第75話 臨時休業の一日
「臨時休業」の札を掛けた工房は、いつもと違う静けさに包まれていた。
エレノアは窓の隙間からそっと外を確認しながら、母のノートと、これまで集めた証拠の数々を整理していた。松脂の分析結果、東方屋の記録、グレゴールの帳簿の写し——すべてを一つの帳面にまとめ、バルドゥールが王宮に報告する際に使えるようにしておくためだった。
昼過ぎ、扉を小さく叩く音がした。二回、間を置いてからもう一回。リリアと決めた合図だった。エレノアは慎重に扉を開ける。
ソフィーだった。いつものおどおどとした様子とは違い、真剣な表情で辺りを見回しながら中に入ってきた。
「エレノアさん、大丈夫ですか。リリアから聞いて、心配で」
「ありがとう、ソフィー。今のところは、何も起きていないわ」
「よかった……」
ソフィーは椅子に座ると、懐から小さな紙片を取り出した。
「これ、王宮の厨房で小耳に挟んだんですけど。最近、南区の商人組合に、王宮から内密の問い合わせがあったらしいんです」
エレノアは紙片を受け取り、目を通した。ソフィーの丁寧な字で、聞いた内容が簡潔にまとめられている。
「東方屋という店の名前も、出ていたようです。詳しい内容までは分からなかったんですけど……」
「これは、殿下の指示なのかしら」
エレノアが呟くと、ソフィーは首を傾げた。
「さぁ、そこまでは……。ただ、王太子殿下付きの文官が、こっそり組合の記録を見に来ていたという話は聞きました」
エレノアの胸に、複雑な思いが広がった。もしラインハルトがすでにこの一件を察知しているのだとすれば、彼は静かに、しかし着実に動いていたことになる。何も言わず、遠くから見守るような形で。
(殿下も……気づいていらしたのね)
「エレノアさん、大丈夫ですか。顔色が」
「大丈夫よ。ただ、少し考えていただけ」
エレノアは静かに微笑み、紙片を丁寧に折りたたんで帳面に挟んだ。
「教えてくれてありがとう、ソフィー。これは叔父様にも伝えないと」
「私も、何かお役に立てることがあれば」
「今は、こうして情報を持ってきてくれるだけで、十分助かっているわ」
ソフィーは少し頬を赤らめながら頷いた。
夕方近く、今度はディートリヒが顔を出した。昼間の見張り番を終えたところらしく、少し疲れた様子だった。
「変わりないか」
「ええ、今のところは」
「そうか。……こっちも、昼間は特に動きがなかった。ただ」
ディートリヒは声を落とした。
「東方屋の店主が、朝から様子がおかしいらしい。オスカーが遠くから見ていたんだが、何度も外を気にするような素振りを見せていたそうだ」
「気づかれている、ということでしょうか」
「かもしれない。あるいは、上から何か指示を受けて、神経質になっているのかもな」
エレノアは帳面に書き加えながら、静かに考えた。もし東方屋の店主自身が焦り始めているのなら、それは何らかの動きが近いことを示しているのかもしれない。
「叔父様は、今日はどちらに?」
「王宮の方に行っている。報告の準備を進めているそうだ」
ディートリヒは椅子に深く座り直した。
「エレノア、正直に聞くが……お前は、怖くないのか」
その問いに、エレノアは少し考えてから答えた。
「怖くない、と言えば嘘になります。でも」
エレノアは棚の上の母の香水瓶に視線をやった。
「これは、母と父を追い詰めたものの正体に近づく、大切な機会でもあるんです。だから、止まるわけにはいかないんです」
ディートリヒはしばらく黙ってエレノアを見ていたが、やがて短く頷いた。
「そうか。……なら、俺たちはお前が止まらずに済むよう、しっかり守る」
その言葉に、エレノアは胸が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます、ディートリヒ様」
「礼はいい。それより、今日はもう休め。夜の見張りはガスパールとルーカスが来る」
ディートリヒが帰った後、エレノアは工房の中を一人で歩いた。窓の外はすでに夕暮れに染まり、南区の通りに人影がまばらになっていく時間帯だった。
エレノアは蝋燭に火を灯し、帳面を最初のページから読み返した。
ソフィーが聞いた宿屋の噂から始まり、三日月亭、東方屋、空き倉庫、運河沿いの倉庫、そしてグレゴールという名前。一月足らずの間に、これほど多くのことが繋がっていくとは、最初は思いもしなかった。
(皆さんが、こんなにも力を貸してくださっている)
叔父様、ガスパール、ルーカス、ディートリヒ、オスカー、リリア、ソフィー——それぞれが、それぞれのやり方で、エレノアを支えてくれている。目立たないように、静かに生きたいと願っていたはずなのに、気づけばこれほど多くの人と繋がっていた。
夜になり、裏扉を叩く音がした。合図の通り、二回、間を置いてもう一回。
エレノアが扉を開けると、ガスパールとルーカスが立っていた。
「今夜からの見張り、よろしくお願いします」
「任せろ」
ガスパールが軽く笑って言った。しかしその目には、いつもより鋭い警戒の色があった。
「エレノアは、早めに休んでくれ。何かあれば、すぐに知らせる」
「ありがとうございます」
二人が外に出て、それぞれの持ち場につくのを見送った後、エレノアは扉に鍵をかけ、蝋燭の灯りを最小限に絞った。
作業台の隅に置かれた護身用の粉末に、そっと手を触れる。
(明日、叔父様が王宮に報告を上げる)
そうなれば、この一件はもう、エレノア一人の手を離れた、大きな流れの中に組み込まれていくことになる。
母と父を追い詰めたものの正体。ヴァルター伯爵家の残党の企み。それらすべてが、もうすぐ明るみに出ようとしていた。
エレノアはベッドに横になりながら、胸元の護符にそっと手を重ねた。
窓の外、夏の夜が静かに更けていく。工房の周りを見張る、信頼できる人々の気配を感じながら、エレノアはゆっくりと目を閉じた。
(母様……もう少しで、真実に辿り着けそうです)
その夜は、何事もなく静かに過ぎていった。
しかしそれは、嵐の前の、束の間の静けさに過ぎなかった。




