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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 城下の調香師

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第73話 見張りの夜

 その日の夕方、エレノアの工房にはガスパール、ルーカス、ディートリヒ、オスカーの四人が集まっていた。


「バルドゥール卿から話は聞いた」


 ガスパールが硬い表情で切り出した。


「運河沿いの倉庫、今夜から見張りを立てる。俺とディートリヒが最初の見張りを引き受ける」


「俺とルーカスは、東方屋の方を見張ろう」


 オスカーが続けた。


「両方の動きを同時に押さえておけば、もし今夜何か動きがあっても見逃さずに済むはずだ」


 エレノアは帳面を広げ、これまでの情報を整理しながら四人に確認した。


「松脂と金属の匂い、そして油の匂い。もし何か動きがあれば、必ず匂いの変化があるはずです。ただ、遠くから匂いを嗅ぎ分けるのは難しいので、皆さんは音や人の出入りを中心に見てください」


「分かった」


 ディートリヒが力強く頷いた。


「危険を感じたら、無理せずすぐに離れる。それでいいな」


「はい。決して深追いはしないでください」


 エレノアは念を押した。四人はそれぞれ頷き、夕闇が迫る中、工房を後にした。


 一人残されたエレノアは、落ち着かない気持ちで作業台に向かった。手を動かしていないと、不安が募るばかりだった。


 いつもの調合を試作しながら、時折窓の外に目をやる。夏の夜が、いつもよりずっと長く感じられた。


 深夜近く、扉を叩く音がした。


 エレノアは慌てて扉を開けた。オスカーとルーカスが、緊張した面持ちで立っていた。


「どうでしたか」


「東方屋に動きがあった」


 オスカーが低く言った。


「深夜過ぎ、店の裏口から、荷馬車が一台出て行った。積み荷は布で覆われていて、中身は確認できなかった」


「行き先は?」


「運河沿いの倉庫方向だ。俺たちが見張っていた場所とは逆方向だったから、追うことはできなかった」


 ルーカスが淡々と付け加えた。


「店主とは違う男が、荷馬車を操っていた。体格からして、店で見かけたことのない人物だ」


 エレノアは帳面に素早く書き留めた。深夜の荷馬車、見知らぬ操り手、運河方向への移動。


「ガスパール様たちの方は、どうでしたか」


「まだ戻っていない」


 オスカーの声に、わずかな緊張が滲んだ。


「ガスパールとディートリヒからは、まだ何の連絡もない」


 エレノアの胸に、不安が広がった。


「様子を見に行くべきでは……」


「いや、待て」


 ルーカスが冷静に制した。


「まだ約束の時間内だ。今動けば、かえって彼らの位置を露見させることになりかねない」


 エレノアは唇を噛み、頷いた。ルーカスの言う通りだった。しかし、じっと待つことの苦しさが、これまでにないほど強く胸に迫っていた。


 さらに半刻ほどが過ぎた頃、ようやく扉の外から足音が聞こえた。


 エレノアが扉を開けると、ガスパールとディートリヒが姿を現した。二人とも息を切らせ、額に汗を滲ませている。


「ご無事だったのですね」


 エレノアが安堵の声を上げると、ガスパールは短く頷いた。


「ああ。だが、危ないところだった」


「何があったのですか」


 ディートリヒが低く答えた。


「倉庫に荷馬車が着いた直後、扉が開いて数人の男が出てきた。積み荷を運び込む作業を、俺たちは物陰から見ていたんだが……」


「一人が、こちらに気づいたようだった」


 ガスパールが続けた。


「確証はないが、視線がこちらに向いた気がした。すぐに離れたが、追われている感覚があって、遠回りをして戻ってきた」


 エレノアの背筋に、冷たいものが走った。


「気づかれたかもしれない、ということですか」


「その可能性は否定できない」


 ガスパールの表情は険しかった。


「積み荷の中身までは確認できなかったが、運び込む男たちの動きは慣れていた。重そうな木箱を、慎重に扱っていた。中身が壊れやすいものか、あるいは——」


「武器か」


 ディートリヒが低く言った。


 四人は顔を見合わせた。工房の中に、重い沈黙が落ちた。


「叔父様に、すぐに知らせないと」


 エレノアが立ち上がりかけると、ガスパールが止めた。


「もう遅い時間だ。俺が明日の朝一番に伝える。今夜はこれ以上動かない方がいい」


「ですが」


「エレノア」


 ガスパールの声に、真剣な響きがあった。


「もし本当に気づかれたなら、しばらくは工房の周りも警戒が必要だ。今夜は戸締りを厳重にして、休んでくれ」


 エレノアは不安を抱えながらも頷いた。四人は交代で工房の周辺を見回ることを約束し、それぞれ帰っていった。


 一人になった工房で、エレノアは扉と窓の鍵を何度も確認した。蝋燭の灯りを最小限に絞り、母のノートを胸に抱くようにして、作業台の前に座った。


(気づかれたかもしれない……)


 もしグレゴールたちがこちらの動きを察知したなら、次に何をしてくるか分からない。証拠隠滅、拠点の移動、あるいは——もっと直接的な行動。


 エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。ラインハルトから受け取ったこの護符が、今この瞬間、これまでになく重く感じられた。


『何かあった時に使え』


 あの言葉が、今になって現実味を帯びて響いた。しかし、これしきのことで殿下を頼るわけにはいかない。まだ確証もない段階なのだから。


 エレノアは蝋燭の炎を見つめながら、静かに夜を過ごした。


 外では、夏の夜風が静かに吹いている。しかしその静けさの奥に、何かが確実に動き出しているのを、エレノアは肌で感じていた。


 明け方近くになって、ようやくエレノアは浅い眠りに落ちた。


 夢の中で、母が静かに微笑んでいた。


『香りは、危険も知らせてくれる。でも、それに気づいた時こそ、慎重にね』


 その声を最後に、エレノアの意識は静かに闇へと沈んでいった。

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