第80話 エレノアの提案
翌朝、エレノアが朝食にも手をつけられずにいると、バルドゥールが険しい顔で訪れた。
「少年について、分かったことがある」
「話してくれたのですか」
「いや、頑なに口を割らない。だが、身体検査で分かったことがいくつかある」
バルドゥールは椅子に腰を下ろし、静かに続けた。
「体中に、古い傷跡が無数にある。躾けられた末にできたようなものだ。それに、右手の甲に、焼き印のような痕がある」
エレノアは息を飲んだ。
「焼き印……」
「奴隷市場で使われる、所有印の一種だろう。隣国の一部では、いまだにそういう商いが行われている」
バルドゥールの声には、抑えた怒りが滲んでいた。
「幼くして買われ、殺しや盗み、諜報の技術を叩き込まれる。ヴァルター伯爵家のような一族は、そうした人材を昔から使っていたという噂があった」
エレノアの胸が、締め付けられるように痛んだ。
「あの子に、会わせていただけませんか」
「駄目だ」
バルドゥールは即座に首を振った。
「相手は訓練された密偵だ。何をするか分からない」
「でも、あの子は昨夜、私に怪我はないかと聞かれて、戸惑っていました。あれは、演技ではなかったと思います」
「……エレノア」
バルドゥールの声が、いつになく強くなった。
「情に流されるな。相手はグレゴールの手先だ。お前を油断させるための演技かもしれない」
エレノアは黙り込んだ。しかし、あの少年の目に浮かんでいた困惑を、演技だとは、どうしても思えなかった。
「叔父様、一つだけお願いがあります」
「何だ」
「あの子に、せめて食事と手当てを。それだけでもさせてください」
バルドゥールはしばらく無言だったが、やがて小さく息を吐いた。
「……看守を通じて手配する。それ以上は許せない」
「ありがとうございます」
バルドゥールが立ち上がりかけたところで、エレノアは思い切って口を開いた。
「叔父様、もう一つ、お願いしたいことがあります」
「ふぅ、何だ」
「証拠固めだけでは、グレゴールを追い詰めるのは難しいのではないでしょうか」
バルドゥールの表情が、わずかに険しくなった。
「何が言いたい」
エレノアは膝の上で、両手を強く握りしめた。
「グレゴールは、私の存在を警戒しています。『鼻の良い女に用心しろ』という言葉が、それを示しています。……もし、私が表に出て、工房に戻ったように見せかければ」
「駄目だ」
バルドゥールが遮った。
「言おうとしていることは分かる。だが、絶対に許さん」
「叔父様、聞いてください」
エレノアは立ち上がり、まっすぐにバルドゥールを見た。
「正攻法での証拠固めは、行き詰まっているんじゃないですか。グレゴールは常に一歩先を読み、痕跡を消し続けています。このままでは、いずれ王都から姿を消すか、あるいは別の場所で同じことを繰り返すだけです」
「だからといって、お前が囮になる必要はない」
「でも、私が動けば、グレゴールは反応せざるを得ないはずです。彼が最も警戒しているのが、私の鼻なのですから」
バルドゥールは強く首を振った。
「危険すぎる。マリアの二の舞にはさせない」
その言葉に、エレノアは一瞬、胸を突かれた。しかし、それでも引かなかった。
「叔父様、私は母のように、誰かに脅されて何かをするわけではありません。自分の意志で、真実を追いたいと思っています。それに——」
エレノアは静かに、しかしはっきりと続けた。
「もし私が何もせず、ここに隠れているだけなら、グレゴールは永遠に捕まらないかもしれません。そうなれば、また誰かが、私の家族のように、理不尽に追い詰められるかもしれない。それは、嫌です」
長い沈黙が落ちた。
バルドゥールは、しばらく何も言わなかった。窓の外から、朝の鳥の声が微かに聞こえてくる。
「……殿下にも、この話をするつもりか」
「はい。叔父様が反対されるのは分かっていましたので。でも、これは私自身が決めることだと思っています」
バルドゥールは深く息を吐き、静かに立ち上がった。
「今、この場で答えは出さない。殿下には私から報告する。だが——」
彼はエレノアをまっすぐに見た。
「私は、賛成しない。それだけは、覚えておけ」
そう言い残し、バルドゥールは部屋を後にした。
その日の夕方、扉が叩かれた。エレノアが応じると、いつもの護衛ではなく、ラインハルト本人が姿を現した。
「バルドゥールから聞いた」
前置きもなく、ラインハルトは切り出した。声には、いつもより硬い響きがあった。
「囮に志願したそうだな」
「はい」
「却下する」
短く、迷いのない一言だった。
「殿下——」
「理由は聞くまでもないだろう。危険すぎる」
ラインハルトは部屋の中央に立ったまま、エレノアを見据えた。
「グレゴールは、すでにお前を脅威と見なしている。表に出れば、確実に狙われる。護衛をどれだけつけたところで、完全に防げる保証はない」
「分かっています」
「分かっているなら、そんなことは言わないはずだ」
ラインハルトの声に、抑えきれない苛立ちが滲んだ。エレノアはそれを、まっすぐに受け止めた。
「殿下、正攻法での調査が行き詰まっていることは、殿下もご存知のはずです」
「それでも、お前を危険にさらすことは認められない」
「私は、道具として使ってほしいと言っているのではありません」
エレノアの声が、静かに、しかし強くなった。
「自分の意志で、真実に近づきたいと言っているのです。母のように、理不尽に追い詰められて何かをするのではなく」
ラインハルトの瞳が、わずかに揺れた。
「エレノア……」
「殿下は、王太子としての立場で、私を止めようとされています。それは正しい判断だと思います」
エレノアは一度言葉を切り、静かに続けた。
「でも、私は、一人の人間として、決めたいのです」
沈黙が落ちた。暖炉の炎が、静かに爆ぜる音だけが響いていた。
ラインハルトは、しばらく何も言わなかった。その表情には、王太子としての判断と、それ以外の何かが、静かにせめぎ合っているように見えた。
「……もし、お前に何かあれば」
ようやく発せられた声は、これまでよりもずっと低く、掠れていた。
「私は、それを一生背負うことになる」
その言葉に、エレノアは胸を突かれた。
「殿下……」
「分かっているのか。これは、私情で言っているのではない……」
ラインハルトは一度目を伏せ、再び顔を上げた。
「いや——正直に言えば、私情もある」
その告白に、エレノアは息を飲んだ。ラインハルトが、こうもはっきりと私情を口にするのは、初めてのことだった。
「殿下」
「だが」
ラインハルトは静かに続けた。
「お前の言うことにも、一理ある。正攻法だけでは、グレゴールを追い詰められない。このままでは、遅かれ早かれ、次の被害が出るだろう」
彼はしばらく黙り込み、やがて低く言った。
「囮の案、検討する。ただし——」
彼はエレノアをまっすぐに見た。
「あらゆる手を尽くして、お前を守る。バルドゥール、騎士団、近衛、すべてを動員する。」
「はい」
「一つでも、私が危険だと判断すれば、即座に中止する。それには従ってもらう」
「約束いたします」
ラインハルトは深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。
「詳細は、バルドゥールと詰めよう。……お前は、本当に、頑固な女だな」
その言葉には、呆れと、どこか柔らかい響きが混じっていた。
「殿下に似たのかもしれません」
エレノアが小さく返すと、ラインハルトは一瞬、虚をつかれたような顔をした。それから、珍しく口元をわずかに緩めた。
「減らず口も、相変わらずだな」
夜が更けていく中、二人はしばらく、囮作戦の大まかな方向性について言葉を交わした。工房の再開を装うこと、護衛の配置、合図の取り決め——具体的な段取りは、明日以降バルドゥールと詰めることになった。
ラインハルトが部屋を出る間際、エレノアは静かに声をかけた。
「殿下、ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
ラインハルトは振り返らずに答えた。
「これは、危険な賭けだ。……無事に終わらせろ。それが、何よりの礼になる」
扉が閉まり、エレノアは一人、静かな部屋に残された。
窓の外、夜の庭に月明かりが差し込んでいる。エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。
(これから、本当の勝負が始まる)
そして、頭の片隅には、昨夜見た少年の困惑した瞳が、まだ焼き付いていた。




