第74話 監視の目
朝、エレノアは扉を叩く音で目を覚ました。
慌てて身支度を整え、扉を開けると、そこに立っていたのはバルドゥールであった。が、一瞬誰か分からなかった。
質素な麻の上着に、使い込まれたような色合いの外套。しかし妙に折り目正しく着こなされたその装いは、市井の男。というより、貴族が「庶民風」を演じようとして少しやりすぎた、そんな印象を与えた。着崩す、ということを知らない人間の服装だった。
「……叔父様?」
「早かったか」
バルドゥールは、いつもの無表情のまま答えた。しかしその格好とのちぐはぐさに、エレノアは思わず二度見してしまった。
「その恰好は……」
「昨夜の件を聞いて、目立たぬ装いで来た」
バルドゥールは至って真面目な様子で言った。しかし外套の袷の合わせ方が微妙に貴族式で、麻の上着の下から覗く手首には、明らかに上質な革の手袋が覗いている。市井の男が身につけるにしては、あまりにも仕立てが良すぎた。
「あの、叔父様……手袋が」
「何か問題が?」
「いえ……」
エレノアは小さく笑いを堪えながら、扉を大きく開けた。
「中へどうぞ」
バルドゥールは工房の中に足を踏み入れ、すぐに扉を閉めさせた。窓の外を一度確認してから、ようやく口を開いた。
「昨夜の件、詳しく聞かせてくれ」
エレノアは、オスカーとルーカスから聞いた東方屋の深夜の荷馬車、そしてガスパールとディートリヒが倉庫で気づかれたかもしれないという件を、順を追って説明した。
バルドゥールは黙って聞いていたが、話が終わると重い息を吐いた。
「思ったより、事態が進んでいるな」
「叔父様、これは……」
「エレノア、今日から工房の周辺に、目立たない形で見張りを置く。お前一人にしておくわけにはいかない」
「そこまでしていただかなくても」
「いや」
バルドゥールは珍しく、強い口調でエレノアの言葉を遮った。
「もし本当に気づかれたなら、次に狙われるのはお前かもしれない。お前が香りで異常を嗅ぎ分けていることは、すでに東方屋で女将から話を聞いた時点で、多少なりとも知られている可能性がある」
エレノアは息を飲んだ。三日月亭で女将に香りについて尋ねたこと。それが、回り回って自分の存在を知らせる糸口になっていたかもしれない。
「私が、迂闊でした」
「今さら悔やんでも仕方がない。大切なのは、これからどう動くかだ」
バルドゥールは懐から小さな包みを取り出し、作業台に置いた。麻の上着の袖からその手が伸びる様子は、やはりどこか不自然だった。
「これは?」
「護身用の粉末だ。目潰しに使える。もし誰かが工房に押し入るようなことがあれば、これを撒いて逃げろ」
エレノアは包みを受け取りながら、バルドゥールの用意周到さに、複雑な思いを抱いた。危険が現実のものとして迫っていることを、改めて突きつけられた気がした。
「叔父様は、これからどうされるのですか」
「王宮に、正式な報告を上げる準備を進める。証拠はまだ十分ではないが、これ以上待てば、こちらが先に動きを封じられるかもしれない」
バルドゥールは窓の外に視線をやった。朝の光が、南区の通りに落ち始めている。
「グレゴールが本当にこの近くに潜んでいるなら、王宮の力を借りずには押さえられない。個人の調査だけでは限界がある」
エレノアは頷いた。事態が、自分たちだけで抱えられる範囲を超えつつあることを、彼女自身も感じていた。
その時、工房の扉が控えめに叩かれた。
バルドゥールがとっさに身構えたが、扉の外から聞こえてきたのは、聞き慣れたリリアの声だった。
「エレノア、いる?」
エレノアが扉を開けると、リリアが少し青ざめた顔で立っていた。視線がバルドゥールの奇妙な出で立ちに一瞬留まったが、今はそれどころではないという様子で、すぐに本題に入った。
「あのね……昨日の夜、工房の近くで、変な男を見かけたって、近所の人が話してるのを聞いて」
エレノアとバルドゥールは、思わず顔を見合わせた。
「変な男、というのは」
「詳しくは分からないんだけど……深夜、この通りをうろついていた人がいたって。お店の前で立ち止まって、しばらく中を覗き込むようにしていたって、隣の仕立て屋のおかみさんが言ってたの」
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
「見た目の特徴は?」
「暗くてよく分からなかったみたい。ただ、体格ががっしりしていて、灰色っぽい外套を着ていたって」
バルドゥールはしばらく無言だった。やがて低く言った。
「東方屋で見た荷馬車を操っていた男の体格と、一致するな」
「では、本当に……」
エレノアの声が、わずかに震えた。
「工房が、見張られているということですか」
「その可能性が高い」
バルドゥールの声は冷静だったが、その奥に強い懸念が滲んでいた。
「リリアくん、教えてくれてありがとう。だが、今後はあまり夜遅くにこの工房には近づかない方がいい」
「え、でも」
「君まで危険に巻き込みたくない」
バルドゥールの言葉に、リリアは不安げな顔をしながらも頷いた。それから、ようやく気になっていたことを口にした。
「わかりました。で、あの……叔父様、その恰好、どうしたんですか? なんだか、変な感じですよ」
「……目立たぬようにしたつもりだが」
「うーん……まあ、頑張ったのは伝わります」
リリアが微妙な表情で言うと、エレノアは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。バルドゥールは特に気にした様子はなかった。リリアが静かに続ける。
「エレノアは、大丈夫なの?」
「大丈夫よ、リリア。皆さんが守ってくださっているから」
エレノアは努めて穏やかに答えたが、内心では不安が渦巻いていた。
リリアが帰った後、バルドゥールはしばらく工房の中を歩き回り、扉と窓の位置を確かめた。
「今夜から、交代で見張りを置く。ガスパールたちにも改めて伝える」
「叔父様、ご迷惑をおかけして……」
「迷惑とは思っていない」
バルドゥールはエレノアをまっすぐに見た。
「マリアの娘を守ることは、私が自分自身に残された務めだ。迷惑などという言葉で片付けるものではない」
その言葉に、エレノアは胸が熱くなった。装いはどこかちぐはぐでも、その言葉と眼差しだけは、いつもと変わらず真剣だった。
「ありがとうございます、叔父様」
バルドゥールは軽く頷き、扉へ向かった。麻の外套の裾が、慣れない動きでもたついた。
「今日は、工房を閉めておけ。しばらくは客を入れない方がいい」
「かしこまりました」
バルドゥールが去った後、エレノアは扉に「臨時休業」の札を掛けた。
窓の外、夏の朝の光が眩しく差し込んでいる。しかしその光の裏で、確かに何かの影が動いていることを、エレノアはもう疑っていなかった。
作業台の上に置かれた護身用の粉末を見つめながら、エレノアは静かに息を整えた。
それでも、先ほどの叔父様の姿を思い出すと、口元がわずかに緩んだ。不器用なのは、優しさだけではないらしい。
(母様、父様……あなたたちを追い詰めた影が、今、私のすぐ近くまで来ています)
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねる。
これまでとは違う緊張感が、工房の静けさの中に、確かに満ちていた。




