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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 城下の調香師

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第80話 エレノアの提案

 翌朝、エレノアが朝食にも手をつけられずにいると、バルドゥールが険しい顔で訪れた。


「少年について、分かったことがある」


「話してくれたのですか」


「いや、頑なに口を割らない。だが、身体検査で分かったことがいくつかある」


 バルドゥールは椅子に腰を下ろし、静かに続けた。


「体中に、古い傷跡が無数にある。躾けられた末にできたようなものだ。それに、右手の甲に、焼き印のような痕がある」


 エレノアは息を飲んだ。


「焼き印……」


「奴隷市場で使われる、所有印の一種だろう。隣国の一部では、いまだにそういう商いが行われている」


 バルドゥールの声には、抑えた怒りが滲んでいた。


「幼くして買われ、殺しや盗み、諜報の技術を叩き込まれる。ヴァルター伯爵家のような一族は、そうした人材を昔から使っていたという噂があった」


 エレノアの胸が、締め付けられるように痛んだ。


「あの子に、会わせていただけませんか」


「駄目だ」


 バルドゥールは即座に首を振った。


「相手は訓練された密偵だ。何をするか分からない」


「でも、あの子は昨夜、私に怪我はないかと聞かれて、戸惑っていました。あれは、演技ではなかったと思います」


「……エレノア」


 バルドゥールの声が、いつになく強くなった。


「情に流されるな。相手はグレゴールの手先だ。お前を油断させるための演技かもしれない」


 エレノアは黙り込んだ。しかし、あの少年の目に浮かんでいた困惑を、演技だとは、どうしても思えなかった。


「叔父様、一つだけお願いがあります」


「何だ」


「あの子に、せめて食事と手当てを。それだけでもさせてください」


 バルドゥールはしばらく無言だったが、やがて小さく息を吐いた。


「……看守を通じて手配する。それ以上は許せない」


「ありがとうございます」


 バルドゥールが立ち上がりかけたところで、エレノアは思い切って口を開いた。


「叔父様、もう一つ、お願いしたいことがあります」


「ふぅ、何だ」


「証拠固めだけでは、グレゴールを追い詰めるのは難しいのではないでしょうか」


 バルドゥールの表情が、わずかに険しくなった。


「何が言いたい」


 エレノアは膝の上で、両手を強く握りしめた。


「グレゴールは、私の存在を警戒しています。『鼻の良い女に用心しろ』という言葉が、それを示しています。……もし、私が表に出て、工房に戻ったように見せかければ」


「駄目だ」


 バルドゥールが遮った。


「言おうとしていることは分かる。だが、絶対に許さん」


「叔父様、聞いてください」


 エレノアは立ち上がり、まっすぐにバルドゥールを見た。


「正攻法での証拠固めは、行き詰まっているんじゃないですか。グレゴールは常に一歩先を読み、痕跡を消し続けています。このままでは、いずれ王都から姿を消すか、あるいは別の場所で同じことを繰り返すだけです」


「だからといって、お前が囮になる必要はない」


「でも、私が動けば、グレゴールは反応せざるを得ないはずです。彼が最も警戒しているのが、私の鼻なのですから」


 バルドゥールは強く首を振った。


「危険すぎる。マリアの二の舞にはさせない」


 その言葉に、エレノアは一瞬、胸を突かれた。しかし、それでも引かなかった。


「叔父様、私は母のように、誰かに脅されて何かをするわけではありません。自分の意志で、真実を追いたいと思っています。それに——」


 エレノアは静かに、しかしはっきりと続けた。


「もし私が何もせず、ここに隠れているだけなら、グレゴールは永遠に捕まらないかもしれません。そうなれば、また誰かが、私の家族のように、理不尽に追い詰められるかもしれない。それは、嫌です」


 長い沈黙が落ちた。


 バルドゥールは、しばらく何も言わなかった。窓の外から、朝の鳥の声が微かに聞こえてくる。


「……殿下にも、この話をするつもりか」


「はい。叔父様が反対されるのは分かっていましたので。でも、これは私自身が決めることだと思っています」


 バルドゥールは深く息を吐き、静かに立ち上がった。


「今、この場で答えは出さない。殿下には私から報告する。だが——」


 彼はエレノアをまっすぐに見た。


「私は、賛成しない。それだけは、覚えておけ」


 そう言い残し、バルドゥールは部屋を後にした。


 その日の夕方、扉が叩かれた。エレノアが応じると、いつもの護衛ではなく、ラインハルト本人が姿を現した。


「バルドゥールから聞いた」


 前置きもなく、ラインハルトは切り出した。声には、いつもより硬い響きがあった。


「囮に志願したそうだな」


「はい」


「却下する」


 短く、迷いのない一言だった。


「殿下——」


「理由は聞くまでもないだろう。危険すぎる」


 ラインハルトは部屋の中央に立ったまま、エレノアを見据えた。


「グレゴールは、すでにお前を脅威と見なしている。表に出れば、確実に狙われる。護衛をどれだけつけたところで、完全に防げる保証はない」


「分かっています」


「分かっているなら、そんなことは言わないはずだ」


 ラインハルトの声に、抑えきれない苛立ちが滲んだ。エレノアはそれを、まっすぐに受け止めた。


「殿下、正攻法での調査が行き詰まっていることは、殿下もご存知のはずです」


「それでも、お前を危険にさらすことは認められない」


「私は、道具として使ってほしいと言っているのではありません」


 エレノアの声が、静かに、しかし強くなった。


「自分の意志で、真実に近づきたいと言っているのです。母のように、理不尽に追い詰められて何かをするのではなく」


 ラインハルトの瞳が、わずかに揺れた。


「エレノア……」


「殿下は、王太子としての立場で、私を止めようとされています。それは正しい判断だと思います」


 エレノアは一度言葉を切り、静かに続けた。


「でも、私は、一人の人間として、決めたいのです」


 沈黙が落ちた。暖炉の炎が、静かに爆ぜる音だけが響いていた。


 ラインハルトは、しばらく何も言わなかった。その表情には、王太子としての判断と、それ以外の何かが、静かにせめぎ合っているように見えた。


「……もし、お前に何かあれば」


 ようやく発せられた声は、これまでよりもずっと低く、掠れていた。


「私は、それを一生背負うことになる」


 その言葉に、エレノアは胸を突かれた。


「殿下……」


「分かっているのか。これは、私情で言っているのではない……」


 ラインハルトは一度目を伏せ、再び顔を上げた。


「いや——正直に言えば、私情もある」


 その告白に、エレノアは息を飲んだ。ラインハルトが、こうもはっきりと私情を口にするのは、初めてのことだった。


「殿下」


「だが」


 ラインハルトは静かに続けた。


「お前の言うことにも、一理ある。正攻法だけでは、グレゴールを追い詰められない。このままでは、遅かれ早かれ、次の被害が出るだろう」


 彼はしばらく黙り込み、やがて低く言った。


「囮の案、検討する。ただし——」


 彼はエレノアをまっすぐに見た。


「あらゆる手を尽くして、お前を守る。バルドゥール、騎士団、近衛、すべてを動員する。」


「はい」


「一つでも、私が危険だと判断すれば、即座に中止する。それには従ってもらう」


「約束いたします」


 ラインハルトは深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。


「詳細は、バルドゥールと詰めよう。……お前は、本当に、頑固な女だな」


 その言葉には、呆れと、どこか柔らかい響きが混じっていた。


「殿下に似たのかもしれません」


 エレノアが小さく返すと、ラインハルトは一瞬、虚をつかれたような顔をした。それから、珍しく口元をわずかに緩めた。


「減らず口も、相変わらずだな」


 夜が更けていく中、二人はしばらく、囮作戦の大まかな方向性について言葉を交わした。工房の再開を装うこと、護衛の配置、合図の取り決め——具体的な段取りは、明日以降バルドゥールと詰めることになった。


 ラインハルトが部屋を出る間際、エレノアは静かに声をかけた。


「殿下、ありがとうございます」


「礼はまだ早い」


 ラインハルトは振り返らずに答えた。


「これは、危険な賭けだ。……無事に終わらせろ。それが、何よりの礼になる」


 扉が閉まり、エレノアは一人、静かな部屋に残された。


 窓の外、夜の庭に月明かりが差し込んでいる。エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。


(これから、本当の勝負が始まる)


 そして、頭の片隅には、昨夜見た少年の困惑した瞳が、まだ焼き付いていた。

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