第73話 見張りの夜
その日の夕方、エレノアの工房にはガスパール、ルーカス、ディートリヒ、オスカーの四人が集まっていた。
「バルドゥール卿から話は聞いた」
ガスパールが硬い表情で切り出した。
「運河沿いの倉庫、今夜から見張りを立てる。俺とディートリヒが最初の見張りを引き受ける」
「俺とルーカスは、東方屋の方を見張ろう」
オスカーが続けた。
「両方の動きを同時に押さえておけば、もし今夜何か動きがあっても見逃さずに済むはずだ」
エレノアは帳面を広げ、これまでの情報を整理しながら四人に確認した。
「松脂と金属の匂い、そして油の匂い。もし何か動きがあれば、必ず匂いの変化があるはずです。ただ、遠くから匂いを嗅ぎ分けるのは難しいので、皆さんは音や人の出入りを中心に見てください」
「分かった」
ディートリヒが力強く頷いた。
「危険を感じたら、無理せずすぐに離れる。それでいいな」
「はい。決して深追いはしないでください」
エレノアは念を押した。四人はそれぞれ頷き、夕闇が迫る中、工房を後にした。
一人残されたエレノアは、落ち着かない気持ちで作業台に向かった。手を動かしていないと、不安が募るばかりだった。
いつもの調合を試作しながら、時折窓の外に目をやる。夏の夜が、いつもよりずっと長く感じられた。
深夜近く、扉を叩く音がした。
エレノアは慌てて扉を開けた。オスカーとルーカスが、緊張した面持ちで立っていた。
「どうでしたか」
「東方屋に動きがあった」
オスカーが低く言った。
「深夜過ぎ、店の裏口から、荷馬車が一台出て行った。積み荷は布で覆われていて、中身は確認できなかった」
「行き先は?」
「運河沿いの倉庫方向だ。俺たちが見張っていた場所とは逆方向だったから、追うことはできなかった」
ルーカスが淡々と付け加えた。
「店主とは違う男が、荷馬車を操っていた。体格からして、店で見かけたことのない人物だ」
エレノアは帳面に素早く書き留めた。深夜の荷馬車、見知らぬ操り手、運河方向への移動。
「ガスパール様たちの方は、どうでしたか」
「まだ戻っていない」
オスカーの声に、わずかな緊張が滲んだ。
「ガスパールとディートリヒからは、まだ何の連絡もない」
エレノアの胸に、不安が広がった。
「様子を見に行くべきでは……」
「いや、待て」
ルーカスが冷静に制した。
「まだ約束の時間内だ。今動けば、かえって彼らの位置を露見させることになりかねない」
エレノアは唇を噛み、頷いた。ルーカスの言う通りだった。しかし、じっと待つことの苦しさが、これまでにないほど強く胸に迫っていた。
さらに半刻ほどが過ぎた頃、ようやく扉の外から足音が聞こえた。
エレノアが扉を開けると、ガスパールとディートリヒが姿を現した。二人とも息を切らせ、額に汗を滲ませている。
「ご無事だったのですね」
エレノアが安堵の声を上げると、ガスパールは短く頷いた。
「ああ。だが、危ないところだった」
「何があったのですか」
ディートリヒが低く答えた。
「倉庫に荷馬車が着いた直後、扉が開いて数人の男が出てきた。積み荷を運び込む作業を、俺たちは物陰から見ていたんだが……」
「一人が、こちらに気づいたようだった」
ガスパールが続けた。
「確証はないが、視線がこちらに向いた気がした。すぐに離れたが、追われている感覚があって、遠回りをして戻ってきた」
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
「気づかれたかもしれない、ということですか」
「その可能性は否定できない」
ガスパールの表情は険しかった。
「積み荷の中身までは確認できなかったが、運び込む男たちの動きは慣れていた。重そうな木箱を、慎重に扱っていた。中身が壊れやすいものか、あるいは——」
「武器か」
ディートリヒが低く言った。
四人は顔を見合わせた。工房の中に、重い沈黙が落ちた。
「叔父様に、すぐに知らせないと」
エレノアが立ち上がりかけると、ガスパールが止めた。
「もう遅い時間だ。俺が明日の朝一番に伝える。今夜はこれ以上動かない方がいい」
「ですが」
「エレノア」
ガスパールの声に、真剣な響きがあった。
「もし本当に気づかれたなら、しばらくは工房の周りも警戒が必要だ。今夜は戸締りを厳重にして、休んでくれ」
エレノアは不安を抱えながらも頷いた。四人は交代で工房の周辺を見回ることを約束し、それぞれ帰っていった。
一人になった工房で、エレノアは扉と窓の鍵を何度も確認した。蝋燭の灯りを最小限に絞り、母のノートを胸に抱くようにして、作業台の前に座った。
(気づかれたかもしれない……)
もしグレゴールたちがこちらの動きを察知したなら、次に何をしてくるか分からない。証拠隠滅、拠点の移動、あるいは——もっと直接的な行動。
エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。ラインハルトから受け取ったこの護符が、今この瞬間、これまでになく重く感じられた。
『何かあった時に使え』
あの言葉が、今になって現実味を帯びて響いた。しかし、これしきのことで殿下を頼るわけにはいかない。まだ確証もない段階なのだから。
エレノアは蝋燭の炎を見つめながら、静かに夜を過ごした。
外では、夏の夜風が静かに吹いている。しかしその静けさの奥に、何かが確実に動き出しているのを、エレノアは肌で感じていた。
明け方近くになって、ようやくエレノアは浅い眠りに落ちた。
夢の中で、母が静かに微笑んでいた。
『香りは、危険も知らせてくれる。でも、それに気づいた時こそ、慎重にね』
その声を最後に、エレノアの意識は静かに闇へと沈んでいった。




