第78話 灰の中の文字
北の離れに移されて三日目の朝、バルドゥールが焦げた紙片と、東方屋から押収されたわずかな品々を持って訪れた。
「文官による解読は、ここまでが限界だった」
彼は布に包まれた紙片を、慎重にテーブルの上に広げた。黒く炭化した部分が大半を占め、判読できる文字はごくわずかしかない。『宮廷』『南区』『計画』『次は』——エレノアがすでに知っている単語ばかりだった。
「文字として読める範囲は、これで全てということですね」
「そうだ。ただ……」
バルドゥールは、もう一つの小さな包みを差し出した。
「これは、東方屋の作業場から見つかった灰だ。焼却された書類の残骸と思われる。文官には、灰からは何も読み取れないと判断された」
エレノアは包みを受け取り、静かに開いた。
灰は、文字通りただの灰にしか見えなかった。しかしエレノアは、それを鼻に近づけた。
(……ただの紙が燃えた灰ではないわ)
紙の焦げた匂いの奥に、微かに、インクの匂いが残っている。ただのインクではない。鉄と没食子から作る一般的な黒インクとは違う、独特の酸味を帯びた香りだった。
「叔父様、このインクには見覚えがあります」
「インクに、匂いの違いがあるのか」
「はい。使う材料や配合によって、燃えた後にも僅かに違いが残ります。これは……南方産の特殊な樹脂を混ぜたインクです」
エレノアは棚から母のノートを取り出し、以前の記録を確認した。
「東方屋の焚き香と、同じ産地の樹脂が使われている可能性があります」
バルドゥールの目が、わずかに鋭くなった。
「つまり、この書類も、香料と同じ経路——密輸ルートを通じて用意されたものということか」
「断定はできませんが、その可能性は高いと思います」
エレノアは灰をさらに慎重に調べた。炭化した紙の断片の中に、ごく小さな、燃え残った角のような部分を見つけた。指先でそっと摘み上げる。
「これは……」
角の部分には、かろうじて数文字が残っていた。判読は難しいが、エレノアは目を凝らした。
「『組』という文字と……『第』という文字のように見えます」
バルドゥールは身を乗り出し、その断片を確認した。
「『組』『第』……何かの組織名か、あるいは番号か」
「もう少し詳しく調べてみます。灰と炭化した紙の状態から、元の紙質や大きさが分かれば、何の書類だったのか、絞り込めるかもしれません」
エレノアは丁寧に灰と紙片を選り分け、記録を取り始めた。バルドゥールはしばらくその様子を見ていたが、やがて静かに言った。
「エレノア、正直に言う。証拠固めは、思ったより難航している」
「グレゴールの居場所が、まだ分からないのですか」
「行方どころか、本当に王都に潜伏しているのかどうかさえ、確証が持てない状況だ」
バルドゥールの声に、珍しく苛立ちに似た響きがあった。
「用心深い男だ。痕跡を最小限にし、複数の拠点に分散させ、少しでも危険を感じればすぐに姿を消す。近衛の総力を挙げても、正面から追い詰めるのは容易ではない」
エレノアは手を止め、バルドゥールを見た。
「このままでは……」
「このまま証拠固めだけを続けても、いずれグレゴールは国外へ逃亡するか、あるいは別の場所で同じことを繰り返すだろう。時間をかければかけるほど、こちらが不利になる」
離れの部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
エレノアは灰の欠片を見つめながら、静かに考えた。焦げた紙に残された『組』『第』という文字。松脂の痕跡。南方産のインク。すべてが、グレゴールという男の緻密さと用心深さを物語っている。
(正攻法だけでは、追い詰められない相手)
その考えが、エレノアの中で徐々に形を成していった。しかしまだ、それを言葉にする勇気はなかった。
「今日のところは、これで十分だ」
バルドゥールが灰と紙片を丁寧に包み直しながら言った。
「引き続き分析を頼む。何か分かれば、すぐに知らせてくれ」
「はい、叔父様」
バルドゥールが部屋を出る間際、エレノアはふと尋ねた。
「工房の様子は、どうなっていますか」
「見張りは続けている。今のところ、目立った動きはない」
「リリアやソフィーは」
「心配しているだろうが、無事だ。安心しろ」
バルドゥールは短く答え、部屋を後にした。
一人になったエレノアは、窓辺に近づき、外を眺めた。北の離れの周囲は、静かな庭木に囲まれている。人の気配はほとんど感じられない。だが、遠くの茂みの奥に、時折かすかな視線のようなものを感じることがあった。
(気のせい、かしら)
護衛が周囲を警戒しているのだから、当然と言えば当然かもしれない。しかしその視線には、護衛のものとは少し違う、何か落ち着かない気配が混じっているような気がした。
エレノアは窓から離れ、再び作業に戻った。
灰の中の断片を、慎重に並べ直す。『組』『第』という文字が、何を意味するのか。書類の紙質を確かめようと、燃え残った端の部分を光にかざした瞬間、エレノアは小さく息を飲んだ。
(この紙……)
炭化していない、ごく僅かな部分に、透かし模様のようなものが見えた。王宮の公文書に使われる高級紙特有の、細かな織り模様だった。
「これは……市井で使われる紙ではないわ」
エレノアは急いで帳面に書き留めた。
『焼却された書類は、王宮の公文書用紙と同種の紙質。「組」「第」の文字、南方産インクの使用。何らかの組織図、あるいは編成に関する文書の可能性』
もしこれが本当に、王宮に関わる何かの編成表だとすれば——グレゴールの企みは、単なる密輸や情報収集の域を超えているのかもしれない。
エレノアは震える手で、その考えを帳面に書き加えた。
夕方、食事を運んできた近衛の兵士に、エレノアはバルドゥールへの伝言を託した。「至急、お伝えしたいことがあります」という短い一文だった。
その夜、扉が控えめに叩かれた。
「エレノア、私だ」
バルドゥールの声だった。エレノアはすぐに扉を開け、今日見つけた紙質の手がかりを伝えた。
「王宮の公文書用紙……」
バルドゥールの表情が、これまでになく険しくなった。
「もしそれが本当なら、グレゴールは王宮内部にも何らかの繋がりを持っているということになる」
「内通者がいる、ということでしょうか」
「その可能性は、否定できない」
バルドゥールはしばらく沈黙した後、低く言った。
「この件は、殿下に直接報告する必要があるな」
「はい」
「エレノア、よくやってくれた。お前がいなければ、この手がかりは見過ごされていただろう」
その言葉に、エレノアは静かに頷いた。しかし胸の中には、別の思いが渦巻いていた。
(このまま、離れの中で分析を続けるだけで、本当に真実に辿り着けるのかしら)
証拠は少しずつ集まっている。しかしグレゴール本人には、まだ一歩も近づけていない。相手は、こちらの動きを読み、常に一歩先を行く男だ。
(もし、私自身が動けば)
その考えが浮かんだ瞬間、エレノアは自分でも驚いて、思わず首を振った。バルドゥールもラインハルトも、決してそれを許さないだろう。しかし——
「エレノア? どうした」
バルドゥールの声に、エレノアは我に返った。
「いえ、何でもありません。……ただ、もう少し時間をいただければ、他にも何か見つかるかもしれません」
「頼む。だが、無理はするな」
バルドゥールは静かにそう言い残し、部屋を後にした。
一人になったエレノアは、灰の入った包みを見つめながら、静かに考え続けた。
正攻法の調査は、確実に進んでいる。しかしグレゴールという男は、それを常に一歩上回る用心深さで躱してきた。証拠を積み上げるだけでは、いずれ限界が来る。
(あの人が動かざるを得なくなるとしたら、何がきっかけになるのだろう)
エレノアの脳裏に、ふと東方屋の女将の言葉が蘇った。「鼻の良い女に用心しろ」——あの文。グレゴールは、明らかにエレノアの存在を警戒している。
(もし、私が表に出れば)
それは危険な考えだった。しかし同時に、これまで正攻法では動かなかった相手を、動かす唯一の方法かもしれないという予感もあった。
窓の外、夜の庭に月明かりが差している。エレノアは灰の包みを丁寧に片付けながら、胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。
(母様……あなたなら、どうしましたか)
答えは出なかった。しかし、母のノートに記された、あの一文が静かに頭に浮かんだ。
——この香りは、誰かを守るために作った。決して、傷つけるためではない。
エレノアは蝋燭の炎を見つめながら、まだ言葉にならない決意を、静かに胸の奥に沈めた。
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その頃、離れの外れの茂みの陰で、一人の少年が息を潜めていた。
粗末な外套に身を包み、暗闇に紛れるようにして建物を見張っている。彼の役目は、この離れに匿われている女の動向を探り、機を見て報告することだった。
窓に灯る、蝋燭の淡い光。その向こうで、女が何かを一心に見つめている様子が、遠目にも分かった。
少年は無表情のまま、それを見つめ続けていた。命じられた任務——それ以上でも以下でもないはずだった。
しかしなぜか、その灯りから目を逸らせずにいる自分に、少年自身、戸惑いを覚えていた。




