。
「え?」
「昔……誰かが、そう呼んでいた気がする。カイって」
少年——カイは、顔を上げ、初めて自分から名乗った。その声には、これまでにない、微かな柔らかさがあった。
「カイ……」
エレノアは、その名前を静かに繰り返した。
「よろしくね、カイ」
小さく、しかし確かに、その名前が二人の間に落ちた。
地下牢を後にしたエレノアは、階段を上りながら、静かに息を吐いた。
(あの子も、誰かに救われることを、望んでいたのかもしれない)
外に出ると、バルドゥールが待っていた。
「何か、聞き出せたか」
「はい。『組』という言葉が少し」
エレノアは灰の分析結果と結びつけながら、カイから聞いた話を伝えた。バルドゥールは眉を寄せながら聞いていたが、話が終わると静かに頷いた。
「あの少年、しばらくこちらで保護する。情報源として——」
バルドゥールは一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「まぁ、君が望むなら……手は尽くす」
その言葉に、エレノアは驚いてバルドゥールを見た。彼はいつもの無表情のまま、しかし、その目にはわずかな理解の色があった。
「ありがとうございます、叔父様」
「礼はいい。ただし、油断はするな。まだ完全に信用できると決まったわけではない」
「はい」
エレノアは頷きながら、心の中で静かに思った。
(カイ……あなたも、いつか自分の意志で、誰かのために動けるようになるといいわね)
窓の外、午後の光が北の離れの庭を静かに照らしている。囮作戦の実行は、もう間近に迫っていた。しかし今は、少しだけ、小さな希望の芽生えを、エレノアは大切に胸にしまった。




