表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 城下の調香師

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
79/87

第78話 灰の中の文字

 北の離れに移されて三日目の朝、バルドゥールが焦げた紙片と、東方屋から押収されたわずかな品々を持って訪れた。


「文官による解読は、ここまでが限界だった」


 彼は布に包まれた紙片を、慎重にテーブルの上に広げた。黒く炭化した部分が大半を占め、判読できる文字はごくわずかしかない。『宮廷』『南区』『計画』『次は』——エレノアがすでに知っている単語ばかりだった。


「文字として読める範囲は、これで全てということですね」


「そうだ。ただ……」


 バルドゥールは、もう一つの小さな包みを差し出した。


「これは、東方屋の作業場から見つかった灰だ。焼却された書類の残骸と思われる。文官には、灰からは何も読み取れないと判断された」


 エレノアは包みを受け取り、静かに開いた。


 灰は、文字通りただの灰にしか見えなかった。しかしエレノアは、それを鼻に近づけた。


(……ただの紙が燃えた灰ではないわ)


 紙の焦げた匂いの奥に、微かに、インクの匂いが残っている。ただのインクではない。鉄と没食子(もっしょくし)から作る一般的な黒インクとは違う、独特の酸味を帯びた香りだった。


「叔父様、このインクには見覚えがあります」


「インクに、匂いの違いがあるのか」


「はい。使う材料や配合によって、燃えた後にも僅かに違いが残ります。これは……南方産の特殊な樹脂を混ぜたインクです」


 エレノアは棚から母のノートを取り出し、以前の記録を確認した。


「東方屋の焚き香と、同じ産地の樹脂が使われている可能性があります」


 バルドゥールの目が、わずかに鋭くなった。


「つまり、この書類も、香料と同じ経路——密輸ルートを通じて用意されたものということか」


「断定はできませんが、その可能性は高いと思います」


 エレノアは灰をさらに慎重に調べた。炭化した紙の断片の中に、ごく小さな、燃え残った角のような部分を見つけた。指先でそっと摘み上げる。


「これは……」


角の部分には、かろうじて数文字が残っていた。判読は難しいが、エレノアは目を凝らした。


「『組』という文字と……『第』という文字のように見えます」


 バルドゥールは身を乗り出し、その断片を確認した。


「『組』『第』……何かの組織名か、あるいは番号か」


「もう少し詳しく調べてみます。灰と炭化した紙の状態から、元の紙質や大きさが分かれば、何の書類だったのか、絞り込めるかもしれません」


 エレノアは丁寧に灰と紙片を選り分け、記録を取り始めた。バルドゥールはしばらくその様子を見ていたが、やがて静かに言った。


「エレノア、正直に言う。証拠固めは、思ったより難航している」


「グレゴールの居場所が、まだ分からないのですか」


「行方どころか、本当に王都に潜伏しているのかどうかさえ、確証が持てない状況だ」


 バルドゥールの声に、珍しく苛立ちに似た響きがあった。


「用心深い男だ。痕跡を最小限にし、複数の拠点に分散させ、少しでも危険を感じればすぐに姿を消す。近衛の総力を挙げても、正面から追い詰めるのは容易ではない」


 エレノアは手を止め、バルドゥールを見た。


「このままでは……」


「このまま証拠固めだけを続けても、いずれグレゴールは国外へ逃亡するか、あるいは別の場所で同じことを繰り返すだろう。時間をかければかけるほど、こちらが不利になる」


 離れの部屋の中に、重い沈黙が落ちた。


 エレノアは灰の欠片を見つめながら、静かに考えた。焦げた紙に残された『組』『第』という文字。松脂の痕跡。南方産のインク。すべてが、グレゴールという男の緻密さと用心深さを物語っている。


(正攻法だけでは、追い詰められない相手)


 その考えが、エレノアの中で徐々に形を成していった。しかしまだ、それを言葉にする勇気はなかった。


「今日のところは、これで十分だ」


 バルドゥールが灰と紙片を丁寧に包み直しながら言った。


「引き続き分析を頼む。何か分かれば、すぐに知らせてくれ」


「はい、叔父様」


 バルドゥールが部屋を出る間際、エレノアはふと尋ねた。


「工房の様子は、どうなっていますか」


「見張りは続けている。今のところ、目立った動きはない」


「リリアやソフィーは」


「心配しているだろうが、無事だ。安心しろ」


 バルドゥールは短く答え、部屋を後にした。


 一人になったエレノアは、窓辺に近づき、外を眺めた。北の離れの周囲は、静かな庭木に囲まれている。人の気配はほとんど感じられない。だが、遠くの茂みの奥に、時折かすかな視線のようなものを感じることがあった。


(気のせい、かしら)


 護衛が周囲を警戒しているのだから、当然と言えば当然かもしれない。しかしその視線には、護衛のものとは少し違う、何か落ち着かない気配が混じっているような気がした。


 エレノアは窓から離れ、再び作業に戻った。


 灰の中の断片を、慎重に並べ直す。『組』『第』という文字が、何を意味するのか。書類の紙質を確かめようと、燃え残った端の部分を光にかざした瞬間、エレノアは小さく息を飲んだ。


(この紙……)


 炭化していない、ごく僅かな部分に、透かし模様のようなものが見えた。王宮の公文書に使われる高級紙特有の、細かな織り模様だった。


「これは……市井で使われる紙ではないわ」


 エレノアは急いで帳面に書き留めた。


『焼却された書類は、王宮の公文書用紙と同種の紙質。「組」「第」の文字、南方産インクの使用。何らかの組織図、あるいは編成に関する文書の可能性』


 もしこれが本当に、王宮に関わる何かの編成表だとすれば——グレゴールの企みは、単なる密輸や情報収集の域を超えているのかもしれない。


 エレノアは震える手で、その考えを帳面に書き加えた。


 夕方、食事を運んできた近衛の兵士に、エレノアはバルドゥールへの伝言を託した。「至急、お伝えしたいことがあります」という短い一文だった。


 その夜、扉が控えめに叩かれた。


「エレノア、私だ」


 バルドゥールの声だった。エレノアはすぐに扉を開け、今日見つけた紙質の手がかりを伝えた。


「王宮の公文書用紙……」


 バルドゥールの表情が、これまでになく険しくなった。


「もしそれが本当なら、グレゴールは王宮内部にも何らかの繋がりを持っているということになる」


「内通者がいる、ということでしょうか」


「その可能性は、否定できない」


 バルドゥールはしばらく沈黙した後、低く言った。


「この件は、殿下に直接報告する必要があるな」


「はい」


「エレノア、よくやってくれた。お前がいなければ、この手がかりは見過ごされていただろう」


 その言葉に、エレノアは静かに頷いた。しかし胸の中には、別の思いが渦巻いていた。


(このまま、離れの中で分析を続けるだけで、本当に真実に辿り着けるのかしら)


 証拠は少しずつ集まっている。しかしグレゴール本人には、まだ一歩も近づけていない。相手は、こちらの動きを読み、常に一歩先を行く男だ。


(もし、私自身が動けば)


 その考えが浮かんだ瞬間、エレノアは自分でも驚いて、思わず首を振った。バルドゥールもラインハルトも、決してそれを許さないだろう。しかし——


「エレノア? どうした」


 バルドゥールの声に、エレノアは我に返った。


「いえ、何でもありません。……ただ、もう少し時間をいただければ、他にも何か見つかるかもしれません」


「頼む。だが、無理はするな」


 バルドゥールは静かにそう言い残し、部屋を後にした。


 一人になったエレノアは、灰の入った包みを見つめながら、静かに考え続けた。


 正攻法の調査は、確実に進んでいる。しかしグレゴールという男は、それを常に一歩上回る用心深さで躱してきた。証拠を積み上げるだけでは、いずれ限界が来る。


(あの人が動かざるを得なくなるとしたら、何がきっかけになるのだろう)


 エレノアの脳裏に、ふと東方屋の女将の言葉が蘇った。「鼻の良い女に用心しろ」——あの文。グレゴールは、明らかにエレノアの存在を警戒している。


(もし、私が表に出れば)


 それは危険な考えだった。しかし同時に、これまで正攻法では動かなかった相手を、動かす唯一の方法かもしれないという予感もあった。


 窓の外、夜の庭に月明かりが差している。エレノアは灰の包みを丁寧に片付けながら、胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。


(母様……あなたなら、どうしましたか)


 答えは出なかった。しかし、母のノートに記された、あの一文が静かに頭に浮かんだ。


 ——この香りは、誰かを守るために作った。決して、傷つけるためではない。


 エレノアは蝋燭の炎を見つめながら、まだ言葉にならない決意を、静かに胸の奥に沈めた。


___

 

 その頃、離れの外れの茂みの陰で、一人の少年が息を潜めていた。


 粗末な外套に身を包み、暗闇に紛れるようにして建物を見張っている。彼の役目は、この離れに匿われている女の動向を探り、機を見て報告することだった。


 窓に灯る、蝋燭の淡い光。その向こうで、女が何かを一心に見つめている様子が、遠目にも分かった。


 少年は無表情のまま、それを見つめ続けていた。命じられた任務——それ以上でも以下でもないはずだった。


 しかしなぜか、その灯りから目を逸らせずにいる自分に、少年自身、戸惑いを覚えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ