第77話 北の離れ
日が暮れる頃、バルドゥールが再びルーカスの部屋を訪れた。
「支度はできているか」
「はい」
エレノアは母のノートと最低限の荷物をまとめ、バルドゥールの後に続いた。外には質素な幌馬車が一台停められており、御者台には見知らぬ壮年の男が座っていた。
「王宮の者だ。信頼できる」
バルドゥールが短く説明した。エレノアは頷き、馬車に乗り込んだ。
夜の帳が下りた王都を、馬車は静かに進んだ。窓の隙間から見える景色は、南区の喧騒からやがて、見覚えのある石畳へと変わっていった。
「ここは……」
「王宮の北の離れだ」
バルドゥールが答えた。
「表向きには使われていない、古い建物だ。人の出入りも少なく、身を隠すには都合がいい」
馬車が止まったのは、蔦の絡まる小さな石造りの建物だった。王宮の敷地内にありながら、中心部からは離れた、静かな一角にある。
中に入ると、簡素だが清潔な部屋が用意されていた。暖炉には火が入れられ、寝台には清潔な布団が整えられている。
「ここでしばらく過ごしてもらう」
バルドゥールは部屋の中を確認しながら言った。
「食事は近衛の者が運んでくる。外出は控えてくれ」
「叔父様は、これからどうされるのですか」
「グレゴールの行方を追う。焦げた紙片の手がかりも、専門の文官に解読を頼んでいる」
バルドゥールはしばらく黙っていたが、やがて静かに続けた。
「エレノア、一つ言っておく。お前がここに移ったことは、王宮内でもごく限られた者しか知らない。近衛の護衛と、私、そして——殿下だけだ」
エレノアの胸が、静かに跳ねた。
「殿下は、私がここにいることをご存知なのですね」
「当然だ。護衛の配置を指示されたのは殿下ご自身だからな」
バルドゥールはそれ以上多くを語らず、静かに立ち上がった。
「今夜は休め。明日、また状況を伝えに来る」
「ありがとうございます、叔父様」
バルドゥールが部屋を出ようとしたところで、ふと足を止めた。
「エレノア」
「はい」
「怖い思いをさせて、すまなかった」
素っ気ない言葉の中に、いつになく重い響きがあった。
「叔父様のせいではありません」
「いや」
バルドゥールは静かに首を振った。
「もっと早く、危険を察知すべきだった。マリアの時のように、また守れないのではないかと……そう思うと、気が気ではなかった」
エレノアは胸が締め付けられるのを感じながら、静かに答えた。
「叔父様は、今もこうして守ってくださっています。それで、十分です」
バルドゥールはしばらく無言だったが、やがて小さく頷き、扉を閉めて去っていった。
一人になったエレノアは、暖炉の前の椅子に腰を下ろした。
炎が、壁に柔らかな影を落としている。工房の慌ただしさから一転、あまりにも静かなこの空間に、かえって落ち着かない気持ちになった。
母のノートを取り出し、膝の上で開く。しかし文字を追う気力もなく、エレノアはただ、ページの上に手を置いたまま、しばらくぼんやりと座っていた。
(工房は、大丈夫かしら)
リリアやソフィーは、心配しているだろうか。四人の騎士たちは、今も見張りを続けているのだろうか。
考えることは尽きなかったが、疲労が徐々に体を重くしていった。エレノアは寝台に横になり、目を閉じた。
どのくらい眠ったか分からない。ふと、部屋の外で微かな物音がして、エレノアは目を覚ました。
扉の外、廊下から低い話し声が聞こえてくる。護衛の交代だろうかと思い、エレノアは再び目を閉じかけた。
しかしその時、扉が静かに叩かれた。
「エレノア」
聞き覚えのある、低く落ち着いた声。
エレノアは息を止めた。
「……殿下?」
「起きているか」
エレノアは慌てて身を起こし、乱れた髪を手早く整えた。寝台から降り、扉に近づく。
「はい、起きております」
「入るぞ」
短い一言とともに、扉が開いた。
ラインハルトが姿を現した。夜更けだというのに、まだ執務の途中だったのか、簡素な上着姿だった。しかし表情にはいつも通り、感情を押し殺したような硬さがあった。
「殿下……」
エレノアは深く頭を下げようとしたが、ラインハルトは軽く手で制した。
「よい、手短に済ませる。長居はしない」
彼は部屋の中央に立ったまま、暖炉の火にちらりと視線をやった。
「無事か」
「はい、殿下のおかげです」
「バルドゥールから報告は受けている。東方屋、運河沿いの倉庫、グレゴールの行方は、まだ掴めていない」
ラインハルトの声は、あくまで事務的だった。まるで、報告の続きを述べているかのような口調。
「南区の警護は近衛の一部を割いて明日からさらに厚くする。お前の護衛にも人数を回そう」
「殿下、そこまでしていただかなくても」
「これは、私が判断したことだ。異論は認めない」
ラインハルトはきっぱりと言い切った。私情を挟んでいない、王太子としての決定だと言わんばかりの口調だった。
エレノアは黙って頭を下げた。
「松脂の分析報告も見たぞ」
ラインハルトは話題を変えた。
「よくやった。あれがなければ、倉庫の特定はさらに遅れていただろう」
「恐れ入ります」
「ただし……」
彼の声が、わずかに低くなった。
「今後、単独での調査は禁じる。まぁ、バルドゥールにも同じことを伝えた。それにもう私は制限できる立場には無い、がな」
「……いえ、はい」
エレノアは素直に頷いた。しかし、その口調の奥に、何か別のものが滲んでいる気がした。
ラインハルトはしばらく無言で、暖炉の炎を見つめていた。沈黙が落ち、部屋には炎の爆ぜる音だけが響いていた。
「あの夜の香油は」
不意に、ラインハルトが尋ねた。話の流れとは関係のない問いだった。
「……はい?」
「置いていったものだ。まだ、残っているか」
エレノアは少し戸惑いながら答えた。
「いえ、調合ならばできます」
「そうか、また頼むと思う」
それだけだった。ラインハルトはすぐに視線を逸らし、報告事項に戻るように言葉を継いだ。
「工房のことだが、証拠固めが済み次第、通常の営業に戻せるよう手配する。それまでは辛抱してくれ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。当然の措置だ」
ラインハルトは踵を返し、扉へ向かった。しかし扉に手をかけたところで、動きが止まった。
しばらく、彼は動かなかった。
「殿下?」
エレノアが声をかけると、ラインハルトは振り返らずに、低く言った。
「……危険な目に合わせて、悪かった」
その一言は、これまでの事務的な口調とは違う響きを持っていた。硬く、短い言葉。しかしその奥に、押し殺しきれない何かがあるのを、エレノアは感じ取った。
「殿下のせいでは……」
「私が、もっと早く動くべきであった」
ラインハルトは扉を開けながら、それだけ言い残した。
「休め。護衛は廊下に置いていく」
そう告げると、彼は振り返らずに去っていった。扉が静かに閉まる音が、部屋に響いた。
エレノアはしばらく、閉じられた扉を見つめていた。
短い会話だった。ほとんどが報告と指示、事務的なやり取りに終始していた。しかし——「あの夜の香油は、まだ残っているか」という、ただ一つの脈絡のない問い。そして最後の、短く抑えた謝罪の言葉。
その二つだけが、いつもの王太子の仮面の下から、静かに滲み出たもののように、エレノアには思えた。
暖炉の炎が、ゆらゆらと揺れている。
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。銀の感触が、いつもより温かく感じられた。
窓の外、王宮の夜空に星が瞬いている。工房での穏やかな日々からは遠く離れた場所にいるはずなのに、なぜか今、エレノアの胸には、不思議な安堵が満ちていた。




