第79話 茂みの少年
翌朝、エレノアは灰の分析を再開する前に、窓辺に立って外の空気を確かめる習慣ができていた。
北の離れは静かで、鳥の声と葉擦れの音以外、ほとんど物音がしない。しかしここ数日、エレノアは窓を開けるたびに、微かな違和感を覚えていた。
(誰かいる……)
護衛の兵士たちの気配とは、明らかに違う。もっと小さく、もっと注意深く隠された気配。風向きによって、ごく稀に、汗と土埃、そしてかすかな革の匂いが漂ってくることがあった。
エレノアはその日の午後、バルドゥールが訪れた際に、それとなく尋ねた。
「叔父様、離れの周囲の護衛は、何人ほど配置されているのですか」
「正面と裏手に二人ずつ、庭の巡回に二人。合計六人だ。なぜだ」
「いえ……時折、護衛の方々とは違う気配を感じることがあって」
バルドゥールの表情が、瞬時に引き締まった。
「詳しく話せ」
「風向きによって、革の匂いや、汗の匂いが混じることがあるのです。護衛の方々の制服からは、もっと違う匂いがしますから」
バルドゥールはしばらく考え込んだ後、静かに立ち上がった。
「今夜、庭の見回りを増やす。お前は窓から離れて休め」
「はい」
しかしその夜、エレノアは眠れなかった。
蝋燭の灯りを絞り、寝台に横たわりながらも、神経は研ぎ澄まされたままだった。護衛たちが庭を巡回する足音、時折聞こえる小さな物音——そのどれもが、いつもより気になって仕方がなかった。
深夜過ぎ、庭の方角から、微かな物音がした。
エレノアは息を潜め、耳を澄ませた。何かが茂みを掻き分けるような、小さな音。それに続いて、押し殺した声で誰かが誰かを制するような気配。
「動くな! 何者だ!」
護衛の誰かの声が響いた。
エレノアは思わず起き上がり、窓に近づいた。カーテンの隙間からそっと外を覗くと、月明かりの下、庭の茂みの近くで、護衛の兵士二人が、何かに向けて剣を構えているのが見えた。
その先には、小さな人影があった。
体格からして、まだ少年と呼べるような年頃だろう。粗末な外套を纏い、身を低くして逃げ場を探すように周囲を見回している。
「捕らえろ! 逃がすな!」
護衛たちが動いた瞬間、少年は素早く身を翻し、庭の暗がりへと駆け出した。しかし護衛の一人が追いつき、少年の腕を掴んだ。
「離せ!」
少年の声は、思ったよりも幼かった。エレノアは窓に張り付くようにして、その光景を見つめた。
暴れる少年を、護衛たちが慎重に取り押さえる。やがて騒ぎを聞きつけたバルドゥールが、灯りを持って庭に駆けつけるのが見えた。
エレノアは急いで部屋着の上に外套を羽織り、扉に向かった。
「エレノア様、外は危険です」
廊下に控えていた護衛が制したが、エレノアは首を振った。
「様子だけでも、見させてください」
護衛は少し迷った様子だったが、結局は先導するように庭への扉を開けた。
外に出ると、庭の中央で、少年が取り押さえられていた。両腕を後ろに回され、地面に膝をつかされている。バルドゥールがその前に立ち、厳しい表情で少年を見下ろしていた。
「何者だ。何のためにここを見張っていた」
少年は答えなかった。ただ、地面を睨みつけるように俯いている。
エレノアは近づきながら、その少年の様子を静かに観察した。年齢は十五、六歳ほどだろうか。痩せた体つきだが、無駄のない筋肉がついている。両手の指先や手首には、古い傷跡がいくつも残っていた。
そして——エレノアの鼻が、あるものを捉えた。
少年の体から漂う匂い。汗と土埃の奥に、微かに、あの東方屋で嗅いだ樹脂の匂いが、ごく僅かに染み付いている。
「叔父様」
エレノアが静かに声をかけると、バルドゥールが振り返った。
「エレノア、下がっていろ。危険だ」
「いえ……この方から、東方屋の香の匂いがしたので」
バルドゥールの目つきが鋭くなった。
「やはり、グレゴールの手先か」
少年は答えなかった。しかし、わずかに肩が強張るのが見えた。
エレノアは少年の前に、静かにしゃがみ込んだ。バルドゥールが慌てて止めようとしたが、エレノアは手で制した。
「お名前は?」
エレノアが問いかけても、少年は答えなかった。ただ、鋭い視線でエレノアを睨みつけている。その目には、警戒と、何か別の——戸惑いのようなものが混じっているように見えた。
「怪我は?大丈夫?」
少年の目が、わずかに揺れた。予想していなかった問いだったのだろう。
「……なんで、そんなことを聞く」
低く、掠れた声だった。
「怪我をしているなら、手当てをするべきだと思ったから」
「俺は、お前の敵だぞ」
「それでもよ」
エレノアは静かに答えた。
「痛いのは、嫌でしょう」
少年はしばらく無言でエレノアを見つめていた。その視線には、これまで誰からも向けられたことのないものを目の前にしたような、戸惑いが滲んでいた。
「……連れて行け」
バルドゥールが低く命じた。護衛たちが少年を立たせ、離れの中へと連行していく。
少年は連行されながら、一度だけ振り返り、エレノアを見た。
その目に浮かんでいたのは、憎しみでも敵意でもなく——ただ、理解できないものを見るような、静かな困惑だった。
「叔父様、あの子は」
「グレゴールの密偵の一人で、おそらく元奴隷だろう」
バルドゥールの声は硬かった。
「幼い頃から、そういう仕事に使われてる者は珍しくない。特にヴァルター伯爵家のような一族は、そういう人材を金で買い、育て上げる」
エレノアの胸が、静かに痛んだ。
「あの子も……」
「詳しいことは、尋問すれば分かるだろう」
バルドゥールはそう言うと、離れの中へと戻っていった。エレノアはしばらく、少年が連れて行かれた方向を見つめていた。
夜の庭に、月明かりが静かに降り注いでいる。先ほどまでの騒ぎが嘘のように、辺りは再び静寂に包まれていた。
エレノアは自室に戻りながら、少年の目に浮かんでいた困惑の色を、何度も思い返していた。
(あの子は、誰かに気にされたれたことが、これまでなかったのかもしれない)
母のノートの言葉が、再び頭に浮かんだ。
——この香りは、誰かを守るために作った。
エレノアは蝋燭の灯りの下、静かに椅子に腰を下ろした。
翌朝、少年がどうなったのか、エレノアは知らなかった。しかし胸の奥に、何か小さな、放っておけない思いが芽生えていることだけは、確かであった。




