第76話 崩された静寂
翌朝、バルドゥールは王宮へ向かった。
エレノアはいつも通り工房の扉を開けたが、「臨時休業」の札はそのままにしておいた。一見通常営業に見せつつ、実際には客を入れない——バルドゥールから言われた通りの対応だった。
昼過ぎ、オスカーが息を切らせて工房に駆け込んできた。
「エレノア、大変だ」
「どうしたんですか」
「東方屋が、今朝から店を閉めている。中を確認しようとしたが、扉は固く閉ざされていて、人の気配もない」
エレノアの心臓が、静かに跳ねた。
「まさか、逃げたということですか」
「分からない。だが、昨日ディートリヒが言っていた通り、店主は様子がおかしかった。こちらの動きを察知して、姿を消した可能性も高い」
エレノアは帳面を手に取り、これまでの情報を素早く見返した。もし東方屋が閉店したのなら、証拠となる香料や記録も、すでに持ち去られているかもしれない。
「叔父様に、すぐお伝えしないと」
「もう向かっている、待っていてくれ」
オスカーがそう言った直後、外で慌ただしい足音がした。
扉が乱暴に叩かれ、ガスパールが肩で息をしながら飛び込んできた。
「エレノア、聞いてくれ。倉庫が、燃やされた。」
「……っ」
「今朝早く、倉庫から火の手が……しかと直前に荷馬車が何台も出入りしていたと、近所の荷運び人が話していた。積み荷を全部運び出して、そのまま姿を消したらしい。」
ガスパールは懐から小さく丸めた紙切れを取り出した。
「倉庫の裏手で、これを見つけた」
エレノアが広げると、乱れた筆跡で短い言葉が記されていた。
『鼻の良い女に用心しろ』
エレノアの手が、震えた。
「これは……」
「お前のことを、はっきりと認識していたということだ」
ガスパールの声に、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「エレノア、今すぐここを離れよう。安全な場所に」
「でも、工房を放り出すわけには」
「命の方が大事だ」
ガスパールが強く言い切った。オスカーも険しい顔で頷いた。
「ガスパールの言う通りだ。少なくとも今日一日、身を隠せる場所に移った方がいい」
エレノアは母のノートと帳面を急いでまとめた。護符に服の上から手を重ね、覚悟を決めるように小さく息を吸う。
「分かりました。……どこへ」
「ルーカスの家が近い。あそこなら、目立たずに匿える」
三人は工房の扉に鍵をかけ、裏路地を選んで慎重に移動した。エレノアは何度も振り返りたい衝動を抑えながら、ガスパールとオスカーに挟まれるようにして歩いた。
ルーカスの借りている小さな部屋に着くと、エレノアはようやく詰めていた息を吐いた。窓のない狭い部屋だったが、それがかえって安心感を与えてくれた。
「ここで、しばらく待っていてくれ」
オスカーが言った。
「バルドゥール卿が戻り次第、必ずここへ来るように伝える」
「ルーカス様は」
「倉庫の焼け跡を、もう少し調べている。何か手がかりが残っていないか」
エレノアは頷き、狭い部屋の隅に座り込んだ。母のノートを胸に抱き、静かに時が過ぎるのを待った。
半刻ほどして、扉が静かに叩かれた。合図の通り、二回、間を置いてもう一回。
エレノアが応じると、バルドゥールが姿を現した。額にうっすらと汗を滲ませ、いつもより急いだ様子だった。
「叔父様、ご無事で」
「お前こそ、無事で何よりだ」
バルドゥールは部屋の中を一瞥し、椅子代わりの木箱に腰を下ろした。エレノアは先ほどの脅し文句が書かれた紙を差し出した。
バルドゥールはそれを一読し、表情を険しくした。
「王宮への報告は、すでに済ませた。だが、思ったより事態は早く動いている」
「東方屋も、倉庫も、もぬけの殻でした。証拠が、失われてしまったかもしれません」
「いや」
バルドゥールは静かに首を振った。
「ルーカスが、倉庫の焼け跡から焦げた紙片を拾ってきた。完全に燃え尽きる前に、誰かが慌てて放置していったのだろう」
「何か、読み取れたのですか」
「断片的にだが。『宮廷』『南区』『計画』、そして『次は』という言葉があった」
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
「次は……何をするつもりなのでしょうか」
「まだ分からない。だが、何かを一度成し遂げ、次の段階へ進もうとしている、そう読める」
バルドゥールはしばらく沈黙した後、静かに続けた。
「殿下が、直接動かれた」
エレノアの胸が、大きく跳ねた。
「殿下が……」
「東方屋と倉庫、両方が空になったという報告を受け、即座に近衛を動かされた。今、王都全体で、グレゴールの行方を追っている」
バルドゥールはエレノアをまっすぐに見た。
「そして、お前の護衛のためにも、人数を割くよう指示された」
エレノアは言葉を失った。ラインハルトが、これほど早く、直接的に動いてくれるとは思っていなかった。
「殿下は……」
「今は王宮から動けない。だが、南区一帯の警護は、今日から格段に厚くなる」
バルドゥールは狭い部屋の壁に視線を落とし、静かに言った。
「今日から、お前は近衛の護衛のもとで生活してもらう。工房も、しばらくは閉めることになる」
「工房を……」
エレノアの胸に、寂しさと不安が入り混じった。ようやく軌道に乗り始めた小さな工房。市井での穏やかな日々。それが、また脅かされようとしている。
「一時的なことだ」
バルドゥールの声が、わずかに柔らかくなった。
「必ず、元に戻す。だが今は、お前の安全が最優先だ」
エレノアは静かに頷いた。母のノートと護符を胸に抱きしめながら、狭い部屋の小さな窓から漏れる光を見つめる。
(殿下……)
服の上から、胸元の護符にそっと手を重ねる。あの日、ラインハルトが渡してくれた小さな鷹の紋章が、今、確かにエレノアを守ろうとしていた。
「今夜のうちに、安全な場所へ案内する」
バルドゥールが立ち上がりながら言った。
「それまでは、ここを動くな。ガスパールたちが交代で護衛をする」
「はい、叔父様」
夏の午後の光が、狭い部屋の窓からわずかに差し込んでいた。工房を離れた寂しさと、迫りくる何かへの緊張感が、エレノアの胸の中で静かに絡み合っていた。




